-社内勉強会- 「波佐見について」
東京西海らしい文化を育み、プロダクトへの理解を深めるため、2022年よりスタッフに向けた勉強会を定期的に開催していきます!
ここでは、そんな社内勉強会の内容を綴っていきたいと思います。
今回は、本社西海陶器の社員を講師として招き、1月19日に世田谷のショールームにて開催した第1回「波佐見について」です。
波佐見について
波佐見焼の産地である波佐見町は、長崎県の中央北部に位置し、長崎県佐世保市・川棚町、佐賀県有田町・武雄市・嬉野市と隣接しています。日本で2番目に海岸線の長い長崎県の中で、唯一の「海無し町」である波佐見町は、緑豊かな山々に囲まれた盆地の町です。
・陶石
・水
・松
・緩やかな坂
という焼き物に欠かせない条件が揃う波佐見町は、窯業に適した環境だったのです。
波佐見焼の始まり
今から約400年前に波佐見の窯業は始まりました。
1600年前後、陶器の生産は肥前(現在の佐賀県・長崎県の一部)で発展し、波佐見でも窯業(陶器生産)が始まります。
1610~1630年頃、朝鮮李朝の陶工達により、新しい技術が伝えられ、特に磁器の生産が大きく進展しました。波佐見にある全長55,4mの登り窯「畑ノ原窯跡」では、出土品の中に磁器も含まれており、磁器が生産されていたとわかっています。
歴史のある波佐見焼ですが、江戸時代には「伊万里焼」、明治時代以降は「有田焼」と称されてきたため、「波佐見焼」として知られるようになったのは最近のことです。
日用食器の産地へ
1650年代以降、中国の政権交代で中国産の焼き物を取引できなくなった東インド会社などが、その代わりとして肥前の焼物に注目したことで、波佐見にも海外輸出用の注文が殺到し、新たな窯が次々と開かれていきました。
1680年代からは中国の焼物が再び世界中へ輸出されることになり、波佐見の窯も輸出品の生産をやめ、国内向けの日用食器を生産するようになりました。
有田焼では大名や皇族への献上品を、三川内焼では美術品などの輸出品を作るなか、波佐見焼では「高価な磁器を一般の庶民が触れられる器へ」という大村藩主の御触れにより、その時代には類を見ない巨大な登り窯を築き、大量の磁器を生産することで、当時高価なものであった磁器の器を庶民の手に届く品物へと変えていきました。
有田焼(佐賀藩)・・・主に大名や皇族への献上品
三川内焼(平戸藩)・・・主に美術品などの輸出品
波佐見焼(大村藩)・・・庶民のための器を生産!
焼物の産地である三つの藩の藩境では、燃料となる薪などの伐採をめぐり紛争があったため、領地の境を示す三領石という石碑を建て、藩境を明確にする必要がありました。
くらわんか茶碗
江戸時代、淀川では「あん餅くらわんか、酒くらわんか!」という掛け声で食べ物や酒を売る小舟が繁盛し、そこで使われる器は「くらわんか茶碗」と呼ばれました。食べ終わった後の器は、川へ投げ捨てられていたそうで、使い捨てできるくらいの安価な日用品だったのです。
初期は精密に描かれていた染付の絵柄が、中期~後期には一筆書きで描かれたものが多く見られるのも、より大量の器を生産するためだったとされています。
また、この当時から郷ごとに窯の当番を分担するなど、産地一体で行う焼物作りが、現在の分業制でそれぞれの窯元が共存共生する波佐見のものづくりに繋がっています。
波佐見では窯元同士の横のつながりが強く、「この形なら〇〇で焼けるのでは?」と理想に近づけるために複数のメーカーが協力し一体となって焼きものを作っています。
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