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戦後日本リベラリズムと総力戦体制


はじめに

 「日比谷野音story100年の残響 番外編上下(東京新聞朝刊2024/01/17-18)」を読んだ。1960年代の日比谷野音(野外音楽堂)が学生運動の主舞台だったことを紹介したものだ。この新聞記事は、全共闘運動〔註1〕とは大学機構に対する学生の純粋な異議申し立てだったのだが、それを潰したのが新左翼党派(以下「セクト」)だった、という筋書きである。大雑把に言えば、全共闘ノンセクト・ラディカル〔註2〕は善であり、新左翼セクト(革マル派をのぞく主要8派=後述)は悪だという。当時、東大全共闘の山本義隆(1941~)、日大全共闘の秋田明大(1947~)という2人のリーダーにたいして世間は好意的だった。
 本稿は、その山本義隆に着目し、当時から2015年までの山本の思想形成過程をとおして、戦後日本のリベラル思想を素描することを目的とする。

註1〕全共闘運動:1960年代後半、全国の大学において、学生が政治党派を超えて結束し、全学共闘会議という組織を立ち上げ、大学機構における諸問題にたいし異議申し立てを行うとともに、当時米国の介入で泥沼化したベトナム戦争に反対する運動等を展開した。

註2〕ノンセクト・ラディカル:大学の学生自治会を掌握することは当時の既成左翼(日本共産党=民主青年同盟)および新左翼系学生組織にとって重要な政治課題だった。前出の全共闘運動では、共産党系、新左翼系のどちらにも属さずに大学内問題に対して異議申し立てを行うとともに、社会運動、反戦運動を展開する集団が登場した。彼らを、セクトに属さないラディカルな集団という意味で、ノンセクト・ラディカルと総称した。ただし彼らのなかには、アナーキズム、ブランキズム等に基づき、少数で直接行動を指向する集団も含まれていて、その一部は1970年代に入ると、東アジア反日武装戦線等の爆弾闘争グループへと変容した。

Ⅰ  山本義隆の登場

 1960年代後半、新左翼セクトが暴力革命を志向し、その主力であった大学生が学園闘争を展開していた時代、山本義隆は東大全共闘のリーダーだった。当時、彼はどこのセクトにも属さないノンセクト・ラジカルの象徴ともいえる存在で、彼の一般的イメージは、そのことを根拠として、幅広い層に好印象を与えた。政治的・革命的というよりも、社会の諸矛盾に良心的に向き合い、それを少しでも改善しようとする活動家なのだという評価が定着していた。山本が東大の大学院生であり、しかも物理学というきわめて難解そうな研究者であることが、山本のイメージ形成に一役買った。当時もいまも、日本は学歴偏重社会なのだ。もちろんそのような社会的評価が独り歩きしたことは山本の責任ではないし、彼が意図したことでもない。

第1章 闘争の原点――大学機構との闘い

 山本の闘争の原点は、大学および大学院を管理する大学機構に対する異議申し立てだった。当時、大学機構には学問の自由があり、それを担保する自治権をもっていると信じられていた。教授会が国家権力の介入に対して毅然としてそれを阻止し、自由で高度な学問の府が守られていると考えられていた。しかし、山本はそれが幻想であることを知った。研究に係る費用は軍や資本からの援助が少なからずあり、日本国は国益=軍・大企業の利益に資する研究を優遇している、教授たちの研究対象もそれを優先している――ことに気づいた。国家権力に近い教授の研究論文が虚偽に近いデータを用いているにもかかわらず、それが高い評価を受けている事実をつかんだ。山本の良心に火がついた。彼は学園闘争にのめりこんだ。
 山本の功績は、一にも二にも、大学機構の欺瞞性を明らかにしたことだった。大学機構およびアカデミアが、国家、資本、軍の統治下にあることを知らしめたことだった。当時の既成左翼に属する大学人およびアカデミア等にはそれができなかった。彼らは外部の侵入を阻むために構築された「学問の自由」「大学の自治」という虚構の、しかし高く厚い壁に守られ、安閑として「研究」に打ち込み、その結果つまり学問的業績から得た名声と特権を享受していたからだ。その根拠となったのが戦後民主主義という神話だった。
 1960年代後半に起きた全共闘運動はそれぞれの大学によって特色があったけれど、なかで山本が主導した東大全共闘運動のそれは、繰り返すが、大学機構、アカデミア、教授・研究者等の欺瞞を暴いたことだった。

第2章 構造改革派マルクス主義

 山本はノンセクト・ラジカルを代表する全共闘活動家だと書いた。山本が特定のセクトに属していたことを証明するような自身の発言もなければ、周りからの情報提供も、管見の限りみあたらない。筆者は、山本が著わしたすべての書籍に目を通したわけではないが、彼がマルクス・レーニン主義、階級闘争、革命について論究した記述に接していない。
 筆者は、山本はマルクス主義構造改革理論(以下「構改理論」)の影響を受けた者のように感じている。構造改革というと、小泉純一郎元首相が在任中に提唱した市場原理主義(規制緩和・既得権撤廃)と小さな政府を両輪とする新自由主義が思い浮かぶが、それ以前に、マルクス主義の一分派が構造改革という社会改革の方法を構想していた。彼らをマルクス主義構造改革派(以下「構改派」)という。

トリアッティとマルクス主義構改派
 構改理論は、社会が抱えている諸問題は社会の構造に起因するとする。この理論の信奉者は、社会構造を変えるという政策論に基づき社会主義を実現しようとする。構改派はマルクス・レーニン主義を任ずる「正統派」セクトから、「改良主義」「修正主義」と批判された。
 構改理論は、1940年代、イタリア共産党指導者、トリアッティが提唱した。彼の立論はコミュンテル批判からだった。コミュンテルンは、ソ連共産党の指導により結成された国際共産主義運動の中枢機関だった。世界の共産主義運動はソ連型の社会主義に倣い、かつ、ソ連共産党の指示に従って推進するよう、各国共産党に指令を出していた。トリアッティは、ソ連の権威に絶対忠誠的なコミュンテルを批判し、自国イタリアの実態に即した改革を主張した。彼の政治戦略の一番の特徴は、イタリア共産党の革命戦略を議会制民主主義的手段により進めること、すなわち、イタリア共産党を合法政党へと転換し、暴力革命を否定したことだった。トリアッティの構改理論と革命戦略の転換の提唱は、先進国の共産主義運動に大きな影響を与えた。

日本の構改派
 構改派の日本における誕生と衰退の歴史については、別掲の資料〔1〕〔2〕を参照してほしいのだが、そのあらましを書くと以下のとおりとなる。
 構改理論が日本に紹介されたのは、1950年代である。紹介者は、当時日本共産党(以下「日共」)に在籍していた佐藤昇であり、安東仁兵衛、貴島正道、政治学者の松下圭一らの手により普及した。日共内部では、上田耕一郎・不破哲三らが構改理論に賛意を示していたというが、その後、自己批判のうえ構改派批判にまわり、1960年代に入ると構改派はすべて排除されたといわれている。
 日共から排除された勢力は、社会主義革新運動準備会を経て、「統一社会主義者同盟(以下「統社同」)」「日本のこえ」「共産主義労働者党(以下「共労党」)」「社会主義労働者同盟」などを結成した。
 その一方、日本社会党(以下「社会党」)においても、構改派が江田三郎を中心に派閥を形成した。しかしながら、江田の構改派は、社会党最左派である社会主義協会の向坂逸郎(九州大学教授)、太田薫(総評議長)らにより「改良主義」「日和見主義」として非難された。1962年の社会党大会において、構改理論は「戦略路線としてただちに党の基本方針としてはならない」とする議案が可決され、構改派は後退した。 その後の党大会で江田非難決議が可決され、党書記長だった江田は辞職した。江田は1977年、社会主義協会に追われる形で離党し、江田の構改理論に基づく国家像である「江田ビジョン〔註3〕」は、新たに結成された社会市民連合に継承された。

註3〕江田ビジョン:▽アメリカの平均した生活水準の高さ、▽ソ連の徹底した生活保障、▽イギリスの議会制民主主義、▽日本国憲法の平和主義――これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとする政策

第3章 新左翼運動と構改派

 日共内および社会党内の構改派はともに党内から放逐され、いくつかの組織に分派して延命したことはすでに書いたが、これら構改系諸派に率いられた学生組織は、1960年代前期・中期における学内闘争において、一定の動員数を確保していた。

フロント
 60年安保闘争後から1967年10.8羽田闘争までの学生運動の停滞期、構改派の学生組織は各大学に拠点をもち、日共系の民主青年同盟(以下「民青」)に次ぐ勢力といっていいほどの活動家・動員数を誇っていた。たとえば、1965年の慶応義塾大学「学費値上げ反対闘争」における最大セクトは構改派学生組織「フロント(=社会主義学生戦線)」だった。フロントは「統社同」の学生組織である。
 別掲資料〔1〕によると、フロントの拠点校として、東大教養学部(以下「東大駒場」)、法大(一社会)、慶大(全塾、日吉)、新潟大(民、歯、工、教養)、立命大(文)、神戸大(教義、文、理、法、経、経営、工、農)、関西学院大(社会)、神戸女学院大、富山大などが挙げられている。
 また、全共闘運動のさなか、東大闘争における駒場の学生自治会委員長選挙では、民青からフロントに代わっている。当時のフロントは構改理論に基づく社会変革を目指していた穏健派であり、民青でもない、過激な三派系でもない――ということで、一般学生から支持を得たという。(『1968(上)』小熊英二〔著〕P706)。

べ平連
 「ベトナムに平和を!市民連合(以下「ベ平連」)」にもふれておく必要がある。1960年代、ベトナム戦争の激化にともない、ベトナム反戦を旗印に日本で結成された。
 ベ平連はその名称が示すとおり、ベトナムに対する米国の軍事的介入に反対する市民団体である。米軍の北爆開始を受け、鶴見俊輔、高畠通敏、小田実らによって1965年4月に結成された。ノンセクトの運動団体であり、規約や党費の徴収はなく、参加、脱退が自由の任意組織だと報道されていたが、構改派の一派である「共労党」の市民組織(別動隊)である。共労党幹部、吉川勇一が事務局長を務めていた。共労党と兼ねたメンバーには、いいだもも、栗原幸夫、武藤一羊、花崎皋平らがいた。

第4章 山本義隆と構改派の路線変更

 山本が構改派の同盟員もしくはそのシンパであると公言したことは、管見の限りだが見当たらない。そこであらためて、山本の政治過程を時系列的に整理する。

2年間の駒場時代の山本
 彼が大学(東大駒場)に入学したのは1960年、「60年安保闘争」の年に当たる。そこで彼は初めて「政治」に接した。当時の駒場を政治的に支配していたのはブント(=共産主義者同盟/全学連主流派)だったが、山本はブントが主導する国会デモに積極的に参加していないし、そのことを悔やむようなことを書いている(『私の1960年代』山本義隆〔著〕金曜日/以下「前掲書①」P20)。山本の政治的資質のなかに、過激さを忌避する傾向がうかがえる。この傾向は構改派と共通している。
 なお資料〔1〕にあるように、東大駒場はフロントの拠点校の一つだったが、山本が駒場に在籍した1960~1962年ころ、構改派は組織分裂を繰り返していたことはわかるが、東大駒場でどれほどの組織力をもっていたかをうかがう術が筆者にはない。

山本は本郷で「政治」に直面
 60年安保闘争が革命的左派の敗北で終わって以降、山本が「政治」に直面したのは、東大専門課程(以下「東大本郷」)に進級した1962年の大学管理法反対闘争だった。東大本郷では、今井澄(故人)、豊浦清(故人)の指導の下、同法反対闘争が闘われていた。今井は医学部、豊浦清は山本と同じ物理学科だが大学を中退し、ブントから分派したML(マルクス・レーニン主義)同盟の指導者となった。なお同年、東大当局は今井澄ら闘争参加者を大量処分し、山本も軽い処分を受けている。

「ベ反戦」を結成して反戦運動を開始
 1964年春、山本は大学院に進んでいる。同年の政治課題は日韓闘争およびベトナム反戦運動であった。ベトナム戦争激化にともない、山本は「東大ベトナム反戦会議(以下「ベ反戦」)を作っている。「ベ反戦」の中心は所美都子(東大新聞研究所研究生)で、ベトナム反戦運動を既存の政治組織に拠らずに自由な個人の集合の下、展開するという意味において、全共闘運動の先駆をなした。その組織論、運動論は、名称ばかりか、構改派の下部組織としてベトナム反戦運動を展開したべ平連ともよく似ている。

1968年秋、東大全共闘代表に
 67・68年、新左翼三派系全学連の先駆的街頭闘争を皮切りに、日本中にベトナム反戦運動、70年安保粉砕闘争がうねりを上げるなか、山本は東大物理学教室素粒子論研究室博士課程の大学院生だった。1968年1月、東大医学部と青医連が医師法一部改正・登録制度反対のためのストライキを敢行、それに対して大学側がストライキ学生の処分を発表する。反対派は全共闘(全闘連)を結成して3月卒業式・4月入学式闘争へと進み、6月15日、東大安田講堂占拠へとエスカレートしていく。医学部から発した東大闘争は全学におよび、山本は1968年10月、東大全共闘の代表となった。
 東大全共闘は、1968年末すなわち山本が全共闘代表に就任したときを境に転換する。それまで大学機構なかんずく医学部および山本自らが属した物理学科に内在する総力戦体制的遺制〔後述〕にたいする異議申し立てが全学に波及し、東大全共闘運動は激しさを増した。この間、東大全共闘は無党派・個人の自由な「組織なき組織」として機能していたといわれているが、日大全共闘運動の高揚とともに、東大全共闘運動が世間の耳目を集めるようになるに従い、東大は学内闘争から政治闘争の場へと変容する。

1.18~1.19 安田講堂攻防戦
 1969年1月18~19日、東大全共闘による安田講堂占拠にたいし、大学側が機動隊を導入し強制解除が行われた。この闘争は「安田講堂攻防戦」と呼ばれ、以降、権力側の反革命圧力が強まっていく。同年1月20日、東大・東京教育大入試中止、2月18日、日大全学封鎖解除と続いた。
 ところが、「安田講堂攻防戦」における機動隊と東大全共闘の攻防戦が2日間にわたりテレビ中継され、機動隊の圧倒的暴力に敗北する全共闘の姿がお茶の間に届けられた結果、「全共闘」が全国の大学生・高校生の心をつかんでしまった。全共闘運動は全国に波及した。全国化した要因のもう一つが、「大学立法」公布だった。政府による学園闘争鎮静化を図る立法である。それにたいする学生大衆の反発も全共闘運動を活性化させた一因である。

全共闘からセクトへ
 そればかりではない。「70年安保粉砕闘争」にむけて党勢を拡大したい新左翼セクトが各大学全共闘への介入を強化した。セクトがノンセクト活動家を自派に引き入れようとオルグ活動を積極化した。このことにより、ノンセクト派学生がセクトに引き抜かれていった。
 セクトは、自派に属する学生部隊を各大学に向けて応援として派遣するようになった。知名度の高い大学、注目が集まりやすい大学を対象とした。もちろん東大全共闘はその一つであり、世間の注目度は最も高かった。東大では日共が労働者を含む武闘部隊を派遣し、新左翼セクトと学内主導権を争い、暴力を行使した。
 「安田講堂攻防戦」において、機動隊による暴力的排除に徹底抗戦したのは東大全共闘の今井澄を隊長とした安田講堂防衛隊および日大全共闘等のノンセクト・ラディカル、そして、新左翼セクトからの選抜者という混成部隊だったが、動員数および火炎瓶、投石等の備蓄において、前者を後者が上回った。TV中継における主役は、セクトの側だった。東大に限らず、1969年に入ると、全共闘運動の主役はノンセクト・ラディカルから新左翼セクトに替わった。

山本義隆と東大安田講堂攻防戦
 筆者は、山本が「安田講堂攻防戦」について、多くを語っていないことを訝しく思っている。筆者が知りたいのは、東大全共闘とセクトの間にどのような議論が交わされたのかである。とはいえ、具体性には乏しいが、まったく触れていないわけではない。山本の「前掲書②」には、(1) 山本の内部で、政治闘争と学内闘争のふたつの路線が分裂していたこと、(2)東大全共闘の闘争の論理として、つまり、学園闘争の帰結として、大学機構と徹底に闘う路線(徹底抗戦)が浮上したこと、(3)山本が当事者として関与できなかったことへの悔恨――が記述されている。

 (1)大学院生の組織であった全闘連、あるいは青医連には、60年安保闘争や62年大管法闘争の経験者がかなり中心的な役割を果たしていたのですが、この時点で、私は、あるいは私たちは、一方では60年安保闘争と67年以来のベトナム反戦闘争の延長線上に70年安保闘争を見据えていたのであり、それゆえ中心的課題が政治に集約されるのは、ある意味で必然でした。
 ただし、誤解のないように付け加えますが、だからといって私たちは、東大のバリケードを学内の闘争と無関係になにがなんでも70年まで維持すべしと考えていたわけではありません。私たちは70年安保闘争のために東大闘争をやっていたわけではないので、学内のバリケードをどうするかは、あくまでも学園闘争としての東大闘争の論理にのっとって判断すべきものと考えていました。(前掲書①「私と東大全共闘のこと」P162~163)

(2)1969年1月、大学当局は、私たちの闘争を力づくで、つまり機動隊の暴力で、押しつぶす路線を選択したのであり、その路線を正当化する錦の御旗を作るために、私たちの闘争に一貫して敵対してきた諸君や元々闘争に関わりなくともかく早く闘争状態を終わらせたいと思っている諸君たち、つまり肝腎の医学部も文学部も含まない「7学部代表団」なる、実体は民青と右派の野合集団と手打ちをしたわけです。警察力について「原則として学内〝紛争″解決の手段として導入しない。」という内容を含むその「代表団」とのあいだに交わされた「確認書」のなんと白々しいことか。「代表団」と手打ちをしたからには、もはや「学内〝紛争″」は終了しているのであり、とすれば機動隊導入は、「学内〝紛争″」解決のためではないということなのでしょうか。
私たちは、それまでの私たちの闘争の正当性と道義性を守り抜くために、当局と国家権力の暴力的な闘争圧殺に正面から向き合わなければならなかったわけです。それが1969年1月18・19日の安田講堂を中心とする本郷の攻防戦だったわけです。(前掲書①「加藤近代化路線なるもの」P291~292)

(3)私自身は、今井澄君たちの説得と、その後の闘争の継続のことを考え、1月17日の深夜に安田講堂を離れ、日大のバリケードに移りました。(中略)正直言って、外に出て闘争を継続するより、安田に残って闘う方が気持ちの上では楽なところもあり、私が外に出たのは、もっぱら義務感からでした。
後になって、あのときの判断がよかったのかどうなのか、正直、悩みました。(中略)政治的にも、政治党派が動員した部隊にたよらず、私もふくめて東大全共闘だけでもっと大衆的な形で安田の防衛をするべきであったのではないか、そしてそのことにむけてもっと早くから議論し準備しておくべきであったのではないかと考えております。大衆的な形で全学封鎖をやりきれなかったのは私たちの限界であったと思っています。(前掲書①「その後のこと」P292)

私の1960年代

 (2)(3)の記述から推測すると、「徹底抗戦」に関する具体的戦術については、全共闘側からの提案はなかったものと思われる。山本が「私たちの闘争」すなわち東大全共闘運動の論理として「徹底抗戦」を決意したとするならば、(3)で山本自らが語っているように、セクトの部隊を排除して、純粋な東大全共闘部隊を編成して講堂にたてこもり、徹底抗戦すべきだった。
 しかしながら、結果において「徹底抗戦」の主役はセクトになった。彼らの狙いは「徹底抗戦」を使ったプロパガンダだった。彼らの狙いどおり、機動隊との攻防戦が全国にTV中継され高い視聴率を上げたことで、政治的成果(宣伝効果)を獲得した。新左翼セクトは、これまで彼らが行ってきた街頭闘争という舞台を安田講堂に変えて、派手な立てこもりパフォーマンスで、東大全共闘から主役の座を奪った。山本がノンセクト・ラディカルのヒロイックな正当性と道義性にとらわれているうちに、東大全共闘はその大義をセクト側に奪われてしまった。このとき、東大全共闘運動は、ほぼ終わっていた。(3)の山本の悔恨の情の吐露がそのことをよく表現しているように思う。

全国全共闘連合結成大会
 冒頭の新聞記事にあったように、1969年9月5日、東京・日比谷野音において、全国全共闘連合結成大会が開催された(参加者2万6千人/主催者発表)。この大会で山本が議長に、副議長に秋田明大(日大全共闘代表)が選ばれることになっていたが、そのときすでに、秋田は獄中に、そして山本にも逮捕状がでており潜伏中であった。山本は野音に入場しようとする寸前、逮捕された。
 この大会のねらいは、セクト側による勢力拡大すなわち秋に予定されている70年安保粉砕(佐藤訪米阻止)闘争に向けての動員数確保だった。全共闘に参加するノンセクト派学生を自派に取り込み、秋の決戦にむけて隊列を整えることだった。
 一方のノンセクト派全共闘にどんな戦略的位置付けがあったのかといえばなにもなかった。ノンセクト派全共闘は学内組織であって、運動を全国に有機的に拡大するヒト、モノ、カネそして事務機能=党をもたなかった。結成大会の設定もセクト主導だった。
 この結成大会にたいする後年の評価としては、冒頭に示したとおり、全共闘運動衰退の始まりであるとか、セクト主導による全共闘解体といった見方が主流になっている。この大会に「赤軍派」が登場したこともあいまって、〔セクト=極左暴力主義=悪、全共闘=ノンセクト=穏健・良心的改良主義=善〕の二項対立が定着した。
 全共闘運動衰退の要因の一つは、秋に向けて権力側が、機動隊導入による大学ロックアウト作戦を推進したことだった。大学を占拠している学生を暴力的に排除し、全学生の構内への立入りを禁止した。その結果、セクト・ノンセクト活動家はもちろん、ノンポリ(政治無関心派)学生までもが大学に立ち入ることができなくなり、学生運動の拠点は失われた。

1969年は新左翼革命運動の分岐点
 1969年は新左翼運動の分岐点だった。非日共系穏健政党の構改派は、暴力革命路線に路線を変更した。そのことと同時に、市民反戦組織(ベ平連/構改派の市民組織)および全共闘ノンセクト・ラディカル派の多くが、新左翼セクトに吸収された。その一方で、セクト、ノンセクトを問わず、全共闘に結集した活動家学生等は、権力側による大学ロックアウトにより、活動拠点を失った。
 新左翼主要8派が、(70年安保粉砕闘争の)決戦と位置づけた69年11月の佐藤首相訪米阻止闘争は不発に終わり、それに同調した全共闘運動も衰退にむかった。彼らが掲げた「決戦」は、決戦前における権力側の封じ込め作戦の前にほぼ敗北していた。
 新左翼セクトは決戦当日、機動隊の前に〈軍事的〉に敗北したばかりか、大学という拠点を失った。彼らは政治的成果をはにひとつあげられなかった。このことは、新左翼セクトに〈武装〉の重要性を認識させ、ノンセクト派の離反を促し、セクトの孤立化を招いた。結果、多くのセクトが(前段階)武装蜂起路線へと組織と戦術を純化した。赤軍派のハイジャックを嚆矢として、70年以降に繰り広げられた、火炎瓶闘争、爆弾闘争、無差別テロ、内ゲバの激化等々(「戦争勝利」というスローガンが叫ばれた)が自壊への道を準備した。1969年は「1968年革命」の〝終わりの始まり″であったという認識は正しい。

全共闘運動の限界
 歴史に「if」はないことを承知でいえば、全共闘運動にたいしてセクトがいかに介入しようとも、ノンセクト派が自陣の運動の独自性と正当性を主張し、介入を排除する意志を示せば、全共闘は離散することもなく、69年の秋を超えて継続可能だったはずだ。また、1969.9.5全国全共闘連合結成大会の開催・運営において、ノンセクト派が結集の論理と独自の組織力を構築していれば、大会を成功させることが可能だった。前出のとおり、秋田明大と山本義隆という二人のカリスマ的全共闘リーダーを失っていたことは、全共闘運動の結節点における大きな痛手ではあったけれど、二人が健在であったとしても、全共闘が全国規模で結集する思想的・組織的土壌は当時において築かれていなかった、と筆者は考えている。
 東大全共闘運動が医学部処分抗議に限定された運動で閉じたままなら、それが全国的知名度を獲得することはなかっただろう。繰り返すが、全共闘運動の全国化すなわち束の間の全国全共闘連合の結成は、セクトの積極的介入による東大安田講堂徹底抗戦のTV中継に依るところが大きかった。全共闘運動の発生時は、日大と東大の闘争が関心を集める契機となったことは確かだが、それもセクトの介在がなければ、あれほどまで世間の注目を集め、全国的に拡大することは難しかった。だから、後年の〔全共闘=善、セクト=悪〕の言説は正しくない。双方の限界を偏見なく明確に総括すべきである。

Ⅱ 市民社会派――戦後日本の社会科学の一大潮流

 マルクス主義の影響を受けながらも、構改理論とは異なる視点から戦後の社会科学をリードしたのが市民社会派である。山之内靖〔註4〕は、その学派を代表する者として、大塚久雄(『近代欧州経済史序説』/1946)、丸山眞男(『日本政治思想史研究』/1952)、川島武宣(『所有権法の理論』/1949)、高島善哉(『経済社会学者としてのスミスとリスト』/1953)、内田義彦(『経済学の生誕』/1953)、仁井田陞(『中国法制史』/1952)を挙げるとともに、大河内一男については、『総力戦体制』という山之内の著書において、1930年代から戦後にいたるまでの章をもうけ、詳細に論じている。

註4〕山之内靖(1933~2014):専門は現代社会理論、歴史社会学。マックス・ヴェーバー研究者として知られる。システム社会論、総力戦体制論などを展開。『総力戦体制』(山之内靖〔著〕、伊豫谷登士翁・成田龍一・岩崎稔〔編〕、ちくま学芸文庫/以下「前掲書②」)は彼の代表的著作である。山之内については後述する。

 この学派の特徴を山之内の「前掲書②」にしたがって挙げてみる。

  • 日本資本主義論争〔註5〕について、マックス・ヴェバーの社会学やアダム・スミスの市民社会論という、マルクス主義とは異質な方法的基盤に立って相対化、豊富化し、階級、再生産構造といったマルクスの概念のほかに、エートスとか身分状況、あるいは道徳感情といった分業関係、さらには血縁〔共同体〕・地縁〔共同体〕、官僚制といった豊かな方法的視点が活用されるようになったこと、

  • 主として日本資本主義論争における講座派の問題関心を受け継ぎながら、講座派が日本資本主義の特殊な構造的歪みを表現するものとしてもちいた〔半封建制〕という規定の意味をさらに厳密に捉えようと試みたこと、

 山之内は、市民社会派について、《マルクス主義の生産力・生産関係・生産様式・社会構成・階級関係といった、経済の領域に基礎をおく諸概念に対し、〔半封建制〕の意味を、主観や倫理、慣習といった、イデオロギー的領域ないし日常的行為についての考察に道が開かれた結果、とりわけ国家論の領域において経済学から相対的に自立した考察がおこなわれるようになった。(前掲書②「戦時期の遺産とその両義性」P168~169)》と評価している。
 ここで注目すべきは、市民社会派は〝講座派がもちいた〔半封建制〕という日本資本主義の特殊な構造的歪みをさらに厳密に捉えようと試みた″という言説である。山之内は、講座派・労農派が、日本(資本主義)について、〈生産〉に一元化しようとする傾向を脱して、〈社会構造〉にも着眼するという概念の拡大を指摘したのである。

註5〕日本資本主義論争:1930年代当時の日本が資本主義の段階にあるかどうかをテーマとしたマルクス主義経済学者たちのあいだの論争のこと。明治維新後の日本を〔半封建主義〕的な絶対主義天皇制の支配であるとみなし、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への「二段階革命論」を主張したのが共産党系の講座派である。講座派のマルクス主義者には、野呂栄太郎、山田盛太郎、平野義太郎、服部之総、羽仁五郎、大塚金之助らがいた。また、丸山眞男、大塚久雄、大河内一男、川島武宜は講座派の理論から影響を受けた。
一方、明治維新を不徹底ながらブルジョア革命と見なし、維新後の日本を封建遺制が残るものの近代資本主義国家であると規定し、社会主義革命を行うことが可だと主張したのが労農派(櫛田民蔵、大内兵衛、猪俣津南雄、土屋喬雄、向坂逸郎ら)である。当時の労農派は、〈講座派=共産党〉とちがって党派性はなく、理論集団のようなゆるやかなグループだったのだが、戦後、労農派の理論は、日本社会党内における、向坂逸郎率いる社会主義協会に引き継がれた。

Ⅲ 構造改革理論の復活

 1969年~1970年前半、構改派は構改理論から暴力革命に路線変更した挙句、他の新左翼セクトと同じように衰退し、ほぼ消滅した。ところが、それから四半世紀を経過した1990年代、構改理論は、元大蔵官僚だった経済学者・野口悠紀雄によってよみがえった。野口が1995年に著わした『1940年体制―さらば戦時経済』(東洋経済新報社)が、総力戦体制ブームとも呼ぶべき社会現象を巻き起こした。
 同書の刊行は1991年バブル経済崩壊から続いた日本の長期不況期であり、野口はその主因を日本帝国が1940年代、総力戦(日米決戦)に向けて社会各処を再編(1940年体制または総力戦体制)した非効率性に求めた。
 野口によると、敗戦から一転して高度成長をなし遂げた戦後日本の政治、行政、企業等の組織、企業経営および労使関係、さらに官民関係、金融制度などにおける日本型システムは、1940年頃に戦時体制の一環として導入された総力戦体制の延長上にあったとし、いま(1995年当時)、そのシステムが機能不全をきたしていると論じた。
 もちろん、野口のシステム論はマルクス主義構造改革理論を焼き直したものではなく、のちの小泉純一郎の新自由主義的構造改革につながるものだったのだが、両者が政治経済社会の変革について、日本の社会構造の解明から、それを改革せよという主張において共通する。野口の前掲書は、日本の新自由主義信奉者のバイブルと呼ばれた。
 そればかりではない。歴史社会学者の山之内靖は1995年、「方法的序説――総力戦とシステム統合」(山之内靖、成田龍一、V・コシュマン編『総力戦と現代化』柏書房)を、続いて1997年、「総力戦の時代」を雑誌『世界』に発表した。山本義隆は後年、山之内の著作を読んだ感想として、《「やはりそうだったのか」という感じで、まさに「腑に落ちる」というか、長年のもやもやが一挙に晴れたような気がしました。(前掲書①「高度成長の影と戦後民主主義」P232)》と絶賛している。
 1990年代中葉は、日本の社会構造が総力戦体制論を媒介にして、おおいに見直された時代だった。

第1章 山本義隆による科学技術批判

 山本と全共闘運動の政治過程を大雑把に振り返ってみたが、山本と構改派との直接的つながりは、繰り返しになるが、認められない。ただ、構改理論と山本の思想は多くの点で共通する。
 と同時に、全共闘以降、1990年代になってからの山本の社会構造批判(とりわけ大学機構・アカデミア・科学技術批判)は、山之内の総力戦体制論の強い影響下にある。そして、山之内の総力戦体制論も社会構造に着目する点において、構改理論と近い。

山本義隆による科学技術批判と総力戦体制論
 山本の日本の近現代における科学技術批判に係る論点はおおむね以下にまとめられる。

  1. 明治維新から1960年代にいたる日本には、政治-官僚-産業-軍-大学(教育・研究・科学・技術)等に通貫する関係性=構造を見いだすことができる。

  2. その構造は、アジア・太平洋戦争の直前(1940年代)、総力戦体制というかたちで完成をみる。

  3. 戦時期、総力戦体制下、マルクス主義、自由主義に属する社会学者・文化人は転向を余儀なくされ、軍・革新官僚に追随した。その一方、科学者・技術者は軍に積極的に協力し、そして優遇された。(学徒出陣は文系学生が対象で、理系学生が召集されなかった)

  4. 敗戦後の民主化にともない、前者の転向については強く反省を求められたのだが、後者は批判・非難を免れた。

  5. 日本社会は敗戦の主因について、連合軍よりも科学・技術において劣っていたことだと総括した。

  6. 総力戦体制は、敗戦後におけるGHQによる民主化、諸改革を官僚機構の温存というかたちでほぼ免れた。

  7. 科学・技術振興が戦後日本の復興の絶対条件であると、日本社会は確信するに至った。そのことは、戦時期、アジア・太平洋戦争に勝利するには、科学技術力を欧米列強国以上に高めなければならないとする、総力戦体制下の意識と変わっていない。

  8. 復興から高度成長を支えた体制は、総力戦体制(1940年体制)である。官僚機構のみならず、大学機構、アカデミアもその体制に包摂されていて、科学および技術の研究のあり方は、戦後民主主義がいうところの「大学の自治、学問研究の自由」という虚構のもとにある。

  9. 山本が全共闘運動に参加した1960年代前後から今日(2010年代)における大学機構も日本の諸機構とかわりなく、依然として、総力戦体制の影響下にある。

第2章 自己否定論と総力戦体制

 山本が総力戦体制に気づいたのは、学問・研究の自由、大学の自治、科学および技術の非政治性という戦後民主主義がつくりあげた神話、欺瞞について、東大闘争という実践過程をつうじた経験からだった。その意味で、山本はいかにもナイーブな感性の持ち主だった。そして山本自身が、総力戦体制という、時間が止まったままのような大学機構内部に属しているという嫌悪感が全共闘運動を象徴する〈自己否定〉という言語に置き換えられた。研究者を志し、日本国の最高学府といわれる東京大学(院)の研究者という席を獲ながら、総力戦体制という「神話」の世界にはいられないという自己認識が自己否定に昇華していく。やがて全共闘後の山本の思いは、『近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻(岩波書店)』(以下「前掲書③」』という新書にまとめられていく。〔後述〕
 日本の大学機構は、明治期の大学創設以来、国家と不可分の関係を維持しながら、しかもアジア・太平洋戦争を契機に構造化された総力戦体制に包摂された。では敗戦後、日本の大学機構はGHQ民主化と同時に変革されたのかといえば、表層的な「学問の自由」「大学の自治」を隠れ蓑にして、高度成長期にいたるまで保持されてきたことは前出のとおりである。

大学体育会における旧帝国軍的体質
 日本の大学機構内において、1960年代以降まで維持された「総力戦体制」を象徴する事例の一つが、大学体育会である。体育会においては、指導者・先輩による後輩、新入生に対するシゴキ、イジメ、体罰等が平然と行われてきた。その論理は「勝つため」であり、戦時体制の日本帝国軍の精神論がスポーツの指導原理として通用してきた。大学体育会が戦時体制のままの遺制を保持できたのは、「研究の自由」「大学の自治」という幻想によって、大学機構のすべてにわたり、社会の介入を拒んできたからにほかならない。1960年代、東大闘争と並行して闘われてきた日大闘争では、日大体育会の学生が日大全共闘学生に対してテロを行っていたことはよく、知られている。

第3章 山本義隆の総力戦体制論への傾斜

 全共闘運動後における山本の思想は、山之内靖の『総力戦体制』の強い影響から形成され、その延長線上に構築されている。
 2016年、山本は近代日本と自由――科学と戦争をめぐって」という講演を行い、翌年、前出の前掲書③を著わしている。同書は刊行前に行った講演を敷衍して新書にしたものだという。

山之内靖が山本義隆に及ぼした影響
 前掲書①において山本は、山之内の前掲書②からその言説を複数回引用している。それらを以下に示す。
 第一が、戦争遂行と国民の健康配慮を目的とした厚生省の設立に言及した部分・・・(1)

(1)福祉国家(welfare-state)は、実のところ戦争国家(warfare-state)と等記号によって繋がっている。(山本・前掲書①「そして東大闘争のはじまり」P106、前掲書②P17・107)

私の1960年代・総力戦体制

 第二が、今日の科学研究体制がすべて戦争を本質的契機として形成されてきたとする箇所で、同じく抜粋して引用している。・・・(2)

(2)「戦後の社会構造は、戦時動員体制の研究を抜きにしては考察し難い」とあります。すなわち「総力戦体制下、特に1940年代において活躍した戦時官僚たちが、敗戦過程において、その組織温存に成功し、戦後改革および経済復興の指導的役割を担った」のであり、戦後の経済復興過程で「新たな総力戦体制としての高度成長国家の転換」が図られたのです。(前掲書①「とくに東大工学部のケース」P218)

私の1960年代

 第三は、1960年代から表面化した公害闘争、基地問題といった資本・国家権力の犠牲となった者の声がで始めたことを契機として、その重要性を強調した箇所・・・(3)

(3)かつてマルクスは資本主義がもたらす高度な生産力は、身分、階級、地域、国境を超えた普遍的な連帯を可能にすると考えたのであった。階級支配のための抑圧機関として国家を欠くことのできない資本家階級にたいし、労働者階級は資本主義が用意した普遍的な連帯を実現する世界史的な使命を帯びている、とマルクスは主張した(『共産党宣言』)。しかし、労働者階級はマルクスの予言とは異なって、今日では国民国家システムの内部に統合されている。これにたいして「新しい社会運動」は、マルクスが挫折したまさしくその場所を自らの出発点にする。「新しい社会運動」は資本主義がもたらした高度な生産力に期待するのではなく、むしろ資本主義的生産力がもたらす合理化がその裏側にはらまずにはいない非人間性ないし非合理性を問題化する。「新しい社会運動」もまた、従来型の社会運動と同様に、資本主義システムに内在する運動に他ならない。しかし、それは資本主義がもたらす高度な生産力にプラスの意味を付与するものではなく、資本主義的生産力が伴わずにいないマイナスの意味に着目する。その点で「新しい社会運動」は資本主義システムの範囲外にその立場を求めている。(前掲書①「高度成長の影と戦後民主主義」P228~229、前掲書②P109~110)》

私の1960年代・総力戦体制

 第四は、戦後民主主義の本質について、山本がもっとも腑に落ちた説明だとする箇所。かなり長い引用である・・・(4)

(4)総力戦時代が推し進めた合理化は、公生活のみならず、私生活をも含めて、生活の全領域〔を〕システム循環のなかに包摂する体制をもたらした。戦後日本に成立した憲法は民主主義の原理を高らかにうたいあげたという点で一つの頂点にまで達したといってよい。にもかかわらず、この民主主義は、戦時動員によってその軌道が敷かれたシステム社会によってその内容を大幅に規定されていた。ここにおいて実現された福祉国家(welfare-state)は、実のところ戦争国家(warfare-state)と等記号によって繋がっているのである……このような状況のもとでの民主主義的改革は、国民国家による統合をより強化するという傾向から自由でありえない。
 現代社会が陥ったこのジレンマについて、一体、いかなる処方箋がありうるのであろうか。ここで我々は、社会科学者たちが「新しい社会運動」と呼んでいる一連の批判的な抗議運動に注目すべきであろう。これまでの社会運動は、国民国家において十分な政治的ないし社会的処遇を受けてこなかった社会層を主な担い手とするものであった。これらの社会層は、国民国家において正当な社会的評価を受ける価値があることをアピールすることによって、市民としての権利を獲得することを目指して運動してきた。この従来型の社会運動は、彼らの民主的権利を獲得することによって国民国家の市民として社会的に統合される道を歩んだのである。この従来型の運動は、国家市民としてのその性格のゆえに、要求の実現を通じて体制内に制度的に組み入れられることになったのであり、その結果、不可避的に国家の内外において統合から取り残された社会層を生み出していった。体制内統合によって獲得される民主主義的権利は、不可避的に排除と差別を制度化してゆくのである。
 これに対して「新しい社会運動」においては、担い手となる特定の社会層を限定することはできない。ここでは、社会的出自にかかわりなく、運動が掲げるシンボル的目標に共鳴する人々が集合する。ここでは、運動は自分たちの市民的権利の国民国家的レヴェルでの制度化をめざすのではない。典型的には公害や資源の乱開発をめぐって登場した市民的反対運動があげられるであろう。……この運動にとって最も重要な特徴の一つは、国民国家の内部に自己の権利を獲得することを目的とするものではないという点にある。むしろこの運動は、安易な権利の制度化がシステムへの統合をもたらすことに対する警戒をその本質としている。この特徴ゆえに、「新しい社会運動」は国際的な連帯にむかって開かれたものとなっているのである。(前掲書①「高度成長の影と戦後民主主義」P231~232、前掲書②P107~109)

私の1960年代・総力戦体制

第4章 「新しい社会運動」

 山本は山之内のこの箇所を読んだときに、「私たちが60年代末の全共闘運動の過程で、明確な言語的表現を与えられないまでも敏感に感じとっていたことであります」と述懐している。山本は山之内の総力戦論から、社会の構造の変化に着目する手法を学び、全共闘運動の大義を再確認したようだ。
 山本が引用した山之内の言説を整理すると、

〔総力戦時代が推し進めた合理化〕〔システム循環のなかに包摂する体制〕〔戦後日本に成立した憲法は民主主義の原理〕〔この民主主義は、戦時動員によってその軌道が敷かれたシステム社会によってその内容を大幅に規定されていた〕〔ここにおいて実現された福祉国家(welfare-state)は、実のところ戦争国家(warfare-state)〕〔このような状況のもとでの民主主義的改革は、国民国家による統合をより強化する〕・・・㋐

 〔これらの社会層は、国民国家において正当な社会的評価を受ける価値があることをアピールすることによって、市民としての権利を獲得することを目指して運動してきた〕〔これまでの社会運動は、国民国家において十分な政治的ないし社会的処遇を受けてこなかった社会層を主な担い手とする〕〔従来型の社会運動は、彼らの民主的権利を獲得することによって国民国家の市民として社会的に統合される道を歩んだ〕・・・㋑

 〔この従来型の運動は、国家市民としてのその性格のゆえに、要求の実現を通じて体制内に制度的に組み入れられることになった〕〔その結果、不可避的に国家の内外において統合から取り残された社会層を生み出していった〕〔体制内統合によって獲得される民主主義的権利は、不可避的に排除と差別を制度化してゆく〕・・・㋒

 すなわち、①において戦後民主主義の実態、その限界、その批判→②戦後民主主義のもとに展開されてきた対抗運動の実態とその主体の明確化→③従来型対抗運動がもたらした結果=体制内に組み込まれ、排除と差別を制度化――してきた、とする。
 ここまでの展開はわかりやすい。そして山之内は、このジレンマを処する処方箋として、社会科学者たちが「新しい社会運動」と呼んでいる一連の批判的な抗議運動を挙げる。

 〔「新しい社会運動」においては、担い手となる特定の社会層を限定することはできない。ここでは、社会的出自にかかわりなく、運動が掲げるシンボル的目標に共鳴する人々が集合する〕・・・㋓
 〔(新しい社会)運動は自分たちの市民的権利の国民国家的レヴェルでの制度化をめざすのではない。〕・・・㋔
〔典型的には公害や資源の乱開発をめぐって登場した市民的反対運動があげられるであろう。……〕・・・㋕
 〔この運動にとって最も重要な特徴の一つは、国民国家の内部に自己の権利を獲得することを目的とするものではない〕〔この運動は、安易な権利の制度化がシステムへの統合をもたらすことに対する警戒をその本質としている〕〔この特徴ゆえに、「新しい社会運動」は国際的な連帯にむかって開かれたものとなる〕・・・㋖

 ㋓では新しい社会運動の担い手が明かされる。社会層、社会的出自にかかわりなく運動(のシンボル)に共鳴する人々の集合である、と。
 ㋔では運動の目指す方向が明かされる。市民的権利の国民国家的レヴェルの制度化ではない、と。
 ㋕では、その具体的事例として、公害や資源の乱開発をめぐって登場した市民的反対運動が挙げられている。
 ㋖最後に、運動の特徴として、権利獲得でないこと、権利の制度化、システム化を警戒するものであること、国際的連帯にむかって開かれることだ、と。
 山之内の「新しい社会運動」については、《Melucci,op.citに依るところが大きい。山之内靖・矢沢修次郎「A.メルッチへのインタヴュー《新しい社会運動と個人の変容』」『思想』1995年3月号、をも参照。/前掲書②P130/第2章註(41)》とある。
 参考までに、Wikipediaのメルッチの項目を下記に引用しておく。また、資料〔4〕に、Wikipediaの「新しい社会運動」を転載した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%81%8B%E5%8B%95

 労働者階級の家に生まれ、左派カトリック文化の中で育つ。ミラノ大学の大学院でタルコット・パーソンズの構造機能主義やカール・マルクスの思想を学び、哲学の修士号を取得。その後、1968年に起こった学生運動など強い主義主張を持った他に不寛容な運動に触れ、それに拒否反応を覚えるとともに、そのような運動がいかに形成されているかに興味を持つ。そして、1970年にパリに赴き、アラン・トゥレーヌの下で博士課程を学び、後にトゥレーヌ論を纏める等、トゥレーヌの新しい社会運動論に強い影響を受ける。ミラノ大学で教授を務めた。 マルクスの「階級」という概念が社会的資源の生産においておこる摩擦の中で資本主義社会特有のものしか説明しきれないとし、ユルゲン・ハーバーマスの生活世界の植民地化への防御的反応としての社会運動という捉え方を社会運動内の行為者やその指向の多様性を無視するものとして批判し、多様な側面を持つ現代の「複合社会」における社会運動の新しさに、女性活動家・エコロジスト・新宗教といったグループに対するミラノでの実証的研究を元に光を当てた。

Wikipedia

第5章 「新しい社会運動」の課題

 山之内は、「新しい社会運動」について、アルベルト・メルッチの提起を以下のように整理している。わかりやすいので、長いが引用する。

現代社会における〈新しい社会運動〉が〈旧社会運動〉と違うのは、第一に自分たちは第二級、第三級市民として差別されているから社会の中で正当な権利を認められるべきだという、いわば制度化を要求する運動、これは歴史的な使命を果たし終えたし、今後持続するにせよ原理的には終えたんだ、と。そうではなく、社会システムの中心に未だに働いている近代の原理そのものが生み出している諸問題について、これにいわば美的な観点から疑問符を付けていくのが〈新しい社会運動〉だ、ということです。そういう意味では、市民社会の中に権利として設定され、正当化されていくようなタイプの運動ではない運動です。〔後略〕 だから、フェミニズムというのが出てきたから「これは新しい、だから〈新しい社会運動〉だ」というのではなく、フェミニズムの中にも、単に第二級市民としての女性を第一級市民に認めよというにすぎないような制度化要求もあるわけです。しかしそういう問題ではなくて、自分たちの生活スタイルを「これでいいのか?」というふうに問い掛けていくような意味の運動、そうした運動であるとすれば、そうしたフェミニズム運動は〈新しい社会運動〉を構成する一部なのだ、ということです。そういう意味では、まさに「美的感覚に基づく運動が政治的意味を持つ」という時代に我々は入ってきているのだと。つまり、明確に論理的には形象しがたいような、「これは美しいだろうか、醜いだろうか」というような領域に関わってくるだろうと、私は思っているわけです。〔中略〕 〈旧社会運動〉というのは、何か自分たちの階級とか身分とか、そういうものを固定した上で、そういう階級や階層、身分というものが新社会のシステムの中でどういうふうに位置づけられるべきか、正当な権利を認められるべきかというかたちで組み立てられた運動でした。そうしたタイプの運動は今後もやられるし、大いにやるべきだと思うんですが、それだけではいつも必ず〈国民国家的体制〉あるいは〈世界政府的体制〉でもいいんですが、そうしたものを強化していく運動を永遠化していくことになります。我々はもう、近代以来の我々の生活スタイルを根本から問い直すという次元にきているのだと。〔後略〕(前掲書②「補論 特別インタヴュー  総力戦・国民国家・システム社会」P447~448)

総力戦体制

 山之内がいう「新しい社会運動」に近い運動が、2020年前後の日本の首都東京で起きている。新国立競技場建替え反対運動と外苑再開発反対運動である。これらを事例として考察してみる必要があろう。なぜならば、前出の山之内の言説の中にはとても気になる箇所があるからだ。その発言とは「新しい社会運動」について、《「美的感覚に基づく運動が政治的意味を持つ」という時代に我々は入ってきているのだと。つまり、明確に論理的には形象しがたいような、「これは美しいだろうか、醜いだろうか」というような領域に関わってくるだろうと、私は思っているわけです。》という部分である。筆者は、失言に近いのではないかと受け止めている。

新国立競技場建替え反対運動、外苑再開発反対運動
 山之内がいう資源の乱開発というのは、こんにちでは環境問題と言い換えられる。現在進行中(2024年1月時点)の運動としては、明治神宮外苑の再開発(以下「外苑再開発」)にたいする異議申し立てがある。この運動は山之内のいう「新しい社会運動」の典型的事例の一つのように思える。既存政党が主導権をもった運動というよりも、市民、学生、著名な芸術家、文化人、環境保護団体等――すなわち階層・出自を超えた者――が、「神宮の森を守る」というシンボルに共鳴して運動を展開している。そして環境保全が美的価値を含むがゆえに、運動のエネルギーとなっていると思えるからだ。  
 外苑再開発にたいする異議申し立てがどのような結果に終わるか見えない段階ではあるが、再開発計画が中止となり、現状維持となったとしても、あるいは再開発事業者が反対派を押し切ったとしても、そして、なんらかの妥協点をみいだして両者が矛を収めたとしても、筆者は、それぞれの結末が情況に変化を生じせしめるとは思わない。この「新しい社会運動」に限れば、筆者は、日本の社会システムを変えるムーブメントになりうるとは思っていない。  
 外苑再開発計画に先だち、2020東京五輪開催に向けた国立競技場建替え問題が浮上したことはよく、知られている。競技場建替え反対の声は、近隣の自然環境を保全することを主眼とするもので、外苑再開発反対運動とよく似た性格のものだった。
 ところが。この反対運動は次第に、建替え計画における建築家ザハ・ハディドによる新国立建築デザインに反対する運動へとシンボル化し、当局が建築デザインを隈研吾案に差し替えたところで漸次鎮静化した。けっきょくのところ新国立競技場の建替えは強行され、運動が情況に変化をもたらすことはなかった。
 この運動に深く関わった一人に取材したところ、ザハ案にかわって隈研吾案になったところで、運動は求心力を失い、自然消滅してしまったという。総括会議もなく、もちろん総括文書も残さなかったとのことだ。あの運動はなんだったのか――参加者がわからないのだから、外部の者にわからないのは当然のことであろう。
 外苑再開発反対運動の終着点はどうなるのか。過去の新国立競技場建替え反対運動の幕引きに鑑みての筆者の見立てでは、再開発計画事業者によるなんらかの当初計画の修正の提案をもって鎮静化するように思う。「新しい社会運動」の主体の結束力の脆弱性、異議申し立ての出力が一過性的であり、これらの運動が発展的連鎖をうまない限界性をもっていると思うからである。ノンセクト派全共闘運動の限界性と似たような運動の質が見いだせないだろうか。
 そのことについて、『対論1968』(集英社新書)のなかで、元新左翼活動家だった笠井潔と絓秀実が次のように話している。「新しい運動」ならぬ「古い運動」なのかもしれないが、筆者はおもしろい指摘だと思う。

笠井 ――やっぱり、〝組織”的な何らかがないと持続も難しいし、それ以上に、今みたいに何にもない状態のところから運動を立ち上げることなんか、ほぼ不可能ですよ。(中略)誓約性の高い活動家集団が必要だという点は賛成です。その上で、民衆の中に蓄積された蜂起の記憶のようなものが、運動を持続させたり高揚させる力としては〝組織”以上に大きいと思う。実際〝60年安保”という大闘争の記憶が、ほとんど神話的な、〝歴史の始まり”のような出来事として人々の中に残っていたわけです。どうにかしてそれに匹敵するような体験をしたいものだ、という欲望が、60年代半ばまでの新左翼学生運動を根深く捉えていた。(中略)蜂起や叛乱の記憶が皆無のところに、例えば綱領だけあったとしても、党派も活動家集団も持続的に存在しえないと思う。
しかしその〝神話の伝承”それ自体が、今の大衆運動からは消えてしまって・・・
笠井 そうだね、困ったものだ。
(同書P238)

対論1968

「建国記念文庫」
 いま(2023/2/23)現在、外苑再開発反対運動に取り組んでいる者から、外苑にある「建国記念文庫」の取り壊しを非難する声が上がっていることも気になる。「建国記念文庫」とは、以下のような目的・意義で建設されたものだ。

 建国記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。
 建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。
 礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。

 昭和44年(1969)2月11日
 元建国記念日制定審議会長 菅原通済 記

新宿区の歴史

 日本の祝日として「建国記念の日」が定められたことには議論があった。建国の日を特定できる史的裏付けがないからだ。アメリカ合衆国の独立記念日7月4日は、1776年の同日に独立宣言が初めて公に読み上げられ、英国からの独立が正式に宣言された日であるから、特定できる。フランスの革命記念日7月14日は、1789年の同日、フランス国民にとって絶対王政の終わりと共和政の始まりを象徴するから、共和国建国と同義である。
 日本の建国記念日は、神話に基づいたものである。そして、神話を信じる人びとが制定希望・意見書を集めて、寄付を募り書庫を建てて保管した。保管された資料は、建国を裏付ける史的資料ではない。
 「その礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。」とあるが、これも史実に反する言説である。大和の一勢力が、日本列島の東にある他の勢力を武力で制圧したことが「平和国家の確立」なのだろうか。大和勢力による東方侵略、植民地主義の「確立」ではないのだろうか。
 「建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い」という文言はさらに疑わしい。日本に稲作が伝わったのは縄文時代の終期。 福岡市の板付遺跡(約2400年前)、青森県田舎館遺跡(約2000年前)から水田の跡が発見されているという説がいまのところ有力である。その時点をもって「建国」とする根拠はありえない。まして2月11日である根拠は皆無である。
 ところが、外苑再開発反対運動に参加する一部の者からは、「建国記念文庫」と外苑の緑が織りなす景観が美しいから、取り壊しに反対するという。景観の美醜からではなく、建国記念日制定と、その原動力となった政治集団による「建国記念文庫」建設に伴う、戦前回帰イデオロギーこそを議論すべきではないのだろうか。

第6章 東大全共闘運動は「新しい社会運動」の先駆けだったのか

 山本が「新しい社会運動」に共鳴したのは了解できる。山本による東大全共闘運動の理念は、大学機構にたいして何らかの要求を出して、大学機構からなにがしかの回答(成果)を得ようとするものではなかった。そこが民青の自治会運動とのちがいだった。もちろん東大全共闘運動も大学機構にたいして具体的な要求をだしているが、それは大学機構に根底的変革の契機を求めたものであり、当局が呑めるようなものではなかった。当局がそれを呑んでしまったら、大学機構は崩壊する。山本は大学機構から経済的利得や補償を得ようとしたわけではなく、「新しい社会運動」を目指していた、と筆者は解釈する。

全共闘運動は階級や出自を超えた運動
 それだけではない。山本は新左翼セクトと共闘をしたけれど、新左翼セクトの目指す路線とは微妙なところで一線を画していたことはすでに述べた。セクトは大学を革命の拠点とすることを目的にしたから、プロレタリアートと学生大衆が意識のうえで闘争の主体として一体化しようとした。それにたいして、東大全共闘もしくは山本自身は、プロレタリアートという階級すなわち〈社会的階層〉や、セクトに属する者という〈出自〉に限定する意識をもっていなかった。
 山本にとっての東大全共闘における運動のシンボルとは、帝国主義的大学の解体であり、大学機構が国家権力・資本・軍とのあいだに築いた強固な関係を断ち切ることだった。だから、東大全共闘運動は、東京大学~学問・研究機関~日本のアカデミアの拠点という場にこだわり、主体の変革=自己否定をシンボル(象徴)化した運動であり、そのシンボルに共鳴する者であればいかなるセクトであろうとも、ノンセクトであろうとも、学生・労働者・資本家・・・を問わず受け入れようとした。すべてに解放された大学の実現である。

山本の自己否定論の核心
 だがしかし、当時の山本を筆頭とする東大全共闘は、セクトの組織論から逃れられなかった。このこともすでに述べた。そのとき山本は、自己が研究者すなわち東大という権力側に属した大学機構の一部であることを、それこそ、自己否定してみせた。だが、セクトが牽引する政治路線、階級闘争にたいしても承服しかねる自分がいた。そして彼は、その地点でとどまったまま、逮捕され獄中に入ってしまった。そこにこそ、山本義隆が掲げた、シンボル化した運動の原点、すなわち〈自己否定の論理〉の核心があった。自己否定は、〈大学機構に属する自己〉の否定であり、〈セクトの政治路線と訣別できない自己〉という、二重の絶対的関係性に囚われている自己を否定することだったのではないか。そして、自己否定から脱出を図るための社会科学的アプローチとして、階級闘争を必須とするマルクス主義ではなく、〈脱 階級闘争・社会構造に着目・社会システム論〉に接近していったのではないか。

Ⅳ 山之内靖の総力戦体制論

 山本が共感・酔心した山之内靖の総力戦体制論とはどのようなものなのか。1997年、雑誌『世界』に掲載された「総力戦の時代」を読んでみよう。同論の大筋は、二つの世界大戦が国家の構造を総力戦体制に変え、それが世界を近代から現代へと進めたというものである。

第1章 総力戦の時代

 対外戦争が総力戦という形態に変化したのは第一次世界大戦(以下「WWⅠ」)からだった。それまでの戦争は軍と軍の戦闘だったのだが、WWⅠからはタンク、航空機、潜水艦、毒ガスといった新兵器の登場により、戦争の概念が一変し、戦争は狭義の前線の戦いでなくなり、国内の日常生活すべての領域までをも動員せざるを得ない性格のものとなった。このような変化は、それまでの職業軍人の能力の限界性を明らかにし、軍人は変化した戦争(総力戦)には適さないという結論をもたらした。総力戦の司令塔は、前線のみならず、国内戦線の諸問題――産業・交通・教育・宣伝・輸送、等等――を配慮する能力を要するようになったからだ。総力戦は軍事戦略にもとづく軍人ではなく、政府官僚によって企画され、統制されなければならない国家的事業となった。
 第二次世界大戦(以下「WWⅡ」)においては、都市の無差別攻撃による非戦闘員の大量殺戮、ナチスによるホロコースト、日本帝国による真珠湾奇襲攻撃・朝鮮人強制連行・南京虐殺、アメリカによる原爆投下による民間人大量殺戮はその頂点である。
 戦争は前線においてというよりも、一国全体のあらゆる資源――経済的・物質的資源のみならず、知的能力・判断力・管理能力・戦闘意欲を備えた人的資源、さらにはそうした人的資源を情報操作によって制御し得る宣伝能力という新たな資源――を動員しうる官庁組織によってこそ、遂行され得るものとなったのである。(前掲書①「総力戦の時代」 P14を要約)
 『総力戦体制』における山之内の核心は以下の箇所である。緊張感あふれる名文だと思われるので、長いが引用する。

 来るべき将来の戦争(総力戦)は、前線の将軍によってではなく、今日の諸官庁のような安全で閑静な、陰気な事務所の内部から、書記たちに囲まれた「指導者」によって運営されることになる。第一次世界大戦により、戦争は、武器が高度のテクノロジーを駆使する精巧な機械へと変身したことに対応して、人間のあらゆる能力を全国民規模で動員するところの、無機質なビジネスとしての性格を完成させたのである。
 戦争はロマンとしての一切の性格を失う。だが、それだけに却って、戦争における死をいやがうえにも栄光に包み込むイデオロギー装置が、不可欠なものとして要請されることとなる。戦争としての死が、前線だけでなく国内においても、例外なく平等に訪れる国民全体の運命となったこと、このことは、国民というフランス革命いらいの概念に、まったく新しい意味を与えることになった。国民とは、政治に参与する権利と義務をもった者たちの呼び名ではなくなり、死に向かう運命共同体に属する者たち、死を肯定するに足る情念を共有する者たちの呼び名となった。この情念を共有しえない者は、非国民として倫理的に糾弾された。国民という名称は、こうして、敵国および敵国に属するあらゆる人びとからは区別され、彼らとは絶対に相いれることのない文化的価値を有する者、戦争において死の運命を共有する者、という意味を帯びるようになる。国民のイデーは、世俗生活を統括する情念でありながら、事実上、宗教となった。「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)としての国民概念は、総力戦時代に完成する。
(中略)
 総力戦体制が社会にもたらしたもう一つの変化は、階級や身分といった国民の上下関係や差別を平準化する力学をはたらかせることだ。国家の危機が国民の運命共同体としての平等性を与え、政治的権利としてのデモクラシーという理性的要請をはるかに超えた感情的動員力を形成する。近代政治は行政(中央官庁)にたいして、議会によって決定された法案の忠実な執行者という限界をはめていた。しかし、総力戦時代の中央官庁とそのエリートたちは、死の運命共同体としての国民というイデオロギー装置を駆使することによって、こうした制約を突破するチャンスを掴みとることができた。(前掲書②「総力戦の時代」P14~16)

総力戦体制

 山之内の総力戦理論のもうひとつ重要なところは、「自由の国」アメリカ合衆国にたいする論及だと思われる。日本帝国が対米戦争を前にして社会の「改革」を進めたのが革新官僚とよばれるエリートたちであり、かつ、ドイツも同様に、ナチス官僚が動員国家=行政国家へのルートを用意した。アメリカ合衆国でもWWⅠがニューディール時代の大統領府を誕生させる歴史的起点たなり、官僚がこの新政策の舵取りを担った。

 ・・・第二次世界大戦の構図を非合理的で専制的なファシズム型(ここにはドイツ、イタリア、日本が含まれる)と、合理的で民主的なニューディール型の体制(ここにはアメリカ合衆国、イギリス、フランスが含まれる)の対決として描きだす方法である。
 以上の見解には、今日でもそれなりの妥当性が見いだせるといってよい。しかし、こうした見解だけでは解き明かせない問題がすでに我々の周辺をとりまいているのも確かである。ニューディール型の民主主義体制ははたして我々に望ましい社会を約束したといえるであろうか。それは、確かにあらわな全体主義体制にたいしては民主的であったといえるのであるが、巨大化した国家官僚制の支配をもたらしたし、また、企業や学校や医療その他のあらゆる組織において専門家を頂点とする中央集権的なハイァラーキーを生み出したという点で、民主主義のありかたにおいて問題をはらむものであったといわねばなるまい。また、そこにおいては、官僚制的硬直化にたいする批判的対抗勢力として期待される労働運動でさえもがすでに体制の一部として制度化されたのであった。ニューディール型の民主主義体制においても、社会のあらゆる分野は巨大化した組織へと編成されたのであり、批判的対抗運動もシステムの存続を脅かすものではもはやなくなってしまった。その意味において、そこにもある種の全体主義と呼んでよい兆候が現れていたのである。
 そこで忘れてはならないのは、ニューディール型の社会といえども、二つの世界大戦を経過することによって、そこから不可逆的な変化をこうむったということである。(中略)ニューディール型の社会もファシズム型の社会がそうであったのと同様に、二つの世界大戦が必須のものとして要請した総動員によって根底からの編成替えを経過したとみるべきである。とするならば、我々は、現代史をファシズムとニューディールの対決として描きだすよりも以前に、総力戦体制による社会の編成替えという視点に立って吟味しなくてはならない。ファシズム型とニューディール型の相違は、総力戦体制による社会的編成替えの分析を終えた後に、その内容の下位区分として考察されるべきである。(前掲書②「方法的序論」P61~63)

総力戦体制

 山之内によるWWⅠ~WWⅡ後の現代史の見方について、筆者は全面的に同意する。いまだに、世界を専制的国家群(ロシア、中国、北朝鮮、イラン等)と民主的国家群(G7=米、英、仏、独、伊、加、日)等の対立という虚構の構図を固定化した「世界地図」が描かれている。民主的といわれるG7は、イスラエルによるパレスチナ人虐殺を支持するばかりか、軍事援助を惜しまない。重装備のイスラエル軍が無抵抗のパレスチナ人非戦闘員を殺戮する現状に世界各国の人民が抗議のデモを繰り広げても、それをまったく無視するのが「民主主義的国家群」なのである。WWⅡが終結して80年ちかくの時が流れながら、民主主義的と言われる世界の国々も専制的といわれる国々と大差ない。

第2章 社会システム論

 山之内の総力戦体制論には、システム社会という概念が登場する。システム社会とはいかなる社会をいうのであろうか。山之内は次のように説明している。

  • 世界がふたつの世界大戦を通じて近代世界が終わり、現代社会がはじまった。

  • WWⅠにより、戦争は総力戦というかたちに転じた。総力戦とは、戦場における軍どうしの戦いではなく、国家のあらゆるパワーを賭して国民すべてがなんらかの立場で参戦する「戦争」をいう。

  • とりわけWWⅡを特徴づける総力戦体制は、近代社会がそこに内在した資本主義が調停不可能な階級対立をはらむ「階級社会」であったものを、戦争に向けて国家すべてが総力をあげて戦争勝利にむかうために合理的に社会を再編する体制(すなわち総力戦体制)を必要としそれをつくりあげた。

  • その結果、「階級社会」から――諸利害を社会的に異なった役割へと再編成した機能主義的な――「システム社会」へ移行した。

  • この異なった役割ごとに機能主義的に再編成された社会を「システム社会」と呼ぶ。

かつての『資本論』をめぐる構想のアナロジーとして語るとすれば、総力戦体制は現代のシステム社会が成立するに当たり、その本源的蓄積過程としての役割を担ったのであった。(前掲書②「戦時期の社会政策論」P133~134)

総力戦体制

 上記のとおり、総力戦体制が近代から現代へと歴史をすすめたというのが、山之内の見解である。

第3章 日本帝国における総力戦体制

 日本帝国における総力戦体制とは具体的にどのような体制だったのだろうか。法制度および政治動向からみてみよう。

国家総動員法
 国家総動員法(1938年施行)は、総力戦体制=1940年体制を代表する法制度である。同法の内容は別掲の資料〔3〕のとおりである。その名称のとおり、平時、戦時において、戦争に勝つため、政府が国民の権利および自由な経済活動・文化活動を制限する一方で、軍備増強に資するための統制、調整に係る規定が定められている。
 戦時においては、全国民を無条件で戦場に送ることができる国民徴用令、労務統制、賃金統制、労働争議の制限・禁止のほか、 物資統制、電力調整令、 貿易統制、 金融統制、会社経理統制令、銀行等資金運用令、資金統制、工場船舶の管理収用、工場事業場管理令、土地工作物管理使用収用令、 鉱業権、砂鉱業、水の使用収用、価格等統制令、 言論統制、新聞紙等掲載制限令などが定められ、国家、国民が総力戦に臨むよう体制整備された。
 また、平時規定として、 国民登録制度、医療関係者職業能力申告令、国民職業能力申告令、 技術者の養成、学校技能者養成令、 試験研究命令なども定められ、兵器・軍事技術の開発が強く求められた。

大政翼賛会
 政治における総力戦体制を象徴するのが、大政翼賛会の成立である。1940年10月、 立憲政友会、立憲民政党、国民同盟、社会大衆党が 一国一党を目指し、新体制運動・国民精神総動員運動・反共主義・反資本主義を掲げて結社した。当初、ナチスドイツのような一党独裁を求めたが各党間の調整が難航し、衆議院の院内会派として成立をみた。
 その後、日米開戦から約5ヶ月を経た1942年4月に実施された衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、466名(定員と同数)の候補者を推薦し、全議席の81.8%にあたる381名が当選した。
 1942年5月、傘下組織である「日本文学報国会」が結成。同年6月、「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本婦人会」、「大日本青少年団」の6団体を傘下に統合した。
 同年12月には「大日本言論報国会」が結成された。また、興亜総本部も設置され、「アジア主義団体」の統制も行った。こうして大政翼賛会を中心に戦争下での軍部の方針を追認し支える翼賛体制が完成した。

総力戦体制と1930年代
 国家総動員法公布、大政翼賛会成立は、日本帝国が1940年代から本格駆動する総力戦体制を象徴するインシデントである。しかし、筆者は1920年代中葉から1930代における日本帝国の動向に注目する。このあたりの年表をみると、総動員体制が一朝一夕にして構築できないことをよく示している。

〔1920~1930年代の日本社会年表〕
1925年 治安維持法公布・普通選挙法公布
1927年 共産党員検挙
1928年 特高警察設置
1928年  3月15日、共産党系の活動家を大量検挙[三・一五事件]
1929年  4月16日、共産党の大規模検挙[四・一六事件]
    10月24日、ニューヨーク株式市場大暴落。世界恐慌
1931年 満州事変
1932年 5.15事件
1933年 小林多喜二、拷問死。
    滝川幸辰、京都帝大を休職処分となる[滝川事件]
1934年 中野重治(1931年に日本共産党に入ったが検挙され)転向
1935年 天皇機関説事件、美濃部達吉不敬罪の疑い(起訴猶予)
      国体明徴の政府声明
1936年 2.26事件
1937年 日華事変
1938年 総動員法公布
1940年 大政翼賛会結成
1941年 真珠湾攻撃(英米に宣戦布告)

軍部、特高警察、右翼による思想・言論弾圧
 1920年代後半の日本共産党弾圧以降、自由主義者、社会主義者、共産主義者への言論・思想弾圧が強まっていく。美濃部の「天皇機関説」に反発し排撃することで政治益主導権を握ろうとした軍部・右翼団体が、時の岡田内閣に迫って国体明徴の政府声明を出させた。国体明徴とは、天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であるとした宣言をいう。美濃部の憲法関連書籍は発禁となった。
 自由主義的、社会主義的、共産主義的な思想家、文学者、芸術家などへの弾圧は年々厳しくなり、小林多喜二への拷問から獄死を契機として、共産党員が続々と〈転向〉した。1932年に「労芸」は解散し、1934年2月には、コップのなかの文学組織であった日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)も解散を表明した。

市民社会派の転向
 Ⅱで取り上げた市民社会派の動向を確認するため、前出の「日本資本主義論争」の一方である講座派の影響下にあった大塚久雄、丸山眞男、大河内一男らの動向を追ってみる。
 大塚久雄は「いわゆる前期的資本なる範疇について」(1935年)を、大河内一雄は『独逸社会政策思想史」(1936)を、丸山眞男は「政治学における国家の概念」(1936年)を発表している。山之内靖は、これらの作品はいずれも近代資本主義がもたらす問題性を鋭く摘出する立場を取っており、当面する時代の難局を切り開くためには、ヨーロッパ近代に始まる社会システム(=資本主義)について、その根源に遡る批判が不可避であることを自覚していた(山之内・前掲書②)と説明している。
 その代表が丸山で、〝ファシズムのイデオローグたちは自由主義民主主義を排撃するときにしばしばこの上に「ブルジョワ的」という形容詞を冠する。しかし、今日は市民階級自体がもはや自由主義の担い手たることをやめて、「全体主義」の陣営に赴いている時代である。19世紀においてブルジョワ自由主義を語るのはよい。20世紀においてなおそれを語るのは無知にあらずんば欺瞞である”〝ファシズムは市民社会の本来的な傾向の究極にまで発展したものである”と書いていたという(山之内・前掲書②)。
 この言説はいわばファシズム、全体主義批判である。1936年といえば、天皇機関説を発表した美濃部達吉に不敬罪の疑いがかけられ、 国体明徴の政府声明が出された前年である。
 ところが、1937年の日華事変、38年の国家総動員法成立を境として、《日本資本主義論争(近代資本主義批判)の言説は潮の引くように減退していった。そして、日本の社会科学をリードする市民社会派が形成されるのは、まさしく、この言説上の転調と軌を一にしていた(山之内・前掲書①「日本の社会科学とヴェーバー体験」P300)》という。
 例えば、大塚久雄の場合――彼は「新興工業としての化学工業」(1939)を発表したのだが、その主意は「満州事変以後、明治いらいの財閥の外側に、技術者型の革新的企業が続出しはじめたことに注目し、旧財閥と新興財閥の性格類型の相違を強調しながら、ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にある問屋制商業資本(大企業)と産業資本(中小企業)のタイプの相違に類似しているとした。山之内は、《ここでは、ヴェーバーの論点は軍需インフレの下で生産力拡充はへと向かう日本社会の分析へと、無批判的にかさね合わせられている。ここで無批判というのは、ヴェーバーにあっては国家権力の庇護をうけることなしに、あるいは、国家権力の庇護を拒否して台頭してくると描写されているタイプが、「国策産業」である新興工業のタイプと「類似している」と規定されているからである。(前掲書②P301)》と、大塚の立論の瑕疵を指摘している。
 大河内一雄の場合――《『スミスとリスト」という著作において、「経済統制の理想はそれが一つの秩序として、統制経済体制として、摩擦なき循環の方式を見いだす状態を創りだすことであり、また、この状態の下において各人がその経済生活において統制をもはや統制と感じないような状態を創りだすことにある」。「経済倫理が新しく求められているという場合、それはこの戦時経済秩序の確立という国民経済の基本的課題を離れては存在し得ないのである。戦時経済を一つの秩序として確立し、これまでの経済組織をそれに適合せしめるには、大なり小なりの強制や勧説が不可避であるが、何よりも求められているのは経済生活それ自身の内部から湧きあがる積極的な経済生活の心情である」。「新しい経済倫理が決して飛躍的な形で獲得されるものでないことは、例えばかの「経済人」の経済倫理が成立するためにはマックス・ヴェーバーの著名な研究が示しているように、長い宗教上の戦いと訓練を必要とし、信仰によって仲介されることを必要としたのをもって想像し得るであろう」。、てモノをもって相沿い据えるのである。(前掲書②P301~302》と、大河内の変節を示している。
 ほかにも、日本の市民社会派が、ヴェーバーの『儒教と道教』と接触することにより、アジア的伝統性からの脱却という脈絡で援用され、日本の先進性、中国の後進性というテーマと結びついたという、山之内の指摘も重要である。アジア的伝統からの脱却が、戦時体制創出に必要とされる合理的精神と深く関わったという事実である。こうして市民社会派は、特高・軍部・右翼からの弾圧を免れた。
 1920~1930年代にかけて、右翼団体、軍部、特高が強権的に共産主義からリベラル派までを弾圧した期間、知識人の多くが転向を余儀なくされた。日華事変で開始された日中戦争下、日本帝国は、「危険思想」を抱く知識人等の転向すなわち無力化を完了し、総力戦体制という合理的国家運営に注力することが可能となった。市民社会派もその中に含まれていたのである。
 なお、これはさらなる検証が必要なテーマではあるが、「危険思想」のなかには、天皇を頂点とする国家社会主義を目指した陸軍内の皇統派と彼らを理論的に領導した北一輝らが含まれていたと思われる。統制派(=総力戦体制推進派)が、皇統派が蹶起した「2.26事件」を鎮圧したことを機に軍部の実権を握ったことも、総力戦体制完成の一因となった可能性もある。 

第4章 大河内一男、山之内靖、山本義隆

 大河内一男→山之内靖→山本義隆の三者には、皮肉と思われる関連性がみいだせる。大河内は1962~1968年、東京大学総長の職にあった。在任中の1968年に東大闘争が発生し、同年11月1日、全学部長、評議員とともに紛争の責任をとって辞任し、法学部教授加藤一郎が総長代行となった。加藤体制になったのち、機動隊導入による「安田講堂攻防戦」があり、入試中止を経て「平常化」へと東大は邁進した。
 加藤体制に移行する前、つまり、山本(東大全共闘代表)が対峙したのが、大河内(東京大学総長)だった。前掲書①には、山本のこんな文章が載っている。

 処分からようやく4カ月後に大河内総長が学生の前に出てきました。しかしこの会見は信じられないものでした。出てきたら、体にコードが付いているのですよ。つまり会見の場に心電図をつけて出てきて、開口一番「私の心電図のコードを切った人がいる」というのです。ほんと、漫画です。そして30分くらい責任逃れと開き直りのようなことを言って、会見は中断しました。付き添ってきた教授が「総長はお疲れなので少し休養すると言って引っ込んでいきました。そしてそれで終わりです。ほんとうに体が悪いのであれば、代行をたてて休養するなり、あるいは辞任して新執行部を早急に選ぶべきであり、そうでないのならば、弱々しい老人を学生がいじめているみたいな芝居がかった演出をすべきではないでしょう。大河内総長が心臓病を患っていたというような話は、私が記憶するかぎりで、東大闘争の前も後も聞いていません。(前掲書①「本部封鎖・講堂解放をめぐって」P127~128)

私の1960年代

 闘争中、山本がその心性を疑った大河内であるが、山本が「目から鱗が落ちた」と絶賛した山之内の総力戦体制論に強い影響を与えたのが大河内が戦時中に構想した社会政策論だった。大河内の論考がなければ、山之内の総力戦体制論も成立しなかった、とはいいすぎかもしれないが、強く影響されたことはまちがいない。山本は闘争中、大河内総長を罵倒に近い表現で批判しているが、自分が山之内を介して大河内に間接的影響を受けたことを公にしていない。そればかりではない。山本は彼の著書のなかで、次のように書いている。

 経済学者の大河内一男は1940年のエセー「技術と社会立法」で、労働力保全のための社会立法について「労働力に対する保全は、ただ労働力の量的調達にとって条件となるだけではなく、また産業社会そのものの生産機構の安定化、その順当な再生産のための不可避な手続きなのである。この意味で、社会立法は単なる倫理の問題ではない」と語り、産業報国会に対する政府の通牒が、その中枢機関たる労使懇談のための委員会の懇談内容として「能率増進」とともに「待遇、福利、共済、教養」その他を挙げていることにたいして「この問題の所在が反省され、それへの解決の最初の一歩が踏み出されることは、我が国の労働史上極めて革新的な出来事」と高く評価している(『工業』1940.2)。大河内は、平時においては実現までにきわめて長期を要する社会政策――労働力の保全を目的とする社会システム全体の合理的編成――を、戦争がきわめて短期間に実現したことに着目し、そのことを高く評価していたのである。「福祉国家=戦争国家」にたいする大河内のこの評価について、山之内はコメントしている。
 大河内が、自らの理論的活動をもってかの日本精神主義の非合理的・神話的モーメントと対決するものだと自覚していたことは明らかである。・・・だが、にもかかわらず、大河内のこうした理論活動は、日本型ファシズムとトータルに対立するものだったのではなく、むしろ、もっとも合理的な思考に立って日本型ファシズムに存在の根拠を与えるものであった。(「戦時期の遺産とその両義性」山之内、二〇一五所収)
  この一文は、(中略)「戦時体制が必須のものとする近代化によって日本社会のより合理的な編成が可能となる」と考え、ファシズムへの協力を表明したのである。
 後進資本主義国としての封建制の残渣や、右翼国粋主義の反知性主義にたいする非合理にたいして、近代化と科学的合理性を対置し、社会全体の生産力の高度化にむけて科学研究の発展を第一義に置くかぎり、総力戦・科学戦にむけた軍と官僚による上からの近代化・合理化の攻勢にたいしては抵抗する論理を持ち合わせず、管理と統制に簡単に飲み込まれていったのである。(前掲書③P193~194)

近代日本150年

第5章 山之内による大河内評価

 山之内は、日本帝国下、総力戦体制によって生じたシステム社会について、前掲書②のⅢ(第4章 戦時期の社会政策論、第5章 戦時期の遺産とその両義性、第6章 日本の社会科学とヴェーバー体験――総力戦の記憶を中心に、第7章 1930年代と社会哲学の危機)において複数の柱を立て詳論している。その大筋は、戦時期における大河内一男の経済社会論の評価・批判である。
 山之内は、大河内の問題意識を以下の点で肯定的に評価している。

  1. 時代状況の変化に応じて経済学古典の読み方にも革命的といってよい変化が必要とされていることを明示した点

  2. この点を激しく問題提起することによって、近代の社会科学にたいして方法の革新を要求している点

  3. イギリス功利主義の社会哲学がすでにその時代的使命を終えたことを明示している点

  4. 社会科学の領域においても「近代の超克」が必要不可欠な課題となっていることを指摘した点

 ここで山之内がいう「近代の超克」とは、いうまでもなく、日本帝国が天皇制ファシズム国家としてアジア・太平洋戦争に突入した1942年、文芸誌『文學界』(同年9月および10月号)に掲載された、13名の評論家による座談会のことを念頭においたものである。同座談会は1940年代、日本帝国の近代社会が終わりを遂げ、現代社会へ移行したことの象徴的表現である。
 山之内は、「近代の超克」座談会を日本型ファシズムを主導した京都学派の思想的動向として、戦後民主主義礼賛の立場から批判する市民社会学派(丸山眞男、大塚久雄ら)に異議を唱え、その視点から大河内の社会政策論の再評価を試みる。山之内は大河内が1949年に書いた「労働政策における戦時と平時――戦時立法の所謂「遺産」について」を引用しつつ、戦時期の通説――イギリスの経済学者コーリン・クラークによる、戦時期の経済は一種の「混乱期」に他ならないのであるから、その時期に固有な政策的対応ないし制度化は平和の回復とともに解除され、戦前の正常な状態へと復帰がはかられるべきである――を批判する。
 次に、「戦時経済は、その物的設備や人間的要因の点からみても、産業構造の点からみても、単なる消耗の期間ではなく、戦後のいわば新しい経済秩序を媒介し、それと不可分の関係にある」とする。
 大河内の言説を日本の戦前・戦中・戦後に照らしてみると、〝戦前・戦中は日本経済社会が旧態依然とした非効率、停滞、混乱の時代であったのだが、戦後におけるGHQの民主的改革(たとえば財閥解体、農地改革等)により、日本経済社会は新たな発展の機会を得て、復興、高度成長をはたした″とされる通説にたいして真向から批判を加えたことになる。
 さて、大河内は日本帝国下の戦時動員を次のように肯定的に評価する――戦時動員は、日本資本主義が明治いらい創出してきた日本に固有の労働力型をいよいよ利用するという方向性をもっていたことは確かでありながらも、戦時動員が日本型労働の型を崩壊せしめることにより軍需生産力の正常な展開を図らなければならないという矛盾に直面し、その解決に取り組まなければならなくなったことだ、という。
 その結果、戦後諸改革に先立ち、戦時動員が新たな構造改革をはたした事例を以下、列挙する。①8時間労働制度、②軽工業から重化学工業への重心移動、③その結果として、出稼ぎ女子労働者群=工女から青年男工への切り換え――である。①について補足するならば、戦時期に蔓延した「過度労働」の行き詰まりとその適正時間への模索を直接的に継承したものだという。
 それだけではない。山之内は大河内の社会政策論の正当性の根拠を、『国民国家と暴力(アンソニー・ギデンス著)』および『監視・権力・モダーニティ。1700年から現代にいたる官僚制と規律(クリストファー・ダンデカー著)』をもって援用する。

〇アンソニー・ギデンス:

 20世紀に生を受けた者ならば、軍事権力、戦争準備、そして戦争それ自体が社会的世界に与えた巨大なインパクトについて一瞬たりとも否定したりできようはずがなかろう。(だが残念なことに)これまでの社会理論は主潮流においては、この厳然たる事実を理論のうちに組み込む努力は払われてこなかった。例えば社会学においては、家族、階級、逸脱等はおなじみのテーマになっているが、戦争および軍事制度、ないしそれにともなう暴力が近代社会にとってもつ意味は、まともに論じられなかった。(前掲書②「戦時期の社会政策論」P145)

総力戦体制

〇クリストファー・ダンデカー:

 これまでの社会理論において、市民的権利の拡充を目指す民主化の方向は、自ずと国家の権力的性格と対立すると性格をもっている、と前提されてきた。しかし、現代的な国民国家の登場とともに、市民的権利は国民国家の発展とまさしく並行して拡充されるようになったのであり、その意味で、官僚制的規律の強化、および軍事動員体制による全社会的統制の拡大と矛盾するものではなくなった。ダンデカーから現代社会の成立にかかわる印象的な諸定義を援用すれば、以下のようである。「世界戦争の軍事的至上目的は、現代国家の監視能力を軍事をこえて劇的に拡大した」。「鉄道とともに、戦争に向けた全社会の動員が可能となった。・・・軍事組織と社会の間の区分という18世紀的特徴は解体した。官僚制的軍事マシンは社会それ自体へと拡大した」。「近代官僚制的マシンの出現は、戦争と平和の区分を解体するという結果を伴った」。「戦争の産業化と民主化は、戦争と平和、軍事と非軍事の区分を曖昧にした」。(中略)「戦争の圧力と軍事的有効性のための政治的欲求は、確かに、多くの社会を衝き動かして社会構造の近代化へと向かわせた。ここに言う近代化とは、産業発展であり、また、権威主義的たるとリベラルとを問わず、市民権の拡充である」。(前掲書②「戦時期の社会政策論」P145~146)

総力戦体制

  そのうえで、山之内は日本の戦後について次のようにいう。

 なるほど、1945年の敗戦とともに日本は大規模な戦後改革に取り組むことこととなったのであり、しかも、新憲法は国際紛争を解決するための軍事力行使を放棄するという、人類の歴史に前例のない決断を世界に向かって表明した。それとともに、労使関係に関する民主的法規が整備され、財閥解体や農地改革も遂行された。しかし、にもかかわらず、大河内の見るところによれば、そして現代の社会理論がその先端において展開しはじめた議論に従えば、日本のこの戦後改革も、総力戦時代に進行した社会の国民的動員と統合によって、その根本的性格を大幅に規定されていた、ということになる。平和憲法下での戦後諸改革にもかかわらず、その後に現れた日本の社会構造は、総力戦という未曽有の緊急事態に迫られて着手された社会改造によってその方向性を決定されていた。と大河内は見ているのである。(前掲書②「戦時期の社会政策論」P147)》

総力戦体制

 山之内の総力戦体制論が大河内の社会政策論の強い影響のもとに書かれたことがうかがえる。山之内は、(日本の)敗戦直後という時点で、大河内は戦時動員体制のなかに不可逆的な構造変動のモーメントを読み取っていたと絶賛しているが、そればかりではない。山之内は、大河内が戦時体制と戦後民主主義の連続性を予見していたとの持論を開陳しているのである。

 戦時社会国家の体制において、経済の外側にあるとされる倫理は経済の内側にあらねばならいと考えるに至る。そして経済することの中から倫理を掴み出し道義を鍛え上がる構想は、戦時動員という歴史的時代にあって、民主的な参加のモーメントを最大限に生かそうとするものであった。しかし、大河内における民主的参加のモーメントは決して国家総動員と背反するものではなく、むしろ、主体性・自律性を戦争体制に内包しようとする試みであった。それは、消費生活、余暇生活を含め、日常生活のすみずみにいたるまでを戦争経済の総循環に組み込むこと、このことをその理想像として描きだしたである。戦後日本のいわゆる民主主義社会は、このような戦時期の構想と果たして無縁なところで成り立ったのであろうか。(前掲書②「戦時期の遺産とその両義性」「P201》

総力戦体制

 この疑問文の回答は、〝戦後日本の民主主義社会は、戦時期の構想と無縁どころか、その延長線上に成り立っていた″となるにちがいない。山之内はこう続ける。

 ・・・戦時動員体制が日本社会の構造転換において果たした役割は大きかった。それは民族全体の生と死にかかわる危機という運命的共同性を梃子として、国民生活全体を私的な領域から公的な意味をもった社会的領域に移し換えた。そのことによって、日本社会に付きまとっていた伝統的な――あるいは近代的な――生活の格差は公開の場へと強制的に引き出され、質的に均等化されるとともに水準化された。財閥解体や農地改革は、あるいは民法による家父長制の廃棄や労働法の新設による労働組合の公認として必然化されたと見るべきである。すべての家族や世帯が生命や財産について甚大な犠牲を負わされるとき、一部のものが特権的な格差を持続することは許されなかったのである。(前掲書②「戦時期の遺産とその両義性」「P208)

総力戦体制

 さらに戦後日本の資本主義についても、《戦時動員体制が押し進め、戦後改革によって制度化されることとなったこの強制的均質化(Gleichschaltung)を前提としてその驚異的な発展を開始する。(前掲書②「戦時期の遺産とその両義性」P208)》とつけ加えている。

第6章 山本の大河内批判

 山之内による大河内評価は、前出の山本が引用した箇所がその核心ではない。山本は、山之内による大河内にたいする批判箇所を手前に都合のいい部分だけを引用して、大河内を貶めているにすぎない。
 大河内は、山本が引用した山之内の言説のとおり、日本帝国というファシズム国家に飲み込まれた不幸な学者だった。1940年代の日本帝国は、天皇という土俗的権威を頂点とするカルト宗教で民衆を洗脳統治し、東亜(アジア)征服を目論む帝国主義者とそれを支えた軍部等(軍国主義者)に引っ張られ、そして、それらを中央集権的に統制する革新官僚がすすめた合理主義的行政国家という――多様な要素のアマルガム――総力戦体制国家を完成させた。大河内の社会政策論が革新官僚の理論的後ろ盾の一つになったかもしれないが、だからといって、彼がファシズムにたいして無力で、かつ、日本帝国のお抱え学者だったと片づけることはできない。
 山本が心服する山之内は、大河内の学問的功績を評価したうえで、天皇制ファシズムの強いエネルギーに抗すことができなかった当時の知識人の限界を批判した。山本義隆は山之内の大河内批判をつまみ食いするように引用し、大河内を批判というよりも一方的に貶めた。しかし、山本が絶賛した山之内は、大河内について、《戦時期の大河内は、恐らく、この時代の日本の社会科学者として最も先進的な研究に取り組み、かつ、最も体系的に思考した人物であった。〔後略〕(前掲書①「日本の社会科学とその両義性」P209)》と評している箇所には目をつぶった。筆者には、山本による大河内批判を受け入れることができない。

Ⅴ 核兵器の出現と総力戦の終焉

 筆者は総力戦体制が近代から現代に移行させたという見解に異議を挟まないが、戦争の形態としての総力戦はWWⅡ以降、不可能となったと考えている。総力戦は、アメリカによる広島・長崎への核攻撃をもって終わった。なぜならば、アメリカと対立するソ連が核を保有したことにより、双方が核を打ち合えば、米ソのみならず全世界が滅亡することになるからだ。

冷戦下の戦争
 WWⅡ終結後の世界は、米ソという二つの超大国の間における冷戦という均衡状態におちいった。冷戦は米ソが敵対しつつも、双方の持ち場を尊重する「戦争」だった。総力戦が不可能となった局面における米ソの対立は、双方が核兵器を使用しないという前提の戦争にとどまった。1945~2023年まで世界各所で多くの戦争が起きたが、総力戦として戦われた戦争はない。朝鮮戦争では、社会主義陣営が北側にたいして軍事・経済援助をし、限定的に解放軍を送った。一方の米国は南側にたいして、自国軍隊を主力とした国連軍を派兵したが、先の世界大戦と比べれば、その規模は小さかった。そして戦況が均衡した時点で停戦となった。
 ベトナム戦争は、米国の南ベトナムへの軍事介入にたいして、ソ連は朝鮮戦争と同様、極めて限定的に対処した。それでも、南ベトナムは負けた。

冷戦終結後の世界
旧ユーゴスラビア解体後の複雑な紛争も総力戦とは異なる。セルビアとスロベニア、セルビアとクロアチアとの間の戦闘からユーゴスラビア紛争が始まった。クロアチア紛争は長期化し泥沼状態に陥ったが、この戦争も総力戦という概念から外れる。
 とはいえ、総力戦体制という国家システムが、冷戦期・冷戦後の世界において、完全に消滅したわけではない。資本主義国家は、ナオミ・クラインがその著書『ショック・ドクトリン』で明らかにしたように、惨事便乗型政策を発動し、強権的政策遂行および国民の国家への忠誠を促すようになった。アメリカで起きた「9.11」同時多発テロ事件(2001)は、「テロとの戦い」というアメリカ政府のスローガンの下、国民の合衆国への再統合を促して軍事作戦容認の世論を醸成し、二度にわたるイラク戦争への道をひらいた。
 その一方、世界経済は様変わりした。ミルトン・フリードマンらシカゴ学派経済学者の新自由主義経済論は、ニューディール政策、福祉政策、諸規制について、自由市場に対する国家の関与であると批判した。そして、資本側も市場原理主義を待望した。冷戦終局近く、シカゴ学派に倣って経済運営を進めたのが、アメリカ大統領のレーガン(任期期間 1981年1月20日 – 1989年1月20日)、イギリス首相のサッチャー(在任期間 1979年5月4日 - 1990年11月28日)だった。二人は、それぞれレーガノミックス、サッチャリズムという新自由主義経済政策を推進し、経済、社会の諸分野における規制緩和、福祉切捨てを押し進め、小さな政府づくりへと邁進した。やがて、新自由主義経済推進勢力は、政府内に資本の代理人を常駐させるような国家をつくりあげた。新自由主義は福祉すなわち社会のセイフティーネットを漸次消失せしめる方向に舵を切り、国家による富の再配分を最小限にとどめようと努め、弱者を切り捨てる格差社会をつくりあげた。その仕組みは、社会構造を合理化するという手順を省略した、資本による社会の直接支配である。

世界資本主義システムが上位で国民国家の方が下位体系の世界

 ・・・国家機能は、少なくとも先進産業諸社会においては、すでに完了の段階に入り、その役割を果たし終えたといってよい。ネオ・コーポラティズムの役割が終焉し、国家の果たす統制的機能が大幅に後退しつつあるかにみえるのはそのためである。(中略)この先さらに国家は後退を重ねてゆき、マルクスの予想した「国家の死滅」過程が、「無階級的」なポストモダン文化の波に乗って進行してゆくと見るならば、それは甘すぎるだろう。
 ・・・一見、国家の後退と見えるこの事態のなかに、国家の果たす役割の変化が示されていること、言いかえれば、国家が統制機能において新しい課題を担う地位に就いたということを見届けなければなるまい。世界大の規模をもつ自己組織体系として資本主義がその姿を整えるに伴い、先進産業社会の国家装置は、世界資本主義システムの安定的成長を支える下位体系として機能するようになったのである。(中略)資本主義は、世界システムとして自己維持的性格を獲得し得たのであり、それに伴って、国民国家の方が下位体系としてこの自己維持システムの成長に貢献すべく、編成替えされたのである。(前掲書②「戦時動員体制の比較史的考察」P58)

総力戦体制

 この記述は、国家が上位体系で資本が下位体系という総力戦体制という国民国家の構造が変容したことを明言したものである。がしかし、これは総力戦体制の終焉宣言ではない。資本主義と国民国家の関係の入れ替わり――新たな編成替えが完了したことの確認である。2020年代の日本国は、世界資本主義システムの進行より遅れて、その過程にある。

おわりに

 ここまで、戦後日本における主たるリベラリズムの潮流として、①全共闘ノンセクト・ラディカル派、②マルクス主義構造改革派、②市民社会派――についてを概観してきた。これらに共通するのは、ロシア革命を成功させたレーニン主義革命論に規定されない社会変革を志向するところにある。①を代表する山本義隆は、彼の全共闘時代に言語化しきれなかった闘争の論理を、なんとおよそ30年後の山之内靖の「総力戦体制」という論考のなかにみいだしたと述懐している。それは「戦後民主主義」という神話の否定と換言される。 
 山本の述懐は、敗戦後、GHQによって強制された「戦後民主主義」の自由と平等は、戦時動員体制が押し進め、戦後改革によって制度化されることとなった、強制的均質化(Gleichschaltung)を前提としたもの(山之内靖)であることの気づきだった。日本帝国時代における戦時体制に醸成され構造化された臣民としての一体感――「戦争としての死が、前線だけでなく国内においても、例外なく平等に訪れる国民全体の運命(山之内靖)」――に通底するものとして実感されたのではないか。
 戦後80年ちかくにもなる日本社会において、「わが国(日本国)は、民主主義を自ら勝ち取った経験がない」との言説がいまだに説得力をもって語られる。アメリカ合衆国を含む西欧諸国は、啓蒙主義→革命→共和国という定式をほぼ経験した。1789年のフランス革命以降、欧米各国の社会は、資本主義経済の下、保守・リベラリズム・社会主義が並立する近代社会へと移行し、その後の二つの世界大戦が近代から現代へと歴史の針を進めた。
 日本帝国の歩みを振り返ると、開国から維新を経て立ち上がったばかりの建国期、列強からの自国防衛(富国強兵)を国家目標とした。そして、封建遺制を残しながら、近代化・専軍国家づくりに邁進し、日清・日露戦争を経て、列強と肩を並べる帝国主義国家を目指しつつ、ほぼその目標に到達した。仕上げが、「大東亜共栄圏」から「世界最終戦争」という妄想的世界制覇の野望だった。そこに登場したのが「総力戦体制」という軍と官僚が独裁的に国家を運営するシステム社会の構築だった。国内体制が完了したところで、欧米帝国主義国家に向け宣戦布告したものの逆襲され、完膚なきまでに叩きのめされた。
 戦勝国は日本帝国の武装を解除し、強制的に〝革命なき民主主義国家”への移行を命じた。およそ80年間存続した日本帝国は滅亡した。
 新生・日本国はGHQに命じられ諸改革に取り組み、復興に成功し、1950年代後半から70年代にかけて高度成長を遂げた。だが、その原動力・推進力をみると、戦時下に構築された総力戦体制と同質の強固な官僚的行政国家体制を基盤としたものだった。
 1960年代、日本社会の極小的相似形である大学を中心にして、日本建国以来初めての「革命」が試みられたが挫折し、おおかたの社会主義勢力は衰退、もしくは消滅した。と同時に、生き残ったリベラル派および社会主義派は右傾化した。いわゆる「1968年革命」の挫折後に押し寄せたバックラッシュにより、日本社会は保守化・右傾化・戦前回帰へと収斂しようとしている。
 政界を見ると、「共産主義」を掲げる共産党は民主集中制を温存したソ連型スターリニズム政党であり続けたままだ。また、2019年、俳優の山本太郎が設立したれいわ新選組には、山本太郎自身をアイコンとするポピュリズム・国民社会主義(ファシズム)の影がちらつく。同党は究極的平等を実現しようとする福祉国家の再来を目指している。彼らが描く国家像、社会像は、拙稿で検証してきた総力戦体制による強制的均質化(Gleichschaltung)の実現にある。
 リベラルの本家・社会党(社会民主党)はほぼ消滅し、一度は政権を取ったことがある立憲民主党とその分派である国民民主党は、支持母体である連合(労働組合)ともども、保守に包摂されようとしている。
 社会主義、リベラリズムが退潮する一方で、保守勢力は、日本維新の会、都民ファースト、参政党ほかいくつかの小党を分立させ、保守系連立政権(自民党・公明党)を側面から支えている。
 日本のリベラリズム・社会主義の政党が弱体化した主因は、 総力戦体制時に構築された福祉国家というビジョン(システム化された段階の国家像)にとどまったままだからではないか。そして日本の保守が強固なのは、総力戦体制の司令塔である官僚機構に政・財・学が紐づいたままだからではないか。そして、日本のリベラル・社会主義・保守はそろって「戦後民主主義」を金科玉条のごとく奉っている。2020年代、日本国はまちがいなく行き詰っている。
 山之内は、前掲書①(「補論 特別インタヴュー 総力戦・国民国家・システム社会」P444)において次のように書いている。

 絶えず内的な葛藤を通してより高次の人間の解放された世界へと歴史が進展していく」というような意味での、そういう社会理論。〔中略〕これは絶えず〈より優れた方向を生み出していくような力〉と〈そうでない力〉という二項対立を前提とする議論を生み出さざるを得なかったわけです。しかし、システム化された段階へと移行していくとともに、そうした二項対立が成立しなくなっていきます。例えば、戦時期と戦後期の間に、断絶というよりも連続がみられるとすれば、戦争と平和は二項対立的には処理できませんし、民主化と国民国家的統合も対立概念ではなくなっていきます。ですから、そうしたリアリティを、目を逸らすことなくしっかりと受け止めたうえで、どのように新しく批判理論を構成していくべきかを考えるべきだろうと思うんです。

総力戦体制

                〔完〕


【資料篇】

〔1〕『学生運動辞典-構造改革系各派』

【構改派の系譜】構改派はもともと、50年代後半ごろから顕在化した日本共産党内部の戦略論上の意見の対立から生まれてきたものである。 いわゆるイタリア共産党のトリァッチ路線の導入によって、理論形成が行なわれた。 それはひとくちにいえば、日本の現状を日本帝国主義が自立発展しているとし、日本革命の戦略は直接的に社会主義革命をめざす一段階革命であるとするものであった。 この理論は共産党中央の二段階革命戰略とするどく対立し、構改派は60年安保後相ついで脱党あるいは除名された。 したがって、構改派の学生、運動を理解するためには、その上部政治団体のたどった通程との関連においてこれを知る必要があろう。 いま、それを略記すると次のようになる。
日共第8回大会36年(1961)7月8日、中央統制監査委議長春日庄次郎は、党の新綱領草案に反対して脱党、つづいて中央委員・ 山田六左衛門、 西川彦義、内藤知周、亀山幸三、中央委員候補・内野壮児、原全五が春日に同調して脱党。 この7名が全国世話人となって、36年10月7日から3日間、創立総会を開き、社会主義革新運動準備会を結成した。議長・春日庄次郎、副議長・山田六左衛門、事務局長・内藤知周。
ところが″反日共中央”で大同団結した社革内部は、社革の性格を各グループの連絡協議組織とし、構造改革論を主柱に、目共、社会党、無党派(セクト)などから同調者を糾合しようとする春日らの″サークル派〟と、前術党を目標として綱領を持ち、ただちに組織整備に直進せよという、西川らの″綱領派”との対立が激化。 37年2月の第3回全国委員会で、参院選対策をめぐり遂に分裂、春日派は4月正式に離脱して5月に統一社会主義同盟を結成するに至った。統社同は代表委員・春日庄次郎、山田六左衛門、書記長・村田恭雄の陣容。一方、春日らの脱けた社革では、西川彦義議長、内藤知周事務局長を選出した。 その後、38年9月の第3回全国総会では新しい前衛党をめざして組織の名称から″準備会“をはずして社会主義革新運動となり議長に内藤知周を選んだ。
青年、学生組織としては、安保後、分裂した全学連内の代々木系組織である全国学生自治会連絡会議(全自連) のメンバー佐竹徹、黒羽純久らが、春日派の脱党に呼応して全学連再建準備協議会を36年7月に、 また8月には民青革新委員会を結成した。 このため全自連は崩壊する。10月、社革準備会の発足とともに全学連再建協と民育革新委は、社会主義青年学生運動革新会議を結成し公然と民青系と対立した。
社革を離脱した春日派は、 統社同の下部組織として、37年5月、社会主義学生戦線(フロント)を結成、これに対し社革側は日本共産主義青年同盟準備会を持った。 共青同は社革分裂前から、所謂”綱領派”が青学革新会議では実際の活動ができないと組織を進めていたもので、37年1月に旗上げし、8月末、広島で全国結成大会を開催、全学連再建および主導権獲得をきめた。
その後、共青同はフロントとともに構改派連合を形成し、反マル学同戦線として、社学同、社青同と三派連合を組み、憲法公聰会反対關争、大管法阻止關争を統一行動でたたかう。 38年1月、社学同、社青同、共青同=構改派の三派連合によって、都学連再建大会が開かれた。 しかし6月には、構改派は社学同、社青同のラジカルな行動を嫌って三派連合から離れた。
 一方、38年9月、新たに民主主義学生同盟(民学同)という学生組織が結成された。これは大阪市大の小野義彦教授指導の下に、平民学連から分裂して生まれた。構改派の組織であったが、後に日本共産党(日本のこえ)の系列下に入る。
39年5月15日、日共幹部会員・志賀義雄は、党議に反して国会で部分核停条約に賛成。 参議院議員員・鈴木市蔵と6月、日本のこえ同志会を作り、機関誌『日本のこえ』を創刊し日共正統派を標榜して中共路線に傾斜した党中央への批判を展開した。つづいて中央委員・神山茂夫・中野重治が志賀支持を明らかにしたため、4名は11月の第9回党大会で除名され、12月2日日本共産党(日本のこえ)を結成した。
民学同は小野教授が″親志賀系”だったことからこの傘下に入ったわけであるが、民学同とは 別個 に、大阪市大の構改派が脱党して、38年11月、平和と社会主義をめさす学生同盟を結成した(これは41年8月、統一共産同盟となる)。
40年10月、日本のこえ派が″反代々木派″の結集を呼びかけると、社革はただちに呼応、統社同内でも春日庄次郎、原全五らが11月社会主義統一有志会を作って同調し“新党”結成への動きが高まった。 こうして41年3月21日、「共産主義者の大同団結を呼びかける全国活動家会議」が東京で開かれ、組織統一準備委員会(委員長・志賀義雄)が発足した。
反代々木勢力の”総結集”は、これらの諸組織の発展、運動の拡大が予期していたよりも進まず、日共からは常に″現代修正主義”として攻撃され、トロツキスト系からも、”改良主義”と批判されて、あせりがあったことから促進されたものとみられる。
社革内部では最大組織の東京で西川彦義、中村丈夫、野田弥三郎らが別党コースに反対し、7月、またも分裂した。西川は日本勤労者解放連盟を作り、中村らは11月に社会主義労働者同盟を結成する。
このような過程を経て、ようやく”新党”が結成される運びとなったが、中心人物の志賀が突然、結党中止をいい出して脱落。41年11月12~14日の統一大会を「前期」結党大会とし、翌42年2月4日~14日の「後期」結党大会で、社革、こえ派の多数、統一有志会、 無党派(セクト)合同による共産主義労働者党が正式に発足した。 役員は中央常任委員に内藤知周、長谷川進(家坂哲男)、一柳茂次、由井警(以上社革)、いいだ・もも、戸原酸二、原宏、樋口篤三(以上こえ)、武藤一羊(小野弘)、栗原幸二(柴田三郎)、大塚正立(堀田三郎) (以上無党派(セクト))を選出。 後に内藤が議長、いいだが書記長に就任した。
志賀はじめ、神山、中野、鈴木ら、こえ派首脳が新党から脱落した背景には、中共路線から自主独立路線に転じた日共と、ソ連との間に新たな接近の可能性が生まれ、″第二共産党” 結成を抑制しようとする働きかけがあったといわれる。 その後42年10月には神山、中野が、こえ派から″組織的に断絶”する。 この結果、43年5月、こえ派は「日本共産党」を組織名称からはずし、単に政治結社日本のこえと名乗る、志賀中心の少数派になった。
学生組織は、共労党結成とともに民学同内に共労党系と日本のこえ系との二つの系列が生まれ、前者は民学同(左派)、後者は民学同(こえ派)と称せられた。 しかし43年3月に至って、民学同(左派)は組織的に分離して完全に共労党指導下に入るが、これはさらに44年3月、プロレタリア学生同盟(委員長・ 茂山正広)と改称する。
一方、社革内で新党結成に反対、社会主義労働者同盟-を結成した中村丈夫らは、43年3月、その下部組識として共産主義学生同盟を新たに組織した。 この時点で構改系学生組織は民学同左派(後にプロ学同)、民学同こえ派、共学同、フロントとなるが、これらが42年10月全国自治会共同闘争会議に結集されたわけである。 同じ構改派学生組織によってベトナム反戦学生共同闘争委員会も作られた。
44年に入って、5月の共労党第3回大会で、戦略方針をめぐって内藤派といいだ派が対立、内藤は議長を辞任、いいだ派が主導権を握り、トロツキスト勢力との”共闘〟路線をおしすすめていくことになった。 内藤派の長谷川浩(元日共中央委員)、内野壮児らは44年10月、労働運動研究所を設立した。
 一方、統社同も9月21日~23日の第8回大会で山田六左衛門議長と安東仁兵衛書記長が辞任、小寺山康雄識長、高田麦書記長が新たに登場し、従来の構革路線を否定、結成以来の転換点に立っている。
共学同は、4・28の沖繩闘争にさいして、中核派、社学同、学生解放戦線、第4インターと連合して″安保粉砕・日帝打倒”の戦列に加わった。 激化し流動化する学生戦線のなかで、構改派は新たな課題に直面したわけだが、反代々木系8派連合による9月の全国全共闘連合結成へ向って、構改派学生戦線は両編成の時期に直面し、7月新たにフロントとプロ学同が中心となって、安保粉砕全国共闘が結成された。 その底流には、フロントとプロ学同の組織統一間題があり、組織統一によって全国全共闘内部での発言力を強めることが意図されているようである。 しかし、統一は秋期安保決戦以降に延期され、それまでは反帝統一戦線形成のため原則的な理論闢争、党派(セクト)關争による共關関係のカッコたる確立が叫ばれている。 構造改革路線はいま大きな再編成の時期にさしかかっているといえる。

1、安保粉砕全国学生共闘会議

【結成】昭和44年7月16日
【構成】フロント(社会主義学生戦線)、プロ学同(プロレタリア学生同盟)、構改派系全共闢
【経過】安保粉砕全国学生共闘会議(安保粉砕全国共闘)は、昭和44年7月15~16日、東京法政大学に7000余名を集めて結成大会を開いた。
これは、<67年砂川聞争に始動点をもち、67年10・8羽田闘争を飛躍台とした、あらたな反戦闘争の質は、本年4・28沖縄闘争において、反戦青年委員会と左派学生戦線が政府ブルジョアジーとの安保正面戰に登場したことによって、新たな地平を拓いたと同時に、その限界点をも露呈した。また、68~69年全国教育学園闘争は、全共闘運動にその新たな質を析出すると同時に、”安保推進佐藤帝国主義政府打倒″の意織性に裏うちされた秋期安保政治決戰へ向けては、未だ一定の脆弱性を内包しているといわなければならない。これまでの反戦・反安保闘争、数育学園闘争を自治会全共闘運動において、あるいは各大学全共關の最前線において担ってきた全国の戦闘的学生は、フロントとプロ学同に領導されつつ、これまでの運動形成の一切の弱点を自ら大胆にあばき出しつつ、そのすべての総括こふまえて、安保政治決戦とそれに向けての学生戦線の革命的再編成の事業を根底から担う機関> (『平和と社会主義』一七六号)として結成されたもので、これまでの構改派系諸派の学生連合組織であった全国自治会共關会議の発展とみることができる。(以下 省略)

2、社会主義学生戦線全国協議会 (全国フロント)

【結成】昭和37年5月。 全国フロントは44年3月発足。
【上部政治団体】統一社会主義同盟=37年5月3日結成。 議長・小寺山康雄、書記長・高田麦、大森誠人
【所在地】社会主義学生戦線中央書記局=東京都千代田区神田、現代社内
【役員】社会主義学生戦線全国協議会事務局代表・〇〇〇〇、全都フロント委員長・〇〇〇〇(東教大)、全国全共闘書記局員・ 〇〇〇〇(東教大)、全関西フロント・〇〇〇〇議長・〇〇〇〇 書記長
【拠点校】東大(教養)、法大(一社会)、慶大(全塾、日吉)、新潟大(民、歯、工、教養)、立命大(文)、神戸大(教義、文、理、法、経、経営、工、農)、関西学院大(社会)、神戸女学院大、富山大など。
【勢力】活動家=560名。 17自治会=18700名。 動員力=500~600名。
【高校生組織】(構改派の合計)、高校生反戦協議会(高反協・東京)、高校生反戦連絡会議(高反連)、高校生反戦闘争委員会(高反委・東京)、高校反戦委員会など49=400名。 拠点校(東京=青山、早稲田、戸山など)。機関誌=『高反連』『高校生通信』
【機関紙誌】『最前線』(旧『平和と社会主義』)(旬刊)『若きジャコバン』(月刊)『構造改革』(月刊)、『フロント』『嵐をついて』 (月刊)、準機関誌『現代の理論』(月刊)

(以下 省略)

3、プロレタリア学生同盟(プロ学同・民学同左派)

【結成】昭和44年3月
【上部政治団体】共産主義労働者党(共労党)=書記長・いいだ・ もも、副書記長・白川真澄(別名・西村光雄)、中央常任委員・武藤一羊(別名・小野弘)、樋口駕三、栗原幸二(別名・柴田三郎)、吉川勇一 (別名・田所進)、山口義行
【所在地】東京都新宿区住吉、共労党内。
【役員】プロ学同委員長・〇〇〇〇 、全国全共闘書記局員 〇〇〇〇(京大)、大阪府学連(反代々木系)委員長・〇〇〇〇(阪大)、〇〇〇〇(法大)、〇〇〇〇(中大)
【拠点校】(旧民学同左派、右派=志賀派の合計、 大阪大(教養、文、法、理、医、工)、桃山大(経、社)、大阪工大(一部)、島根大(農)、岡山大(医、教育、文)、大阪市立大など。
【勢力】活動家数= 1100名。 10自治会=5600名。 動員力=8300名
【高校生組織】全国高校生闘争連合を組纖。 (→「”全学連予備軍”高校生組織」の項参照)。
【機関紙誌】 『統一』

(以下 省略)

4、共産主義学生同盟  (共学同)

【結成】昭和43年3月
【上部政治団体】社会主義労働者同盟(社労同昭和41年11月結成 議長・中村丈夫黒羽純久、丸山茂樹、小塚尚男
【所在地】束京都豊島区西池袋 社労同通信社
【幹部】〇〇〇〇 柴田誠(東教大、全国全共闘書記局員)、〇〇〇〇 渡辺嘉典(法大)、〇〇〇〇 水上垂之(東教大)
【勢力】少数
【機関紙誌】『新左翼』

(以下 省略)

5、民主主義学生同盟(民学同=民学同こえ派)

【結成】昭和38年9月15日
【上部政治団体】日本のこえ、代表=志賀義雄
【所在地】東京都新宿区荒木町
【役員】委員長・〇〇〇〇 (京大)、〇〇〇〇(阪大)、〇〇〇〇(阪大)、〇〇〇〇 (明大)
【拠点校】大阪市大、阪大など関西が中心。東京での活動はほとんどみられない。
【勢力】活動家数=300名。九自治会= 16100名。 動員力=1350名
【高校生組織】→「”全学連予備軍”高校生組織」の項参照。
【機関紙誌】『日本のこえ』『民主主義の旗』(不定期)

【主張】民学同の目的は、第一平和と平和共存のために闘う事である。 平和共存とは、体制の異なる諸国家間の民主的秩序を意味し、体制の異なる国家間の紛争解決の手段として武力を拒否する事である。その事は、社会主義諸国・先進国・民族解放勢力という平和共存のために關っている三大勢力と連帯し、ベトナム侵略戦争を続けている米帝国主義と闘うことであり、安保条約を結び、自ら東南アジア支配権を目指して侵略と反動政策をおこなっている日本帝国主義と闘うことである。
具体的には、安保条約破索、沖繩の基地撤去・即時全面返還、ベトナム反戦闘争勝利のために闘い、日本の核武装を阻止し、非武装中立を実現し、アジアに、平和共存秩序を確立する事である。
第二に、政府独占の全ゆる侵略と反動政策と対決し、労働者階級を中心とする反独占勢力と連帯し、反独占民主主義の為に闘うことである。
 日本独占資本は、平和意法をはじめとする戦後民主主義を、きりちぢめ、形骸化しようと必死の策動をつづけている。 そして、その事は、一握りの独占資本と、それに反対する労働者階級を中心とする反独占勢力との対決を不可避にしている。ここに我々が、闘いを反独占民主主義闘争として(観念的「革命」闘争ではなく)押し進める根拠がある。 新しい民主主義は、単に防御的民主的なものに留まらず、社会、経済における民主的改革をも闘いとる積極的かつ攻撃的なものである。 我々は、そのために、広汎な反独占統一戦線形成のために闘う。
第三に、反独占民主主義闘争の一環として大学の民主的改革めざして闘うことである。現在、政府自民党は四月中教審答中を準備し、大学を独占資本の侵略と反動の道具に最終的に変えるため大学の反動的再編成を狙っている。我々は政府独占大学の反動的再編に対決し、それを粉砕する。 そして、それにとどまらず、行政的、財政的支配の強化によるなしくずし的な攻撃に対しても、それをはね返しうる保障を確立するためにストライキ確、団交権を駆使し、全学協義会を中心とする徹底した民主的改革をめざして関う。
 教官層は、科学、真理の担い手として反独占の立場に立ちうる客観的基盤があるが、又一方国家の大学管理機構の末端に位置する為、往々にして、事務官僚を通じての独占の攻撃に対して闘うことが出来なかったという二面性を持っている。 又大学の自治を科学と民主主義、社会進歩という大学の使命のための保障として理解せず、自らの研究をかってにする事が出来る自由として往々に理解し、 その事を現行の大学の自治=教授会のみの自治という制度は、陰弊し、政府独占に有効に対決する事が出来なかった。
 我々は、大学当局が学生対策的に提案している偽購的改革案を粉砕し、 実質上の最高決定機能をもつ全学協議会を中心とする徹底した民主的改革を闘いとり、中教審答申粉砕を共に闘う中で、教官層との闘う連帯をかちとり、闘いの中で彼らの世界観を変革し、大学を反独占の砦にするために關う。
 第四に、帝国主義現代の反動的イデオロギーである「近代主義」(プラグマテイズム、実存主義)とナショナリズムに反対し、 学生の中に生み出される非合理主義とエゴイズムを克服すること。 そしてあらゆる進歩的、民主的、サークル活動の自主的発展のために闘うことである。 そのために同盟は、人間の意識から独立した事物の客観的運動法測の存在と、 その認識の可能性を承認する科学と民主主義の思想を強固に打ち固めることを自らの使命としている。
最後に、以上の日的のために、トロツキスト、民青の分裂主義、セクト主義を排し、層としての学生運動の再生めざし、その組織的保陣である全学連再建に向けて、当面、課題と大枠の戦術の一致に基づく幅広い共同行動を推進する。(『民主主義の旗』44年4月11日号)

【歴史】39年9月、日共系平民学連の中から構改派が分裂、小野義彦(大阪市大教授)の理論的指導下にあった学生を中心に結成された組織。国際共産主義の総路線をめぐる論争と分裂の深化のなかで、共産主義運動についての意見の相違は問わず、当面の政治方針で一致しうる部分の民主的結集体として組織されたもので、「平和と平和共存、反独占民主主義」をスローガンにかかげ大阪市大を拠点として出発した。現在も小野教授の影響を強く受けている分子が多い。
39年12月、部分核停条約に賛成し、日共を除名された、志賀義雄、神山茂夫、中野重治、鈴木市蔵らが日本共産党(日本のこえ)を作った。 これより前の7月、第2回平民学連学生集会が開かれたが、″層としての学生運動論“を提唱し、日本のこえの平和共存路線に同調する、京大、中央大の学生細胞を中心とする勢力があり、これらは平民学連から脱退して、日本のこえの指導下に入り、民学同に合流した。
 39年後半からの京都や神戸での統一行動においては、参加学生の半数は民学同系だといわれるくらい、関西を中心に勢力を伸長させた。 39年12月、日共=民青系全学連が再建されたが、 この準備工作に対して、構改派民学同系の大阪大学7自治会は、「学生運動分裂の歴史を総括し、現在の分裂状況を考慮に入れて、再建統一のための広範な討論を展開すべきである」と批判した。
42年2月、共労党が結成されると、民学同は左派と右派の二つの系列に分かれるようになる。民学同右派である志賀派は日本のこえの分解もあって少数派となってゆく。
43年3月、多数の民学同左派が完全に袂を分かったため、民学同は志賀派の日本のこえ系一本にしぼられることになった。(→「安保粉砕全共闘」、「民青系全学連」の項参照)。

6.統一共産同盟

【結成】昭和38年11月
【所在地】大阪市北区万歳町
【幹部】藤田(大阪市立大)
【拠点校】大阪市立大中心の少数派。
【機関誌紙】『現代革命』
【性格】36年7月、日共第8回大会で大阪市大の構改派が脱党「平和と社会主義をめざす学生同盟」 を結成。 41年8月、統一共産同盟と改称した。 同じく構改派路線をとる民学同とは別行動をとって今日に至っている。 しかし、学生活動家数も少なく、構改派の少数派にとどまっている。

〔2〕『共産主義労働者党(共労党)の歴史』

・1959年5月、機関誌『現代の理論』を井汲卓一、長洲一二、安東仁兵衛、佐藤昇らの手により創刊
・1961 年8 月、機関紙『新しい路線』を創刊、同年 9 月、青年学生運動革新会議(青学会議)を結成。同年 10 月、社会主義革新運動準備会 (議長/春日庄次郎・副議長/山田六左衛門・事務局長/内藤知周を結成し、 機関誌『新しい時代』に改題
・1962 年 2月、社会主義革新運動準備会第 3 回全国委員会において同準備会は分裂、当時の議長/西川彦義、事務局長/内藤知周、春日庄次郎委員長が辞任する。
同年5月、春日派は、統一社会主義同盟(統社同)を代表委員/春日庄次郎、山田六左衛門、東谷敏雄、事務長/村田恭雄・安東 仁兵衛、小寺山康雄、大森誠人の布陣で結成。社革新系の機関紙を『先駆』と命名し、社会主義学生戦線・フロント全 国委員会)を、また同年 8 月、日本共産主義青年同盟を結成。
・1963 年6 月、統社同第2回全国大会開催、 6 月、社会主義革新運動準備会全国委員会第 3 回総会(社会主義革新運動/議長/内藤知周)開催、 9 月、民主主義学生同盟(民学同)第1回創立大会を開催。
ところが、11 月、民学同から「平和と社会主義をめざす学生同盟」が分派・1964 年 1 月、『現代の理論』(第2次・安東仁兵衛)が井汲卓一の現代の理論社社長を中心に、 中岡哲郎、森田桐郎、沖浦和光らにより創刊。1 月、統社同機関紙『平和と社会主義』創刊。
※同年5 月、日本共産党、志賀、鈴木除名。6 月、志賀義雄、鈴木市蔵による日本のこえ同志会結成(機関誌『日本のこえ』創刊)。7 月、統社同第3回全国大会、12 月、日本共産党(日本のこえ)結成、12 月、日本社会党第 24 回大会にて、「日本における社会主義への道」採択)。
・1965 年11 月、統社同第 4 回大会
・ 1966 年 3 月、共産主義者の結集と統一をめざす全国会議(組織統一準備委員会/委員長・志賀義雄)が 不成立。同全国会議は、日本共産党(日本のこえ)、社会主義革新運動、(志賀義雄・いいだもも・ 樋口篤三・吉川勇一・内藤知周・春日庄次郎・武藤一羊・栗原孝夫が参加する)社会主義統一有志会らが結成する予定であった。10 月、統社同第 5 回大会、 11 月、日共産主義労働者党大会(前期)/共労党結党委員会―選出
・1967年1月、中村丈夫・藤原春雄・小泉尚男・丸山茂樹らによる社会主義労働者同盟(社労同)結成総会開催。機関誌紙『新左翼』を創刊。「社労同通信」を『労働者権力』に改題。2 月、日共産主義労働者党(共労党)結成大会(後期)を開催)。主たるメンバーは、 議長/内藤知周、書記長/いいだもも、中央常任委員/内藤知周、長谷川進(家坂哲男)、一柳茂次、由井誓(以上 社革新)。いいだもも、戸原酸二、原宏、樋口篤三(以上こえ)、武藤一羊(小野弘)、栗原幸二(柴田三郎)、大塚正立 (堀田三郎)(以上無党派(セクト))。/機関紙『統一』。 2 月、『統一』215 号にて「共労党結党宣言」発出。 2 月、民学同(左派)結成。 10 月、「一〇・二一に山崎君虐殺抗議全国ゼネネストで起ち上ろう!」(全国学生自治会共闘 大阪府学連・兵庫県学連/島根大農自/岡山大連自/立命大文・営自/富山大経自/ 新潟大医・歯・エ自/法政大社自/慶応全塾自治会・日吉中執・日吉理財学会/ 全都ベトナム反戦学生共同闘争委員会 (11 月、統社同第 6 回大会)
・1968 年 2 月、共労党第2回大会、 3 月、民学同第9回大会(民学同左派―形成) 。9 月、『スパルタクス』(共労党大阪市大細胞機関紙)創刊、東京地区反戦連絡会議―結成〈世話人代表―樋口圭之介、機関誌『反帝青年戦線』。同連絡会議には、 福島平和(中核派)、高橋茂夫(共産同)、東間 徹(ML派)、柘植洋三(第四インター)、 早瀬志郎(社労同)、 矢馬朔(共労党)、朝日健太郎(統社同)が参加。
・ 1969 年 1月、全国労働運動左翼活動者会議(主催―電通労研・長崎社研・大阪) 松本礼二・榎原 均 (共産同)、陶山健一(革共同中核派)、 今野求(第四インター)。樋口篤三・いいだもも(共労党)、 荒川亘(社労同)、高田麦(統社同)、菊水望(阪神共産主義者協議会) 。3 月、民学同第 11 回大会―分裂 。3 月 、プロレタリア学生同盟―結成(委員長・ 茂山正広/構造改革派学生運動からの決別) 4 月 7 日「統一」第 319 号「プロレタリア学生同盟結成宣言」。 4 月、「プロレタリア戦線」NO1(プロ学同大阪市大支部) 4月21日「共同声明」発出。(革命的共産主義者同盟・共産主義者同盟・日本マルクス・レーニン主義者 同盟 日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)・社会主義労働者同盟 ・ 共産主義労働者党・統一社会主義同盟・全学連・反戦青年委員会・沖縄闘争学生委員会 ・三里 塚反対同盟・砂川基地反対同盟・マルクス主義学生同盟中核派・社会主義学生同盟 ・全国学生 解放戦線・全国反帝学生評議会・国際主義共産学生同盟・共産主義学生同盟・ プロレタリア学生 同盟・社会主義学生戦線フロント・東京大学全学共闘会議・ 教育大学全学闘争委員会・中央大 学中央闘争委員会・日本大学全学共闘会議・他27団体。
※5 月、統社同第 7 回大会、共労党第3回大会/書記長/いいだもも、副書記長/白川真澄(西村光雄)、中央常任委員・武藤一 羊(小野弘)、樋口駕三、栗原幸二(柴田三郎)、吉川勇一 (田所進)、山口義行~「構造改革路線」転換。
党内右派(内藤知周、松江澄、長谷川浩/広島、佐賀、富山県委委員会/首都・大阪・京都の一部組織)離脱 。
5 月、労働者党全国連絡会議―結成/長谷川浩)、統社同第 7 回大会、 7 月、安保粉砕全国学生共闘会議―結成 (フロント(社会主義学生戦線)、プロ学同(プロレタリア学生同盟)、構改派系全共闢)。 8 月、プロレタリア学生同盟第2回大会 、9 月、統社同第8回大会(小寺山康雄識長、高田麦書記長)、10 月、統社同機関紙『先駆』184 号 に改題(「平和と社会主義」)。11 月、佐藤訪米実力阻止総決起集会(扇町公園・プロ学同‐岡大生・糟谷孝幸君虐殺) 。12 月、糟谷君虐殺抗議人民葬(日比谷野音・全国全共闘1万2千名)― 中核派・学生解放戦線・反帝学評・社会主義学生戦線と革マル派衝突 。労働運動研究所/設立・機関誌『労度運動研究』/代表理事―長谷川浩) 1970 年 1 月 19 日「統一」第 352 号「革命戦士の共通の色赤ヘルに 」 2 月、共労党第4回大会(議長/いいだもも・書記長/白川真澄)、 3 月、反帝学生戦線全国大会 、5 月、『プロレタリア戦線』NO2(プロレタリア学生同盟)。 8 月、プロレタリア学生同盟第3回大会。12 月、統社同第 9 回大会―日本共産主義革命党に改称/機関誌『団結』)
・1971 年 3 月、三里塚現闘団―結成。 3 月、プロレタリア学生同盟第4回大会 。9 月、三里塚・東峰十字路事件。 12 月、共産主義労働者党~三分解〔 ●共労党(赤色戦線派)/武藤一羊・いいだもも・戸田徹・笠井潔・設楽清嗣/機関誌紙『紅旗』「赤火」 ●共労党(プロレタリア革命派/白川真澄―機関紙「統一」 ●労働者党全国委員会/樋口篤三―機関紙「革命の炎」。 12 月、共労党プロレタリア革命派―結成。 12 月 21 日「統一」停刊
・1972 年 4 月、共労党プロレタリア革命派/「統一」地方合同版発行。 7 月、共労党プロレタリア革命派総決起集会 。8 月、統社同第8回中央委員会総会/整風運動)。11 月、プロ学同三里塚現闘団―再建。 11 月、糟谷孝幸虐殺3周年糾弾党政治集会。 12 月、共産主義労働者党(赤色戦線)-結成
・1973 年 3 月、共産主義労働者党全国協議会―結成(共労党プロレタリア革命派の改組/ 機関誌「蒼生」機関紙「統一」) 。 4 月「統一」再刊準備号(共労党全国協議会) 「革命ベトナムに呼応する春季大攻勢を闘い抜き、ベトナム革命派の隊列を建設せよ!党再建五回大会に勝利しよう!」 「共産主義労働者党全国協議会結成声明」 5月 14 日プロレタリア青年同盟全国協議会(プロ青同)―結成(プロ学同の改組)
・1974 年 3月、労働者党全国委員会―結成(旧共労党・樋口篤三・機関誌『革命の炎』)。 5 、内藤知周―死去(享年 59 歳)。8 月、統社同第 10 回大会/第 9 回大会綱領に対する態度)
・ 1976 年 4 月 9 日、春日庄次郎―死去(享年 73 歳)
・1977 年1 月、統社同第 11 回大会第1回会議)。 5 月、三里塚を闘う青年先鋒隊―結成(プロ青同)
・1978 年 3 月 24 日山田六左衛門―死去(68 歳)。 3 月、三里塚開港阻止決戦・空港包囲大行動総決起集会 三里塚・管制塔突入占拠闘争 (三里塚を闘う全国青年学生共闘+三里塚を闘う青年先鋒隊+全国労働者共闘会議)
・1979 年 10 月、『季刊クライシス』(社会評論社)創刊(編集長/いいだもも)。11 月、統社同第 11 回大会第2回会議
・ 1981 年11 月、統社同第 13 回大会/社会主義的潮流の形成)
・1982 年 5 月、「共産主義者の連合について広範な討論をよびかける」(共労党全国協議会)。10 月、「連合し、合流し敵を撃つ」シンポジウム(福岡市―共労党系)
※1983 年、三里塚空港反対同盟実行委員会―「幹事会」否認、石井新二事務局次長解任 「三・八分 裂」-北原派(北原鉱治)と熱田派(熱田 一)に分裂~支援党派(セクト)、大衆団体の分裂 三里塚反対 同盟(北原派)支持 革共同全国委員会・革命的労働者協会・共産同(戦旗派)・共産同(蜂起派) 3月×日三里塚反対同盟(熱田派)支援声明 第四インターナショナル日本支部、プロレタリア青年 同盟、戦旗・共産主義者同盟 共産同赫旗派(東峰団結小屋)、共青同(住母屋団結小屋) 首都 社研(共産同プロレタリア派・田辺団結小屋)、坂志岡団結小屋 共産同全国委員会(白枡団結小 屋)、労学連(神田五大学共闘・淺川団結小屋) 労闘―労活評・人民連帯(中郷団結小屋)、中谷 津団結小屋(「前衛」派) 労農合宿所・労青団(東峰団結の家)、木の根団結小屋(三支労) 官並 団結小屋(日学戦)、三里塚野戦病院
・1984 年1 月、統社同第 13 回大会/時代に立ち向かう党建設)。 2 月 25 日、長谷川浩―死去(享年 76 歳)
・1985 年 1986 年 1987 年2 月、日本共産主義革命党第 14 回大会―フロント(社会主義同盟)に改称
・ 1988 年3 月、フロント(社会主義同盟)第 15 回臨時大会/社会主義連合参加決定
・1989 年 1990 年1 月、『季刊クライシス』(社会評論社)第 40 号(終刊)。 12 月、フロント(社会主義同盟)第 16 回全国大会/政治局廃止)
・1991 年 1992 年 8月、自治・共生・連帯の社会主義をめざす政治連合―結成 共同代表/小寺山康雄・白川 真澄・高田 健・機関紙「OP-al」 共労党全国協議会、フロント、第四インター、共産同プロレタリア 戦旗派、他
・1993 年 1994 年4 月、フロント(社会主義同盟)第 17 回全国大会)
・1995 年 1996 年 8月~9 月、共労党全国協議会第十七回臨時大会―組織・機関誌紙名改称 「自治・連帯・エ コロジーをめざす政治グループ蒼生」(代表・宮部彰/機関誌紙『蒼生』「グローカル」)
・1997 年 1 月、機関紙「グローカル」創刊(「統一」改称)。11 月、フロント(社会主義同盟)第 18 回全国大会
・1998 年 4 月 24 日、安東仁兵衛―死去(笹田 繁・享年 70 歳)
・2000 年11 月、フロント(社会主義同盟)第 19 回全国大会/政治宣言
・2002 年 12 月。コレコン(これからの社会を考える懇談会)―結成、機関誌『コレコン』 (アクト社、同時代社、労働者運動資料室、蒼生、フロント、労共党
・2004 年 10 月、『現代の理論』(第3次)創刊(言論 NPO・現代の理論/沖浦和光)
・2005 年4 月、フロント(社会主義同盟)第 20 回全国大会/社会改革プラン
・ 2006 年 11 月、プロレタリア青年同盟(PYL)/ブログ「格差と戦争に NO!」開設
・2009 年6 月、フロント(社会主義同盟)第 21 回全国大会/対抗社会に向けて。 12 月 26 日、樋口篤三(元「労働情報」編集長)―死去(享年 81 歳)
・2011 年 3月 31 日いいだもも(飯田 桃)―死去(亨年 85 歳)
・2012 年 8月×日自治・連帯・エコロジーをめざす政治グループ・蒼生全国会議(解散決議―緑の党に合流)。 9月、 研究所テオリア発足総会&シンポ(機関紙「テオリア」) 10 月 10 日「テオリア」第1号
・2013 年、フロント(社会主義同盟)第 22 回全国大会/市民、緑、リベラルの連携)
・2015 年 1 月 15 日松江澄―死去(享年 85 歳)

〔3〕国家総動員法

総則
第1条 - 国家総動員の概念
第2条 - 総動員物資
第3条 - 総動員業務
総動員業務指定令(昭和14年7月5日勅令第443号)

戦時規定
第4条 - 国民の徴用
 国民徴用令(昭和14年7月8日勅令第451号)
 船員徴用令(昭和15年10月21日勅令第687号)
第5条 - 国家総動員に対する国民の協力
第6条 - 労務統制
 学校卒業者等使用制限令(昭和13年8月24日勅令第599号)
 賃金統制令(昭和15年10月19日勅令第675号)
第7条 - 労働争議の制限・禁止
第8条 - 物資統制
 電力調整令(昭和14年10月18日勅令第708号)
 米穀搗精等制限令(昭和14年11月25日勅令第789号)
第9条 - 貿易統制
 貿易統制令(昭和16年5月14日勅令第581号)
第10条 - 物資の管理収用
 総動員物資使用収用令(昭和14年12月16日勅令第838号)
第11条 - 金融統制
 会社経理統制令(昭和15年10月19日勅令第680号)
 銀行等資金運用令(昭和15年10月19日勅令第681号)
第12条 - 資金統制
第13条 - 工場船舶の管理収用
 工場事業場管理令(昭和13年5月4日勅令第318号)
 土地工作物管理使用収用令(昭和14年12月29日勅令第902号)
第14条 - 鉱業権、砂鉱業、水の使用収用
第15条 - 各種権利の払下
第16条 - 事業設備の新設、拡張、管理
 総動員業務事業設備令(昭和14年7月1日勅令第427号)
第17条 - 事業の統制協定
第18条 - 統制組合
第19条 - 物価統制
 価格等統制令(昭和14年10月18日勅令第703号)
第20条 - 言論統制
 新聞紙等掲載制限令(昭和16年1月11日勅令第37号)

平時規定
第21条 - 国民登録制度
 医療関係者職業能力申告令(昭和13年8月24日勅令第600号)
 国民職業能力申告令(昭和14年1月7日勅令第5号)
第22条 - 技術者の養成
 学校技能者養成令(昭和14年3月31日勅令第130号)
第23条 - 物資保有義務
第24条 - 事業計画の設定、演練
 総動員業務事業主計画令(昭和14年7月26日勅令第493号)
第25条 - 試験研究命令
 総動員試験研究令(昭和14年8月30日勅令第623号)
第26条 - 事業の助成
第27条~第29条 - 損失補償
第30条 - 事業の監督
第31条 - 報告徴取、立入検査

その他の規定
第32条~第49条 - 罰則
第50条 - 国家総動員審議会
 国家総動員審議会官制(昭和12年5月4日勅令第319号)

〔4〕新しい社会運動

新しい社会運動(new social movements)とは、フランスの社会学者アラン・トゥレーヌが、中期の時期(1968~1986年)に提起した概念・理念型であり、そのような運動が現れるであろうという仮説である。前期アラン・トゥレーヌ(1950~1968年)は、産業社会の「社会運動」として、全体社会の方向性をめぐって産業主義企業家と対立関係にある「統制的労働組合運動」(企業に参加しつつ民主化させる)の理念型を位置付けた。その後、中期トゥレーヌは、「脱産業社会」(脱工業化社会)におけるそのような中心的な紛争が情報や知識をめぐるものになるだろう、という予測の下、全体社会の方向性をめぐってテクノクラシーと対立していく新しいアクターが現れるという仮説を提起した。「新しい社会運動」とはそのようなアクターの理念型を指しており、それが実在するかどうかを確認するために、彼とその弟子たちは、1970年代半ばから大規模な社会学的介入調査を実施していった。トゥレーヌたちの言う「社会運動」とは――それが「新しい社会運動」であれ-―、実態的な概念ではない。良く誤解されているが、反原発運動や女性運動、学生運動イコール「新しい社会運動」だとトゥレーヌが言っているわけではない――この点はひと括りにされることの多いクラウス・オッフェやユルゲン・ハーバマスの議論とは根本的に異なる。それらの運動のなかに、「社会運動」の要素が存在するかどうかを検証することが重要だということを彼は強調している。実際、社会学的介入調査の結果、反原発運動や女性運動、学生運動、地域主義運動などはいずれも、全体として「社会運動」と呼べるものではなかった、というのがトゥレーヌ達の結論である――この点は日本はもちろん、世界的にも良く誤解されている。なおこの「誤解」を受けて、トゥレーヌの議論とは別に、あるいはその提起から分かれる形で、緑の党やみどりの政治を新しい社会運動の流れに位置づける議論も存在する。「新しい社会運動」論と称される中期トゥレーヌの社会理論・運動論の発展的継承は、後期トゥレーヌ、及びパリ社会科学高等研究院・社会学的分析介入センター、及び国際社会学会研究委員会47「社会階級・社会運動」の社会学者たちによって試みられている。とりわけフランソワ・デュベは、「新しい社会運動」論を、ひろく社会問題状況、制度状況にある個々人の経験までを扱える理論にまで発展させている。


【引用・参照文献】

『私の1060年代』山本義隆〔著〕 金曜日
『総力戦体制』山之内靖〔著〕伊豫谷登士翁・成田龍一・岩崎稔〔編〕ちくま学芸文庫
『近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻』山本義隆〔著〕岩波新書
『Wikipedia』
『学生運動辞典-構造改革系各派』AssertWeb(https://assert.jp/archives/1486)
『共産主義労働者党(共労党)の歴史』(https://0a2b3c.sakura.ne.jp/cwp-rekisi.pdf)
『1968(上)若者たちの叛乱とその背景』小熊英二〔著〕新曜社
『日比谷野音story100年の残響 番外編上下(東京新聞朝刊2024/01/17-18)』

【参考文献】

『ショック・ドクトリン』ナオミ・クライン〔著〕 岩波書店
『アフター・リベラリズム』ウォーラーステイン〔著〕 藤原書店
『対論 1968』笠井潔・絓秀実〔聞き手〕外山恒一 集英社新書





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