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Lights&Motion

マンモス団地と国道の照明灯だけが光源となる北総の深夜1時、マルスズ梨園、と書かれた白い看板の根本にスクーターが止まっていて、それにまたがったまま彼女はぼくを待っていた。そう書くとなかなかにエモいけれども実際はぜんぜん違う。これは村上春樹の小説なんかじゃない。現在、つまり2003年3月20日にはまだ「エモい」なんていう言葉はなくて、インターネットはもっと狭くて、ケータイでできることといえば16和音の着信音をダウンロードすることくらいで、それがぼくらのすべてだった。彼女は点滅を繰り返す水銀燈の直下、キリン・ビバレッジの自動販売機の右隣、ホンダ・スーパーディオの青い車体の上という座標上に位置して、そして自転車でやってきたぼくを睨みつけた。『全国配送承ります!』『千葉の梨!JAちば』と書かれた白い旗が、彼女の後ろでバタバタと音を鳴らしている。実際に豊水とか幸水とか二十世紀が実るのは半年以上先なので、この旗には農家による絶対の自信が込められているにちがいなかったけれど、当時のぼくはスクーターに跨るヤンキー女子高生と同様に、この地域を構成するそれらすべてが大嫌いだった。

「あんた、シノハラマサヤ?」

彼女はぼくにそう尋ねると、ぼくのつま先から頭までを値踏みするようにしてからつぶやいた。なンだこいつ、中坊かよ。

「マサヤは兄です」

兄はきょう来れないので、ぼくが来ました、ぼくは弟のリョウタです。ぼくはそういって自転車を止めた。国道16号を走る日産ディーゼルの爆音がこだまする、雑草だらけの駐車場で、ぼくは知らない女子高生に対峙していた。

「てめえのアニキはなんで来ねえんだよ」

彼女は明らかに苛立っていた。明治プッチンプリンみたいな色の金髪が徐々に逆立ちはじめている。どうしてここに兄がいないのか、ぼくの方こそ訊きたかった。ここ1ヶ月間ずっと、ほんとうにずっと、そのことばかり考えていたから。

「お金は払います」

ぼくはそういって、背中にあったルコック・スポルティフのリュックサックに手を突っ込んだ。親戚からのお年玉と、新聞配達で稼いだ10万円が入った富士銀行の封筒をぼくは差し出す。彼女は目を細めてそれを見つめると、アディダス・スリーラインのポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりとぼくに近づいて、そしてささやいた。

「あんた、なめてんの?」

10km北にある航空自衛隊下総基地から飛び立ったUH60―Jの轟音が果樹園に響いて、まだ葉っぱのない梨の木たちが音を立てた。澄んだ夜の空気と、団地の白い光がぼくの背後でちらついているのを感じる。テメェ、金で解決できッとおもッてンのかよ!彼女はそう叫んで、キリン・ビバレッジに回し蹴りを入れた。金で解決できるもなにも、金をもってこいと電話してきたのは彼女の方だったけれど、ぼくは黙っていた。自動販売機に回し蹴りをする女子なんて見たことがなかった。つぎの瞬間、彼女がジャージのポケットに入れていたパナソニックのMDプレーヤーが駐車場の砂利の上に落下して、金属の破片が飛んだ。正方形をした青い機械は開口部をぱっくりと開けて、同じように青いTDKのミニディスクを吐き出している。ああ、このひとは青が好きなんだな、とぼくは思った。「きりり」の500ミリリットル缶が取出し口から飛び出してきて、盗難防止警報装置がビービーと叫んでいる。ぼくは固まっていた。彼女も固まった。接続先を失ったイヤホンケーブルだけがぷらぷらと揺れている。ああ~、あああ~というような声を上げて、彼女はかつてMDプレーヤーだったものを拾い上げた。そして、彼女はぼくにいった。
「マヂで許さねえ」
マジの“ジ”のイントネーションに独特なものを感じながら、ぼくは彼女の回し蹴りに備えた。すべてがスローモーションになった。振り上げた彼女の右脚が周囲の砂を巻き上げる様子や、水銀灯の点滅や、遠くに見える電話ボックスのあかりや、キリンの自動販売機や、それらすべてが淡く明滅している。きょうの午前中からずっとテレビでやっていたバグダットの中継映像をぼくは思い出して、そしてしゃがみこんだ。NHKの中継映像が脳内で反響している。ブッシュ大統領の会見映像、同時通訳のおばさんの声。
衝撃と、畏怖。

たしかにその瞬間、ぼくの身体は数メートルを吹き飛ばされたけれど、それは彼女のキックのせいではなかった。彼女の金髪がひとつの方向に流されて、駐車場の砂利やホンダ・スーパーディオやキリン・ビバレッジの自販機やマルスズ農園の看板やクロネコヤマトののぼりが砂埃といっしょに吹き飛んで、駐車されていたダイハツ・ハイゼットのフロントウインドウが砕け散るのがぼくには見えた。幾重にも並んだマッチ箱のような団地の蛍光灯が一斉に消えて、どこかの駐車場ではいくつものクラクションが鳴っている。空からなにかが落ちた。まだ残っていた冬の空気や、春を告げる夜の蒼い雲を貫いて、金色に輝く光線が空から伸びているのをぼくは見た。爆弾?ぼくは思った。フセインやビンラディンがこの千葉県八街道市に爆弾を落としたのだ。そうぼくは思ったけれど、1秒後には視界の解像度は3倍録画のビデオテープみたいになって、そしてすべての思考が断ち切られてしまった。

気がつくと、ぼくの目の前に彼女が立っていた。巻き上げられた灰色の砂が熱を帯びた風に舞っていて、その中央に立って、彼女は梨園の方を向いている。茶色く汚れた白いアディダスのスリーライン、まるで羅城門の老婆のようになってしまった金髪のショートヘア、割れた水銀燈、傾いた電柱、石の間に挟まってぱたぱたと揺れる富士銀行の封筒、その隣に落ちているぼくのSO210i、それらの向こう側を彼女の瞳は見つめている。ぼくは起き上がると彼女の横に立って、そして梨園を見た。

そこにひかりがあった。

あれだけの衝撃に耐えた梨の樹たちのその奥に、炎とは異なるひかりの存在をぼくらは感じ取っていた。木曜洋画劇場で見たE.T.の冒頭をぼくは思い出した。背の低い、梨の樹々の間から漏れる淡い黄金の光。ぼくらの影が駐車場の砂利のうえにゆっくりと伸びていく。呆然としているぼくの隣で、彼女は彼女のJ―phoneを構えるとシャッターを切った。もしかして、

マヂ隕石じゃね?

「おい、隕石、捕まえッぞ」

隕石って超ちっちゃくてもウン千万とかするって、世界まる見えでやってたんだよ、そういって彼女はぼくの腕を引いた。

「もし見つけたら、あんたのアニキの賠償金の話もナシにしてあげる」

梨だけに、じゃあないんだよ。そう思ったけれどやっぱり口にはできない。隕石を「捕まえる」と表現するあたり彼女が正気かどうか疑わしかったし、さっさと10万円を受け取って解放してほしかったけれど、もはやそれどころではなかった。擦り切れた腕や膝に痛みがあって、国道16号に集まる緊急車両の赤色灯がブレブレになりながら視界の端に映っている。葉っぱのない梨園はディズニーのヴィランたちが潜んでいそうな雰囲気があって、小さな火がその幹や枝にくっついているのがわかった。彼女の足取りは思いの外早く、ぼくは空を覆う梨の枝に頭をぶつけないよう必死だった。うなじへと伸びる彼女の金髪を見て、もしかして、この人が兄を苦しめていた張本人ではないかとぼくは思い始めていた。今夜、誰もいないはずの兄の部屋で、山積みに鳴ったDVDやギャルゲーの箱の横に置かれたままの、もう鳴らないはずのN503isが鳴って、そしてぼくはその電話に出た。おまえのせいであたしのパソコンが壊れた、彼女は電話でいった。おまえがP2Pでよこしたファイル、あゆのライブ映像なんかじゃねえじゃねえか、ウイルスじゃねえか、ふざけやがって。あんた八街道に住んでんだろ?じゃあマルスズって果樹園わかるだろ?賠償金10万、いまから持ってこねえとおまえの家に行くからな。

「あんた、どこ中?」
彼女が振り返ってぼくに尋ねる。あたし三中だったんだよね。いまは船橋商業。あんたのアニキはどこ高行ってんの?
「それ訊いてどうするんですか」
ぼくはそういった。兄の高校がわかったら、どうするんですか。足元から土の匂いがしている。ぼくは彼女の手を振りほどいた。彼女の足が止まる。いわれたとおり10万持って来たでしょ、あいつがネットで何したか知らないけど、もうほっといてくださいよ。

彼女はぼくの顔をじっと見つめていて、そのうしろにはまだひかりがあった。靴の中で土の感触がしている。兄は県立第二に通っていたけれど、2年の夏から通わなくなった。ずっとあの部屋にいて、いつもソーテックのパソコンの前に座ってなにかをしていた。いっしょに千葉ニュータウンまで映画を観に行ったり、イトーヨーカドーでたこ焼きを買って食べていた兄は消えて、代わりに食卓で母やぼくを殴って、父に殴られている兄がそこにいた。その兄もそのうち、いなくなった。
兄はいなくなった。

「賠償金とか、ホントはどうでもよかったんだよね」
謝らせたかったんだよね、ホントは。彼女はぼくの前にしゃがんでそういった。でも本人来ないし、てか来たのはヒョロい中坊だし、だからなんか、自分自身にすげー嫌気が差したんだよね、さっきは。アディダスのスリーラインが果樹園の奥にあるひかりをずっと反射している。

「ぼくの兄、なにしたんですか」

ぼくはそう彼女に尋ねた。声のなかに嗚咽が混ざりはじめる。高校の友達がさあ、ネット使えばタダで映画とか手に入るっていうからさあ、そういって彼女は足元にあった小石を指で弾いた。

「ウィニーっていうの入れてやってみたんだけど、あゆのライブ映像なんか
じゃなくて、あんたのお兄さんからの手紙が入ってたわけ」

おまえのパソコンにウイルス仕込んだから、解除してほしかったら電話しろって、住所と電話番号が載っててさ、マジで焦ったよね。

「手紙」

ぼくは反射的に彼女のことばをつぶやいた。頭の中に、ソーテックの前に座ってキーボードを叩く、兄の痩せた背中が浮かび上がっていく。救急車のサイレンがずっと聞こえていた。高1のときに文化祭でつくったクラスTシャツを着ている兄の姿。なにかを伝えようとする兄のその輪郭。
「ごめんなさい」
ぼくはそういった。ごめんなさい。彼女が立ち上がってぼくの方を見る。
「兄は、死んだんだ」
ぼくは彼女の顔を見て、そういった。先月、兄は部屋で死んだ。母親が見つけて、父親が兄の首から延長コードを外した。兄は高校でいじめられていた。学校に行かなくなった。1年のときのクラスTシャツをずっと着ていた。夕食のときにぼくらを殴って、そのうち母親は食事を部屋の前に置くようになって、そして父親は兄を殴った。兄はナショナルの延長コードで首を吊った。でもほっとしたんだ、ぼくはそういった。兄は最後に手紙を書いていたのに。なにかを伝えたかったのに。なのに、ぼくは兄さんが死んで、そして安心してしまったんだ。

「あたしたちはココにいてはいけない」
彼女はぼくにそうささやいた。あたしたちはこんなトコにいちゃいけないんだよ、わかる?どこに行ったっていいんだよ、ヴェルファーレだって、ベガスだって、ココ以外ならどこ行ってもいいんだよ。

――だからあたしは、浜崎あゆみをずっと聴いてるんだ。

そうして、白いひかりは再び破裂した。
溢れ出た輝きは彼女とぼくの影を塗りつぶして、そしてぼくらは再びそのひかりにのなかに立っていた。梨の黒い枝の上に、無数の光線が走りはじめていることにぼくたちは気がついた。ぼくのなかにはずっと兄の暗い部屋があった。ソーテックだけが光っている暗闇の中に兄はずっと何かを叫んでいた。ぼくらはココにいてはいけない。ココにいてはいけなかったんだ。ひかりは極大になる。光線が梨の樹々を覆い尽くす。その上にいくつもの白い花が咲きはじめる。きっと分け与えているんだ。ぼくは思った。ある日突然、二十世紀という梨が現れてその遺伝子を分け与えていったように、ひかりは梨たちのなかになにかを分け与えている。そのためにきっと、分け与えるためにきっと、このひかりは何億光年も旅をしてきたのだ。
その金髪に輝きを宿したまま、彼女はぼくの手を握っていた。
ひかりはゆっくりと消えていく。

そしてそこにはもう、兄の部屋は存在しない。

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