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E.Y.E.

レイカは19時すぎに教室に入ってきた。LEDの白い灯りが反射する巨大なホワイトボードの前で立ち止まった彼女の、赤いシミが広がるブラウスを見て、ぼくたちはその視線をいっせいに彼女へと向けた。窓ガラスに貼られた「東大2名合格!」のステッカーは、寒冷前線がもたらす激しい雷光によって瞬間的な影を落としつづける。来年の春には、彼女の合格実績がステッカーとなってそこに貼り付けられるだろうと誰もが信じていたのに、いま、その彼女は雨と血液でぐちゃぐちゃになって立ちすくんでいる。

――おかあさんが殺された。

ぼくはゆっくりと席を立って彼女の下へ歩いた。おかあさんが殺されたの、そういって彼女は徐々にその肩を震わせはじめる。殺された?誰に?ぼくはそういって彼女の肩に触れようとした。なにかが割れるような音が廊下から聞こえて、何人かの生徒が視線を移す。殺されたってどういうことだよ!ぼくが怒鳴ると同時に、天井の照明がすべて消えた。レイカはぼくの顔を見る。怪物が来た、そう彼女はいった。うちに怪物が来て、それで、ベランダにいたお母さんを殺した。

「あいつの目を見ちゃだめ」

ビル全体が振動して、ぼくたちは一瞬だけ宙に浮いた。強化プラスチック製の机や赤本やポカリスエットのペットボトルがいっせいに吹き飛んで、火災報知器が破裂したようにベルを鳴らしはじめる。ドアのむこうで、白いヘルメットを被った塾長がなにかに吹き飛ばされるのが見えた。赤い血痕が、体操選手のリボンのように白いタイルの上に伸びていく。スローモーションだった。教室の後方から女子の悲鳴が上がって、それはぼくたちに恐怖心を惹起させた。恐慌状態がはじまる。鉄筋コンクリート造のビルの5階、そこに巻き付くようにして備え付けられたベランダと非常降口に8人の予備校生が殺到していた。ぼくとレイカはそのベランダに立って、雨が降りつづける街を見下ろしている。東葉高速鉄道の高架橋に停止した銀色の車両から白い煙が上がっていて、ぼくらが生まれたころに造成された新興住宅地の至るところにオレンジ色の火が点滅していた。向かいに立つイトーヨーカドーの巨大なネオンが点滅して、ぼくの前にいるレイカの輪郭を照らす。隣の教室の窓が割れて、将棋倒しになった生徒が地表に落下していく。豪雨と雷鳴と火災報知器の音と停電はぼくの思考を鈍らせていた。なにかが起きているのになにが起きているのかはわからない。つい5分前まで、ぼくは雨に濡れないで家に帰る方法に脳のリソースのすべてを割いていたし、人生の目標は20までに東京で一人暮らしをすることだった。それにGIANTのクロスバイク、ジープ・チェロキー、そして、梨の果樹園で死ぬこと。

――ナシ畑で死ぬのが夢なの?
夏期講習のあとに寄った夜のマクドナルドでレイカはぼくにいった。ほとんど空になったスプライトのLサイズを飲むふりだけして、ぼくは窓の外にある国道16号線の方を向いている。中国のコンテナを積んだトレーラーの赤い光が線となって消えていく。それは彼女に対するぼくのアンサーだった。わたしは東大に行けるかもしれないけど、でもそれは、わたしのお母さんの頃の東大とは全然別物なんだよ。だってこの国の大学は世界ランキングの順位を着々と落としているし、こどもの数も経済も右肩下がりで、じゃあわたしはなにを人生の目標にすればいいわけ?そう悲観する彼女にぼくはいった。おれは、八千代の梨に囲まれて死ぬのを目標にしてる。うちは果樹園だから。

イトーヨーカドーの塔屋の前になにかがいた。それはぼくたちのいるビルの6階から飛び立つと、ロータリーに停車していたタクシーの屋根をいちど破壊して、そして赤と青に光り輝く鳩のマークの前にふたたび着地した。巨大なコウモリのようにも見えたし、異様に手足の長い人間のようにも見えた。それはなにかを待っている。煙を上げる崩壊した団地群や、国道16号線を閉塞させている車両の群れを眺めながら、その怪物がなにを待っているのかをぼくは瞬時に理解した。悲鳴は止んでいた。予備校のベランダに立つ生徒たちや、道路で呆けていた運転手たちや、ヨーカドーの外に出た惣菜売り場の店員が、その看板の前にいる影に向かって、当然のようにスマートフォンを向けた。

――あいつの目を見てはいけない。

ぼくはレイカの頬を両手で掴んで、そして彼女の瞳を見た。夜のマクドナルドや、夏期講習や、団地から上がる煙や、レイカの濡れた髪や、雷や、塾長の背中から伸びる血液の帯がぼくの視界にフラッシュバックして、そしてぼくたちふたりを悲鳴が包囲する。だれかの血が垂れる。破滅は拡散される。彼女の瞳を見つめてぼくは叫んだ。ぼくたちは梨に囲まれて死ぬ。ぼくたちは平穏に死ぬ。それを誰も笑うことはできない。ヨーカドーのネオンが消える。そしてレイカの瞳が動いたことに、ぼくはまだ気がついていない。

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