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漁業の消え去った街

おじいさんがゴツゴツと日焼けした腕から放り投げた投網は、空中で花火のようにぱっと一瞬にして広がり、公園の芝生の上に広がった。私は子供ながらにその巧みな腕捌きに見惚れていたのを今でも覚えている。

「昔はこうやって魚を取っていたんだよ」

小学生の私に、元漁師のおじいさんはそう教えてくれた。しかし今、私の故郷に漁師は一人もいない。

私の故郷からは漁業が消え去ったのだ。

江戸川の河口に広がる巨大な三角州に私の故郷はある。漁師町として古くからの神社や古民家が残り、下町情緒あふれる元町。そして海岸を埋め立てて新たに開発された、マンションやリゾート地、工場地帯が広がる新町。
新旧二つの文化が連なる街。それが私の故郷である。

私は新町のマンションで生まれ育ったが、幼い頃から元町へはよく自転車を走らせ遊びに行っていた。東京湾へ注ぐ川沿いを上流へと遡っていくと、立ち並ぶマンションが減っていき、次第に戸建ての住宅が目立つようになる。

しまいには昔ながらの商店街や古びた神社が目に入るようになる。幼い私にとって、次第に変化していく街を自転車で駆け抜けるのはまるでタイムスリップをしているような気分で、この川沿いの小さな冒険は私のお気に入りだった。

元町には街の文化を保存する郷土資料館があり、そこは私の絶好の遊び場だった。元漁師のおじいさん達に投網を披露してもらったり、小舟に乗せてもらったりと無邪気に楽しんでいた。

この小舟はべか舟と呼ばれ地元漁師がよく使っていた船で、舟板が薄くへかへかと音を立てて軋むことからその名前がつき、親しまれてきた。そんな船の知識もベーゴマの回し方も、メンコの打ち方もおじいさん達から教わったものだった。

大人になった今、改めて郷土資料館に訪れると、子供の自分には1文字も読むことなく駆け抜けていた展示に溢れていた。そこには街の生々しい歴史と苦難の過去が描かれていた。

"安らかな浦"の名前を冠する故郷の穏やかな海では、かつて魚介や海苔が豊富に取れたそうだ。遠浅で波も穏やかな江戸川河口では、べか舟に乗った漁師たちが江戸前の魚介類をとり、賑わいを見せていた。

しかし高度経済成長期に入った昭和中頃、江戸川上流の製紙工場廃水が流れ込み、水質が著しく悪化するという事件が起こった。排水で川は黒く濁り、下流にあった私の街の海産資源は壊滅的な打撃を受けた。魚や貝が姿を消し漁師たちにとって死活問題となった。

漁民達は工場へ度重なる抗議を申し立てたが、それでも工場は排水を流し続けた。漁師達は工場へと乗り込み、ガラスを割る、石やレンガを投げ込むと言った暴動を起こし、警察との乱闘では100人を越える重軽傷者を出す大事件へと発展した。

この事件は「黒い水事件」と呼ばれ、経済成長と公害問題に警鐘を鳴らすことになった。漁師達の抗議運動によって工場は停止したが、一度悪化した水質が元の状態に戻ることはなく、漁獲量は減り続ける一方だった。漁師達はやむなく、漁業権を徐々に手放していくことになった。

同じころ、工場地帯建設のため街の湾岸埋め立て計画が進められていた。漁業の衰退に入れ替わる形で埋立地は瞬く間に広がっていった。水質悪化と埋立地拡大の波に押される形で、地元の漁民達は遂に漁業権を全面放棄したのだ。

瞬く間に埋立地は広がっていき、20年ほどで街の面積は4倍にも拡大した。かつての遠浅の海には工場地帯やマンション、遊園地にリゾートホテルが立ち並び、東京湾にべか舟は姿を消し、タンカーやコンテナ船が行き交うようになった。

慣れ親しみ、生業の場としていた海を手放さざるを得なかったことは、漁師達に取って苦渋の決断だったに違いない。
郷土資料館のおじいさんたちが投網やべか舟を子供達に伝え続けていたのも、消え去った漁業を忘れまいとする意地だったのかもしれない。

新町で生まれ育った私にとって海は歩けばすぐ辿り着く身近な存在だった。でもこの街の歴史を辿るほど、次第次第にどこまでも遠くなっていくような、そんな空しさを感じてしまう。

潮の香りも、波の飛沫も、かつての海とは変わらず目の前に漂い続けている。でもいくら耳をすましても、へかへかと舟を漕ぐ音も、投網がピシャリと海面を打つ音も聞こえることはもうないのだ。

ライター:南斗

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