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『ゴジラ-1.0』/世文見聞録113【5部作映画談】
「世文見聞録」シーズン2。川口世文と木暮林太郎が11月3日の『ゴジラ-1.0』公開に向けて、シンプルに『ゴジラ』というタイトルがついた映画を「5部作」として括って、1作ずつ語ってきましたが、ついにその完結編。
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○『ゴジラ-1.0』について(ネタバレ注意!)
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木暮林太郎:結局、何が「-1.0」だったのかよくわからなかったな。少なくとも「前日譚」ではなかった。今回のゴジラは“初代”だ。
川口世文:戦時中の「大戸島」の出現だけなら、まだゴジラの存在を日本人の大半は知らなかっただろうけど、あれだけ豪快に銀座をぶっ壊したわけだからな。
木暮:新しい「世界線」ってことだよな。だったら堂々と「ゴジラ1.0」でよかったのに。まあ、「2.0」でもいいけど、こういう言い方はもう古いから。
川口:確かにあの「再生能力」はゴジラの進化を感じさせた。一方で「-1.0」は、ゴジラから“何かを引いた”って意味じゃないかと思わされた。
木暮:何を引いたんだろう?
川口:何かアク抜きをしたというか、臭みをとったというか。おかげで「特撮映画」から「ディザスター映画」に変化して、客層を広げることに成功したともいえる。
木暮:ある意味それが『シン・ゴジラ』の“次”をやる秘策になったわけか。
川口:同時に、途中で“ゴジラのテーマ”がかかっても全然ピンと来なかった──ゴジラであってゴジラではない何かを観ている感じだった。
木暮:つまり、のれなかったってこと?
川口:1954年の『ゴジラ』が「戦争」や「原爆」のメタファーで、『シン・ゴジラ』が「地震」と「原発」のメタファーだとすると、今回のゴジラは“カスリーン台風”のメタファーのような感じがしたんだよね。
木暮:“カスリーン台風”?
川口:1947年に関東で猛威を振るった台風らしい。ハリウッド映画でいえば『パーフェクト・ストーム』とか『ツイスター』を観たときの印象に近かったんだ。
木暮:それって本当の「自然災害映画」じゃないか。
川口:「自然災害」だからこそ、誰も「なぜゴジラが東京を襲うのか?」という疑問を持たなかった。そんなの問うても意味がないから。そして、その分ゴジラ本来の“得体の知れなさ”が感じられなくなった。
木暮:それなのに、これまで『ゴジラ』シリーズを観ていなかった客層が入っているのだとしたら、それは必要な“アク抜き”だったってことか?
川口:そうかもしれないな。濃厚豚骨ラーメンを食べたつもりがあっさりパスタだったような“肩透かし感”というか……別にまずいといっているわけじゃなくて。
木暮:まあ、いわんとすることはわからないでもない。
川口:あらゆる意味で『シン・ゴジラ』の“逆張り”をしてくることは予想していたんだけど、その結果、こんな“口当たり”のいい味になるとは思っていなかった。
木暮:要は「ポリティカル・フィクション」には“しない”、「2つの計画」を同時並行“させない”一方で「家族や恋愛」をしっかり“中心に据えた”ってことだろ?
川口:何というかドラマ部分は“朝ドラ”なんだよな。『シン・仮面ライダー』との“浜辺美波の使い方”の比較をしても、その違いは歴然だ。
木暮:でも、ゴジラの倒し方のアイディアとか、スケールがデカくて面白かったと思うけどな。冷やすでも眠らせるでもなかった“わだつみ作戦”は『シン・ゴジラ』の“ヤシオリ作戦”と双璧だったんじゃないか?
川口:それは素直に認めよう。『ダンケルク』風の展開も、駆逐艦雪風や局地戦闘機震電の登場も、そもそも掃海艇を登場させて“海のゴジラ”にしたのがよかった。
木暮:つまりは“よかった”んじゃないか?
川口:そうなんだ、よかったんだよ。なのに、やっぱり違うんだ。ゴジラの肌の“牡蛎の殻”みたいな質感からして、あれはゴジラによく似た違う生き物だ。
木暮:やっぱり「ゴジラ2.0」だったんじゃないか?
○『ゴジラ』「5部作映画」入れ替え戦
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木暮林太郎:結局「ゴジラ5部作」とは何だったんだ? 最終的にどの5本が残った?
川口世文:おまえはどう思う?
木暮:おれに訊くなよ。そもそも『ゴジラ』が5部作だといい出したのはおまえだ。
川口:そうだな。1954年版は別格として、1984年版は残念ながら“初代”がいる世界線だった。1998年の“トライスター・ゴジラ”は「ゴジラ0.1」って感じだったし──。
木暮:何かのメタファーでも象徴でもなく、あれは“生き物”だったよな。
川口:2014年の“レジェンダリー・ゴジラ”は1作目から“対決シリーズ”でゴジラ対人類ではなかった。『シン・ゴジラ』もタイトルの「シン」が邪魔だ。
木暮:1954年以外は“落選する”理由があるってことだな?──で、どれが『ゴジラ-1.0』と入れ替わる?
川口:いや……どれも入れ替わらない。
木暮:何だよ、その結論は?
川口:理由は簡単だ。『シン・ゴジラ』までの5本はいわば「ゴジラ1.0」のリメイクやリブートだった。だからこそ“初代”と比較され、常にああだこうだと文句をいわれる運命にあった。
木暮:一方で、『ゴジラ-1.0』はそもそも「ゴジラ1.0」を描き直そうとはしていなかったってことか?
川口:おまえがいったとおり、これは「ゴジラ2.0」だから、「ゴジラ1.0」の5部作には入れようがない。
木暮:「ゴジラ」から1を引いたら2になった。だからそれは「ゴジラ1.0」ではない──禅問答かよ(笑)
川口:まあ、そういうことだ。良くも悪くも、ここからまた新しい70年間がはじまるんだ。
木暮:さすがにその70年間には付き合ってられない。
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