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『ゴジラ(1998年版)』/世文見聞録106【5部作映画談】

「世文見聞録」シーズン2。川口世文と木暮林太郎が11月3日の『ゴジラ-1.0』公開に向けて、シンプルに『ゴジラ』というタイトルがついた映画を「5部作」として括って、1作ずつ語っていきます。

○『ゴジラ(1998年版)』について(ネタバレ注意!)

川口世文:予告編で、車が振動で跳ね上がるシーンを観たときは興奮したけど、そこが期待値のピークだった。『インディペンデンス・デイ』のプロデューサーと監督コンビだから、絶対に外さないと思っていたんだけど。

木暮林太郎:確かに「東宝特撮映画」とはまったく違う“芸の細かさ”と“予算のかけ方”はあったな。でも、その先に登場したのはイグアナの化け物だった(笑)

川口:いい意味で、日本版ゴジラが内包していた「象徴性」や「政治性」を取っ払ってくれていたんだけど、むしろやりたかったのは『ジュラシック・パーク』だったんだろうな。

木暮:完全にオリジナルな企画だったら、『ジョーズ』とか『エイリアン』とか『プレデター』みたいなフランチャイズ化は十分ありえたんだろう。

川口:しかし、題材が「ゴジラ」だからね。そのキャラクターをグローバルなものにするに当たって、ハリウッドは何とか自分たちのコンセプトのなかにゴジラを呑み込もうとして失敗したんだ。

木暮:そのコンセプトって何?

川口:「最後は人間によって倒される」ってことかな?

木暮:1998年といえば「9.11」の前だしな……きちんと作戦さえ立てれば、最後は米軍が退治できる、コントロールできるという結末が当たり前だった。

川口:マンハッタンのビルの谷間が“森”のように機能して、あのデカイ生き物がなかなか見つからないという発想は悪くなかったんだけどね。

木暮:最終的にハープーン・ミサイルで“退治可能”なレベルのゴジラを設定した場合、では、何がサスペンスを生むのか?

川口:──それが「200個の卵」ということになる。さすがに200匹が成長したら収拾がつかなくなる。

木暮:ゴジラは単性生殖する設定らしいけど、「彼」と呼んでいいのかな?

川口:マジソン・スクエア・ガーデンが巣作りに最適だとどうしてわかったのかも気になる。

木暮:日本でいうと武道館とか、東京ドームだよな……ああいった“ウジャウジャ感”は日本のゴジラにはなかった。「モスラ」がでっかい“繭”を作ったくらいで。

川口:「敵は少ないうちに討て」という発想が基本的にアメリカ人にはあるのかもしれない。国土の“侵略者”という風に見ていたんだろうな。

木暮:そういう基本的な発想にゴジラを呑み込もうとして失敗した──。

川口:まあ、そういうことだね。

木暮:フランス情報部の部隊を率いるジャン・レノは悪くなかった。“「2つの計画」を走らせる”ってやつだ。

川口:「巣」を爆破されたゴジラが怒って、主人公4人が乗ったタクシーを追いかけるクライマックスはさすがに凄かった。

木暮:「家族や恋愛」というほどではなくても、いわゆる“虫の目”で個々人を描きながら、彼らがとんでもない“ディザスター”に巻き込まれる描写は、やっぱりハリウッドには勝てないよ。

川口:『シン・ゴジラ』でさえ、根本的には予算の問題でそういうところは描けなかったからな。

木暮:『ゴジラ-1.0』はそこに挑戦するんじゃないか?

川口:正直、期待していいのかわからないけど(笑)

木暮:あとラストで「卵」が一個残ったのも気になる。あれは当然、“続編”を考えてのことなんだろうな?

川口:“続編”の脚本は書かれたらしいからね……それはそれでどうなったのか気になる。

木暮:結局、“続編”は製作されず、『シン・ゴジラ』のラストにも似た“象徴的な終わり方”になったわけだ。


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