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TALK: 内藤 礼×谷口昌良×小池一子

東京ビエンナーレの参加作家3名に話を伺うTOKYO BIENNALE TALKシリーズ。第4弾は、参加作家の内藤礼、ギャラリー「空蓮房」の谷口昌良、そして小池一子の3名だ。内藤礼は、糸や布といった繊細な素材を用いたインスタレーションで、ものと空間、環境と鑑賞者を対話に誘うような作品を制作。谷口昌良は、僧侶、写真家という顔を持ち、東京・蔵前の長応院内に「空蓮房」という空間を設け、作家の展示活動をする。小池一子は、80年代から美術のみにとどまらないオルタナティブな活動をし、本芸術祭では内藤礼、宮永愛子、柳井信乃の3人の女性アーティストが参加する「Praying for Tokyo 東京に祈る」のキュレーターと総合ディレクターを務める。会場提供をする谷口さんの立場からの東京ビエンナーレへの期待、小池さんが作品に込めた「祈り」、内藤さんの作品から感じられる生への祝福……。鼎談は、内藤礼さんの作品が展示される場所「空蓮房」のある長応院にて行われた。
(対談日/2021年4月 聞き手・文:上條桂子、編集協力:中村志保)

内藤礼プロジェクトはこちら
https://tb2020.jp/project/praying-for-tokyo-rei-naito/

作り手と観客が双方で学び合う
場としての東京ビエンナーレ

──今回の鼎談をするにあたりまして、谷口さんからお話する内容のメモをいただきました。お二人にはそのメモは見ていただいていないんですが、「主客未分(しゅかくみぶん)」という言葉で今回の東京ビエンナーレについてのお話しや、内藤礼さんの作品について書いていただいていて、とても示唆に富む内容でした。話のきっかけとして、少しお話いただいてもいいでしょうか?

谷口 まずこういったことは総合ディレクターである小池さんからお話いただくことなのかもしれませんが、「東京ビエンナーレ」に対しての、私の個人的な考えをお話させていただければと思います。私は、90年代あたりから写真を軸に作家志望で活動をしてきまして、その後、2006年に寺院の一角に「空蓮房」というスペースを構えて年に2〜3回の展覧会をしています。

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内藤礼の作品発表会場となる「空蓮房」入口


少し前まで現代美術というのは、もう少しキリッとしたイメージがありました。美術を哲学として語っていたような。でも最近はやたらとカタカナの“アート”という言葉が広がってきていて、それが軽く思えて嫌だなと思っていた部分があるんです。でも、最近の動向を見ていると、非常に身辺のものに向かって拡張しているんじゃないか、アートというニュアンスの間口が広くなって身辺に花を咲かせるような形になってきたんじゃないかという思いがしていて。例えば、昔だったら作品についていろんな哲学を持ち出したり、批評したり論議したりしたものですが、今はもっと身辺の──人権やジェンダーの問題等、非常に生活に密着した問題を挙げて作品を語ることが多い。そういう部分では、気高い丘に立ってものを見つめるのではなく、作品とともに自分がある、身近なコップを見ているように作品を見る人たちが増えたのではないかと思います。または、そういう受け皿を持つカルチャーができているように思い、最近は少し好意的に考えるようになったのです。

「東京ビエンナーレ」の話に繋げますと、作り手と見手(観客)の共生き的な気づき合いの文化を広げていくようなイベントになったらうれしいなと思っています。作家と観客、どちらが偉いということなく共にあるということ。そこに発生する気づきや学び、さらに生活に帰って循環していくこと。そういう話を論理的にではなく、もっと生活感のある気づきや学びとして、東京というカオスな都会の中で考えていく。それが東京ビエンナーレの特徴なのではと思っています。

また、東京という都市がグローバルになってきて、多様な価値観が生まれてきたときに人間が人間として生きる核みたいなものを共有し合うことが必要だと最近痛切に感じています。これまでのように作品主義──誰の作品がいいか悪いかといったことや、欧米から流れてくる情報に左右されて与えられた価値観に対抗しながら、独自のカルチャーを持ち、考え、掘り起こしながら、共有・共生の文化の出発点になったらいいなと思っています。このイベントは東京ビエンナーレであって、東京“アート”ビエンナーレではないのですよね。そこが僕はいいなと。“アート”という言葉が抜けているところが面白い。そうした固定された何かにカテゴライズされてなくて、もっと衣食住を中心とした「生活」に寄り添いながら、「気づき」を共学びしていく動きがもっと大きな運動になったらいいなと思っています。

先ほど寺院の一角で「空蓮房」というギャラリーをしているというお話をしましたが、このギャラリーは一人で見る場所で、大きな目的としては見る方の感度を高めて欲しいという思いがあったのです。最近では、「いいね」ボタンを押すようにパッと見てすぐに帰ってしまう人が多い。作家は一生をかけて作品をつくっているわけですから、もう少し時間を費やして自分の感性を静寂の中に取り戻して「作品を見るとは何か」を観客に突きつけたい。そんな希望があって、この場所をつくりました。ギャラリーというのは作家を紹介する、いわゆるコマーシャルな場所でもありますが、作品と対峙して自分を省みる──我々は「回向(えこう)する」という言葉を使うのですが、要するに、見る者の思いが向こうへ行ってまた返ってくる相互関係の中に成立するものだと思っています。私たちがいつも行なっている儀式や儀礼もまったく同じことです。供養というのも一方的なものではなく、供養が終わったら跳ね返ってくる。両方がイーブンに返ってくることを回向というのです。そうした関係の中で「見る」ということが何なのかというのを、皆さんに学んでいただきたい。東京ビエンナーレが、見手の感度をアップする、そんな機会になったらいいなというのが私の希望です。長くなりました。

小池一子
 ありがとうございます。谷口さんからいい切り口をいただきました。今、生きている人間がいて、まちがあって、それから「何か」があるということをよく考えるんですよね。カタカナの言葉で「ビエンナーレ」「トリエンナーレ」というのが日本の人の口にものぼるようになりましたが、もともと日本人の生活はかなり細やかに日常の美しいものを少しでも周りに置きたいという思いがあったと思います。そういう個人が集まっている街で、例えばヴェネチア・ビエンナーレのようにアートのビエンナーレというとなぜか生活から離れしてしまうのね。イベント・催事になった瞬間に生活離れをしてしまって、最近は特にマーケット性が強くなっている。そうなっていくと、私たちはいったいアートに何を求めているのかということを逆に考えさせられるわけです。

私は「東京ビエンナーレ」という言葉の大きさに抵抗しちゃうんだけど、ただ、友人の中村政人が実行しようとした時に、もし私が参画するんだったら「まちの時間」をきちんと組み込みたいなと思っていました。私の中でずっと心に残っていること、やり残したことがあって。それは消えてしまった人たちへの「祈り」のような行為なのかなと思ったんです。家の墓地が谷中にあるんですが、何かし足りてないんじゃないかなと思うんです。私の世代は戦争を経験していますが、私は個人疎開で東京から出されました。友だちは東京に残り、一人で逃げてもいいんだろうかという思いがずっとありました。戦況を聞くと、どんどん爆弾が落ちてやられて防空壕に逃げ込んで……、そういうのがずっと頭に残っていたんですね。今回、東京の街に立ってアートで何ができるかを考えた時にそのことを思いました。

そうした時間を受け止めて理解してくれるアーティストが、内藤礼さんしか思いつきませんでした。現在と未来に対するアートというのはいろんな方がされるだろうと思います。ですが、私のプロジェクトでは過去の人間の行為も含めて掘り下げた表現にしたいと思い、内藤さんにご相談しました。そしてこの蔵前の「空蓮房」という空間で、来た人が何かを考えたり、過去のことを考察できるような時間を創り出したいなと思いました。特に現在の東京では、異常なスピードであらゆる情報が錯綜している。そんな時に空蓮房に「ひと」(内藤礼の作品)が現れることを希求する。それが始まりです。

生まれてしまって生きるほかない
普遍的な「ひと」を見て感じること

内藤礼 最初に正直な話をすると、まず私にとっては東京ビエンナーレでも美術館の個展でも、コマーシャルギャラリーの個展でも、一人の人間である私という「個」が始まりなんです。私は生きている人間で、いつかは命が終わる人間である。そして、自分が生きていられるためにつくるというのが根っこにあります。だから枠組みがどういう形であろうと、つくるという行為を動かしているのはそこが元にあります。

けれども、作品をつくる行為の中で、「個」と向き合うということとは逆のことが起き始めます。私は自分以外のものにはなれない、人間であることからは逃れられないと思うほどに、人間という同じ条件で生きている他者が自分の内に現れてきます。皆違う人生を送りますし、社会や時代によっても違うけれど、それ以前の、生まれてしまって生きて死ぬほかないという。そこで私は他者とつながるんだと思うんです。

今回、小池さんから「東京に祈る」というテーマ、「東京大空襲のことを思ってみる」という言葉をいただきました。

小池 内藤さんが「空蓮房」で展示されたのは2012年でしたよね?

内藤 はい。あの「ひと」が出てきたのは東日本大震災があった後です。そのとき思ったのは「“ひと”を増やさなくてはいけない」ということでした。

なんと乱暴な子供のような発想かと思ったけれども、原初の時代からそういう心情は人間にあったんじゃないかと思いました。本当の人間かもしれないし、人型かもしれないし、それはわからないけど。だからこの感情は私であって私でない、と思いました。人の具象は一枚も描いたことがないし、抽象表現するというのが私自身であったのに、考えることなく人型をつくり始めて。その「ひと」というのは疑うことを知らない。その目は見たものを希望だと信じて疑わないのです。

人間はそれが不可能ですけれど、人型はあり得る。目の前に現れた人や光景を希望だと思う「ひと」。そういう「ひと」としていろんなところに立ってきて、空蓮房という場所にも立ちました。なんて言うのかな、私の作品は「展示」という言葉が合わないんですよね。そういうことが起きた、そういう時が起きた、という感じでしょうか(笑)。

空蓮房はもともと一人ずつ入る空間です。一人で入ったら一人の「ひと」がいる。人間のほうが見つけたと思うかもしれないし、「ひと」のほうが目の前に人が現れた、待ってた人が現れたと思うのかもしれない。きっかけは震災だったんですけど、その時思った「“ひと”を増やさなくてはいけない」というのは震災だけではない。なんていうのかな……。

──「ひと」を震災の後につくりはじめて、それから10年経って何か変わりましたか?

内藤 特に何かが変わるということはなくて、今もつくり続けています。「ひと」をつくると心が落ち着きます。基本的に例えば他の作品をつくる時もそうなんですが、私の意思が私や作品を動かさないことを大事にしています。でも、意思が入らないとはいっても、実際は確実にあるんです。つくっているのは私だから。ただ、自我から少しでも離れるためにつくっているのでもあります。祈りもそうだと思います。つくることと自我から離れることというのは、矛盾していることでもあるんです。けれども、一つになることがあります。

今回「東京に祈る」のお話が来た時に思いました。それが戦争であっても震災であっても、今のこの社会の中でも、生きたいと思っているのに生きることができなかった人がいたのだと。

──内藤さんの思い入れや自我が、「ひと」に反映されているかは別として、観客が「ひと」に何を見るか投影しているかというのはまた全然異なる問題ですよね。

内藤 去年の金沢の「うつしあう創造」(金沢21世紀美術館 https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=45&d=1779)もそうですが、今話しているのは私にとってのつくる行為、私にとっての「ひと」であって。作品は本当に自由で、体験はその人の出来事だから、他の人が入っていってはいけない。特に一人で見る作品というのは、周りの人の言葉が聞こえないし、それが強いと思うんです。緊張する人もいるかもしれないし、自由と感じる人もいるかもしれない。

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「うつしあう創造」2020年、金沢 21世紀美術館、石川
《精霊》2020年 リボン、ポール 756.3 x 1238 x 1238 cm(サイズ可変)
photo by 畠山直哉

一人で体験する作品というのは91年の「地上にひとつの場所を」が始まりで、2001年の「このことを」の後、だんだん人がいる光景も自分の中で意味を持つようになってきました。そこにたくさんの人がいる。そして、人は一人ずつである。作品と自分だけでなく、自分と他の人との関係を感じる。一人ずつ入る作品だったとしても、自分より先にそこに入った人が出てくる姿に何かを思うといったような、静かな共有があって。同じ作品を同じ場所で見ている時に他者に対して生まれる感情と、一人ずつで見た時に同じ空間に入って出て来る人に対して生まれる感情、それぞれがあるのだと思います。

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《このことを 》 2001年 、 家プロジェクト 「 きんざ 」 、 直島 、香川
photo by 畠山直哉

谷口 内藤さんの展示を空蓮房でやった時のことを思い出しました。作品を味わった人が「拝見しました」と私のところにやってきて、感想めいた話をしていく。その流れはどの展示も同じなのですが、内藤さんの展示の時は、その話のお相手がとても大変だったのです(笑)。皆さん、とにかく語りたくなるようで、泣いて過去の悲しかったことを話す人、嬉しかったことを話す人、先ほどの小池さんの話のように戦争の話をし始める人……。人の行為やいろんなことを話しながら、感情を言葉に直しながら話が延々と続くわけですよ。

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「地上はどんなところだったか」2012年、空蓮房、東京
《ひと》2012年 、 木にアクリル絵具 、 1.5×1×5 cm、長應院蔵
photo by 畠山直哉

先ほどの話にもありましたが、これは哲学で話すようなことではなくて、身辺のことなのです。過去の人間の歴史に触れながら、人が人であることが嬉しい──内藤さんの言葉を借りれば「祝福」、それを本当に幸せに思う人もいれば、逆に愚かな人間に生まれてしまったことを悔いるような告白をする方もいて、本当に様々でした。さっき内藤さんもおっしゃっていましたが、「ひと」を置くというのは、展覧会や作品、美術と言う言葉でくくられるものではない。私は毎朝御本尊様に向かって御経を読んで拝んでいますが、それと似たような状況です。こんな状況が生まれたのは、内藤さんの展示が初めて。前にも後にもないですね。

──展示という何か人の化身があることで、見る人の別の時間や何か別のものに接続されて、何かが鮮明に想起されることが起こるんですね。今回ビエンナーレは街で展開されるわけですが、街にある宗教施設のような場所というのは、もともと他の場所や時間とつながる機能があったのではないでしょうか。谷口さん、どう思われますか?

谷口 今は強くそう思いますね。内藤さんの作品は、僕の感覚では作品というより本堂と延長線上のものです。展示の時は本堂も開けているのですが、必ず皆さん手を合わせていきます。普段の展示の時にはそういうことは起こりません。宗教と美術、そこにある境界がだんだん溶けていくというか。素晴らしい瞬間でした。

先ほど小池さんもおっしゃいましたが、今の状況は情報過多でスピードも速くだいぶゆとりがなくなっています。昔は、仏壇に手を合わせるとか、いただきものをまずは仏壇に供える、そういう時間的余裕がありました。それがだんだん簡素化されてしまって、死者を葬るお葬式だって効率が重視されています。

デジタルは便利ですし、悪いわけではありませんが、どうしても0と1の合理性では割り切れない部分があります。日本の古い文化では、0と1の間にあるものを考える余裕がありました。こういう今だからこそ内藤さんの作品を東京ビエンナーレで展示する意義は大きい気がします。

内藤礼の作品が持つ
「立ち去り難さ」について

小池 見るということ。内藤さんは徹底して「見る」ことを考えているアーティストだと思うんですよね。内藤さんから生み出された「ひと」が目を持っていて、その目が希望に向かっているという言葉もありましたが、“ビエンナーレ”というとやはりビジュアルアートが主体になっていて、皆さん作品を「見る」と言いますが、内藤さんが「見る」というのは、つくり出されたものに対して自分がどれだけ対話できるかということ。素晴らしい作品というのは、無限に見ていたいし、本当に立ち去り難い。内藤さんと二人でよくこの話をしましたけど、この「立ち去り難さ」。「見る」という行為の奥行きみたいなものをね、「空蓮房」のような空間で起きることで見る人に感じてもらえるなと思っています。

内藤 その「立ち去り難さ」というのは、どちらともなく出てきた言葉です。もう20年かそれよりも前の話ですが。

小池 佐賀町(編注:佐賀町エキジビット・スペース/小池一子が1983年、東京・江東区に立ち上げたオルタナティブスペース。美術、ファッション、建築、写真、デザインなど多岐に渡るジャンルのアーティストの作品発表の場となった)時代だったかな?

内藤 空間に一人ずつ入っていき、そこから離れなくてはいけない時の大事なものから引き裂かれる感じ。そこに自分はいるのに、そこから出なくてはいけないというのは、生きていることから死へと向かわなくてはいけないというのと近いことだと私は思っています。目の前に見えているものを、次の瞬間あきらめなくてはいけないという。それは私のどんな作品にも強く感じているもので、その感情はなんなのかと考えるけど、やはり人間の根本的な条件であるいつまでも生が続くわけではなくていつか終わりがくる、というところと無意識に深いところで繋がっているんじゃないかなと思います。「立ち去り難さ」というのは。

美術作品というものが人にそこまで感じさせる不思議。たかが物、人にとって物って本当になんだろうと思います。目の前の物を物でなくしているのは、自身なんですけどね。それを感じている自分の内の見えない深さが目の前にあるものをただの木や紙でなくしているんです。「立ち去り難さ」というのもやはり、人間として生まれてしまった私たちってなんなんだろうと思わせるものが、その場所から離れる時にもかすかに存在しているような気がします。

谷口 今の話に付け加えると、ある男性の方が入っていって1時間経っても出てこなかったので見に行ってみたら、寝ていたんですよ。出てこられた時に話を聞いたら、先日お母様を亡くしたと。お母様を思い出して、ずっとここにいたかった、とお話をされたのを思い出しました。立ち去り難いって確かにありますよね。今ある多くの作品の典型は一瞬見て「いいね」で終わってしまう。でも、それでは到底太刀打ちできないのが、内藤さんの作品世界だと思います。

生きる根底には、我々で言う「生老病死」という四苦八苦の話があります。生あるからには必ず死すという問題。仏教の場合、お釈迦様は生を喜びとして表現せず、最初から苦であると。苦海に出ることがまず生苦、そして老いる苦、病気をする苦、死ぬ苦、それがどんな人にも平等にある。それを大前提として幸せを掴みなさいというのが仏教の構図なのですね。そのことと、僕は内藤さんが言う「祝福」というのがどこかで相反しつつ一緒だなと思うことがあります。

この寺は浄土宗なので浄土系の言葉を使うと「死」ではなく「往生」する、生まれ往くと表現します。それは、極楽往生、浄土に行きますということ。浄土に生まれる身を持ったことを「祝福」するのです。死が生との断絶のように断ち切れる他の宗教とは少し違って、死と生は続いていくという感覚が浄土教にはあります。時に生まれちゃった、苦しいんだということではなくて、ありがたき浄土に生まれることができる身をいただいた、命をいただいたという感覚。自分の意思で生まれるわけではないから、本当にいただき物なのですよ。奇遇にも。これが仏教で言う「縁」です。

親の縁、先祖の縁というのは、生活をしていると意外と忘れてしまい、自分の命は自分のものだという錯覚に陥るのですが、命というのはちょうだいものでしかない。ちょうだいした命をどう育むのかが人生で、どのように育んで、一番幸せな浄土に身を運んでいくか。だから祝福というのは、浄土(死)に向かってゆく人に対し、行ってらっしゃいとできる自分が在る、それが「祝福」なんだと思います。だから、四苦と祝福というのは根底のところで繋がっている。宿命として在るわけです。

内藤 ありとあらゆるものが宿命ですよね。

谷口 そう、それが「縁」です。縁にはいいも悪いもないんですよ。「無分別智(むふんべっち)」という言葉があって、さっき言った「主客未分」と似た意味なんですが。主観と客観以前の話で、分別のない智慧という意味です。私たちは、どうも「いい」「悪い」、とか分別をつけて納得する癖がありがちなのだけど、大切なことはそれ以前にあるという智慧なのですよね。それをもってして、小池さんがおっしゃったアートの見方みたいな部分に触れていく気がするのですよね。

作品を見るためには五感六感が重要であり、それを磨くことがすごく大事。人が人として人であるためにと考えたら、その感性を育むことが生きる力になってくるわけですよ。その点で、冒頭に話した気づきの学びのビエンナーレの話に戻るんですが。その最たるものが内藤さんの作品だなぁと思うわけです。本当に見るということを学ばせてもらう。

──ありがとうございます。内藤さんの作品って「見る」と「見られる」という二項対立を超えたところにあるものだと思います。文章にもありましたが、一方的に見るのではなく、生と死というのも、生と死という別の世界があるわけではないという感じがして。私とあなたの境界のなさ、そういうところにも通ずるところがあるような気がします。

谷口 そうですよね。仏教においては今というのは「あなたがいるから私がいる」「私がいるからあなたがいる」というのが同時に起きている現象だと言っています。

内藤 自分を見る人がいないと、自分はいないんだものね。

「永遠の現在」を
生きるということ

谷口 例えば内藤さんだったらキャンバスに絵を描く時は、キャンバスが他者となる。それが同時に現象として起きているのが「時間」とか「今」とか「現在」ということです。

先日ある方と「永遠の現在」について話をしました。無常ですね。我々には常にそういうことがつきまとっています。極端な話、仏教には時間の概念がありません。昨日や明日という仮の言葉を使ったり、過去世・現在世・未来世と言ったりもしますが、それは方便であって。永遠の現在というのは一番仏教的なのです。

仏教で時間の概念を表すとしたら、自己と他者を一緒に生きてますよ、ということです。それ以上西洋哲学的に分解する必要はありませんから、仏教は淡々とそこら辺を言っているわけです。テープを巻き戻したり早送りすることはできない、ただただ変化しているだけであると。かといって、どこかに向かっているわけでもない。方向性を持たないのです。

──時間軸を持たないということですね。

谷口 そう。いつでも現在。永遠の現在なのです。内藤さんの作品を見ていると、そのようなことを考えたりします。

小池 「永遠の現在」というのは、現代美術の真髄みたいなことかもしれませんね。

谷口 仏の位というのは如来、菩薩とあります。如来には阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、大日如来などがいて、菩薩というのは如来のお使い──現世と浄土のお使いをする役割なんです。阿弥陀如来の両脇にいらっしゃるのが、観音菩薩と勢至(せいし)菩薩です。内藤さんの作品というのは、人々と混じり合いながら気づきを与える菩薩様のような存在だと私は思っています。内藤さんの作品の中には、アートどうのこうのではなく「人」、人が人として人であるべき姿が映し出されているように思います。

人というかたちを生み出す
人というかたちに見るもの


小池 内藤さんの作品がスピリチュアルだっていう言葉をある美術の専門家が言ったことがあるんだけど、スピリチュアルというよりももっとフィジカルにコンタクトできる創造物が生まれたという喜びが「ひと」にはあると思います。さっき内藤さんが聞きづてならないことを言いました。昔から豊穣の女神というのがいるでしょう、埴輪や土偶にもありますが。内藤さん、「“ひと”を増やさないといけないと思った」と言いましたね。これ、すごいですよ。災害の後に。人間自体がよくぞ生まれさせられたと思うんだけど、内藤さんがつくり出した「ひと」も、よくぞ形をもって生まれてくれたという感じがしますね。

内藤 人間もそもそも不思議の塊じゃないですか。宇宙も人も。だから作品も同じですよ。でもそれがいろんな感情を引き起こすというのが不思議なことで、そこの阿弥陀様もお地蔵様も人も、人型ですよね。媒体・媒介というか。それで思い出したのが、「人だけが、私たちにとって人なのだ」。それは、展示期間中に谷口さんからいただいたメールに、私が返信したときの言葉ですね。

この言葉から後に、「人にとって 人は 人しかいない」というもう一つの言葉が生まれました。人型って本当に溢れているでしょう。土偶もそうだしフィギュアもそう。人間はあらゆることを置き換えて、ままごとのようにしていくんだなって、そういうことを通しても感じます。それが物語(ファンタジー)だとわかっていても、物語は人間に必要ですね。それはアートにも宗教にもあると思います。物語に支えられ、物語を拠りどころとして人の心が成り立っているというのは。

──時にフィクションのほうがリアリティを持つこともありますね。

内藤 それは絶対にある。現実だけでは成り立たないからフィクションが必要になる。河合隼雄さんは物語をファンタジーっていう言い方をしますが。ファンタジーは現実ではないが、真実になると。

小池 だから宗教も生まれるんですね。

内藤 宗教も物語だし美術も物語が託されている。人は必要な物語をそこから見い出していくのですね。

──先ほどのお話にありました、見る人が作家から何かを受け取るだけじゃなくて、双方に作用するみたいな場という、それもすごく示唆的だなと感じました。展覧会というと、誰それの作品を見せていただきに行く、というなんとなくそんな感じの印象を持つ人も多いと思うので。

谷口 相互作用というよりも、この場所でもそうですが時間をかけて何かを見ていると、見られている状況にもなるわけですよね。となると自分の中で問答が始まってしまう。だから「見る・見られる」で終わるならまだしもいいのですが、私の願いとしては第三者の「大きな他者」に、作家と見手の両者がたどり着きたいなという思いです。

その問答の中からたどり着くのは第三の大きな他者、という感覚を僕は持っていまして。そういう意味では内藤さんが作品をつくるという行為は、私どもが「ご供養」すると言うように、何か大きい他者に対してつくっているのかなという思いがあります。供養というのは、「養う」を「供える」と書くでしょう。養う=自分の身や心を日々精進して、それを仏様にお供えする。それが供養の意味なのです。そういう意味において、作家の構図もそれに当てはまるのではないかと僕は思っている。仏様とまでは言わないけれど、大きな他者に引き寄せられながらつくっている、と。さっき内藤さんが「個」ということを言っておられたけど、個というのはある意味では宿命を兼ねながら掘っていくと、自己表現という意味で使う時の個と違うのです。我欲とか欲にまみれた個というよりも、「人としての個」なのですよ。

内藤 逃れられない個ですよね。

宿命としての個を生き
生そのものを祝福する

谷口 そう、宿命としての個です。その裏には大きな他者としてのつながりができているからこそ個が言えるわけで、個が一人で孤立しているわけではないのです。個と他者が繋がってくる。内藤さんの祝福を仏教的にいうと、真の祝福を得られんがためにこの世に生まれた悦び、とでも言いましょうか。

内藤 さっきの話ですと、生まれたことは浄土に行ける可能性がある。それが「祝福」ということでしたね。でも、仏教的には生のなかにも祝福はあるんですか? すでに生きているときにそちらのことは前提というか……。

谷口
 そう、備わっているのです。

内藤 だから生そのものが祝福であるということですね。

谷口 そういうことです。人間に生まれたから、今ここにある「お〜いお茶」を飲める。それは祝福かもしれない。生まれたからこそ出会えるという意味でね。生まれたからこそ「お〜い浄土」とも出会えるのです。生まれなかったら浄土にも出会えない。

内藤 そっか。お〜い浄土だけじゃなくて、お〜いお茶でもいいし、お〜いお饅頭でもいいのね(笑)。

谷口 そうです。そうでなければ皆さんと今日ここで会えてないし、小池さんと内藤さんがいるというこの状況が生まれてないわけですから。

内藤 本当に次の瞬間に何があるかわからないって思うし、私は、現出・現れるということを生きていると感じるんです。次の瞬間に刻々と自分のなかから生きるというものが現れ続けているということが、結果的に生きていることだと。だから作品にもそういう感覚がある。絵にももちろん。現れて、変化して。変化したということは次の瞬間が現れたということなんだけど。それを感じ取るのは見る方の側なんです。

──その「見え」が変化していくのが、内藤さん作品の面白さでもあるなと思います。

内藤 現れたのではないか、というところに一番「生」を感じるんです。現れ切ったものより。それは平面でも立体でもインスタレーションでも。だから人によっては何もないじゃないかと思うんです。

小池 豊島の(編注:豊島美術館)ができた時に、最初に水が現れるところを絶対に見てくださいと言われて、早起きして見に行きましたが。確かにそうですね。内藤さんの作品はすべてそうだろうけども、現れてくれた!という。

内藤 そう思ったら、世界はいっぱいそれに溢れている。それを時間と言うんでしょうね。

谷口 現れる。いい言葉ですね。内藤さんのはすごく直感的だから、受け手の方の感受性の気づきの尺度というかアンテナの感度というものもあるでしょう。だけど、気づきというのは磨けるものだとは思います。坊さんというのは、本山に行って毎日毎日綺麗な廊下を掃除します。汚れてないのに雑巾かけるのだから。馬鹿馬鹿しいくらいなのですけど、そこなんですよ。その行為によって身体に染み込ませる。綺麗な廊下を水拭きするのも、決して磨くことを目的としているのではなく、身体に何かを染み込ませているということなのです。薫習(※編注:くんじゅう。行為の結果が心に影響を与えること)です。

小池 内藤さんの作品は身体で見るのね。

内藤 身体でそこに入っていく。一人でそこに入っていく。一人で座ってそこから出ていく一連の行為。あるいは人と一緒に同じ空間にいて、自分ではない人の肉体を見ている私というもの。同じ人間という身体と限られた命を持った者。言葉は交わさなくともその人の心を思うと愛おしい気持ちが含まれている。生きている身体ですね。永遠の現在的に、ここにいるっていうことを大事に思っているのかもしれない。それを知るために作品がある。今ここにいて、刻々と生まれ出ているというのを知りたいという、それも一つの祈りですよね。

──いま自分が生きているということをいかに感じるか。日々忘れてしまっているからこそ、内藤さんの作品やお寺に行くことで再確認しに行くというのもあるかもしれませんね。内藤さんの作品というと、心からとかフィジカルな体験として、その場にいたいという。さっきの「立ち去り難さ」という感覚なんじゃいかと思うんです。

小池 そうですよね、そこに行かなければ感じられない。行こうと思う人は、来る。当たり前なんだけど(笑)、行こうと思わない人に感応してもらわなくていいという。逆に来る人を選んでいるかもしれない。それくらい厳しいものだとも思います。

──空蓮房での内藤さん作品の体験が、さらに楽しみになりました。ありがとうございました。

内藤礼プロジェクトはこちら
https://tb2020.jp/project/praying-for-tokyo-rei-naito/


東京ビエンナーレ2020/2021
見なれぬ景色へ ―純粋×切実×逸脱―
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https://tb2020.jp/ticket/

cover photo
「うつしあう創造」2020年、金沢 21世紀美術館、石川
《精霊》2020年 リボン、ポール 756.3 x 1238 x 1238 cm(サイズ可変)
photo by 畠山直哉

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