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屋上に行けない、日本の理由

 このご時世、世界中で #stayhome している中で、屋上で踊ったり、演奏したりして気晴らしをしている動画を度々目にする。その度に日本の屋上は、閉鎖的だなと感じガッカリしてしまうのだけど、改めて屋上に行けない理由を整理したいと思う。

ネットで情報収拾していると、1970-80年あたりまでは、学校や会社の屋上は解放されていたようだ。

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引用:(1978年当時)しながわweb写真館

ちなみに、RCサクセションの「トランジスタラジオ」の歌詞に

Woo 授業をさぼって Yeah 陽のあたる場所に
いたんだよ
寝転んでたのさ 屋上で タバコのけむり
とてもあおくて

とあるので、少なくとも1951年生まれの忌野清志郎が高校3年の時1969年の都立日野高校(2020年秋解体予定)では、屋上に上がれたと推測。

他にも屋上でバレーボールしていた写真なども、ちらほら見つかる。
https://digital.asahi.com/articles/photo/AS20180301001019.html

それでは何故に屋上に上がれなくなって行ったのか。

1980年頃、どういった変化があったか考えてみたい。


【ビル】

1968年に竣工した霞が関ビル屋上で行われた結婚式↓

この頃からビルのバーションが上がっていく。

高層化すると当然、屋上は強い風が吹くので、ランチやバレーどころではないし、うっかり何かを落としてしまうと大事故になりかねない。

そして、ビルには空調やエレベーター、ヘリポートなどの設備が設置され人の居場所を奪っていく。


・これから少しネガティブな例を挙げるが、屋上を語る上でそこを見なくては、片手落ちになると思うのでどうか容赦して頂きたい。


【学校】

屋上のイメージとして、学校の屋上を思い浮かべる人は多いと思う。

映画や漫画などの舞台になる事が多いからだろう。しかし実際屋上が解放されている学校はどれほどあるだろうか。

おそらく理由は校内暴力

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https://www.facebook.com/official.highlow/photos/a.910066629046368/2379003715485978/?type=3&theater

学校内で,教師や他の児童・生徒に対し,個人または集団で,一方的に暴力をふるうこと。器物破壊などを伴う場合もある。中学校について見れば,1976年の発生校1388校がピークになっている。背景として,受験競争によるストレス,少子化・核家族化に伴う家庭内における人間関係の単一化,地域での遊びを通しての社会性の育成不足などが考えられる。温かな人間関係を回復すると同時に,暴力を許容しない学校の指導方針の確立が必要。
引用:https://kotobank.jp/dictionary/mypedia/292/


70年代は、校内暴力がメディアを賑わし、社会問題化した時代。1980年の金八先生でも校内暴力がテーマとなっている。このような経過の中で、屋上が、監視の眼の届かぬ不良たちの溜まり場として、あるいはいじめの現場として認知されるようになり、次第に立ち入り禁止の方向へと向かっていった。


【自殺】

以下のグラフを見て欲しい。1983年に16,876名に達する第二次自殺ブームと言われるピークがある。1973年第1次オイルショックをきっかけ田中内閣は倒れ、高度経済成長は終了し、10年を越える不景気が続く。第二次自殺ブームはこの景気低迷の後半期に発生している。

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それまでのオリンピック景気(1963-64)といざなぎ景気(1965- 70)を経て、1972年に東洋一のマンモス団地言われる高島平団地が完成する。当時珍しかったエレベーターがあり、最先端のライフスタイルの象徴の団地として注目された。しかし、完成と時を同じくして景気が低迷し始める。

完成した1972年に5件の飛び降り自殺があって以降、着実にその件数は増加し、特に1977年4月、父子3人が投身自殺を遂げたことをマスコミが取り上げたことで、1977-1980年の3年間で133名もの投身自殺者をだすこととなった。80年に金網フェンスを設置するが、やがて87年には屋上そのものの立ち入りを禁止した

これは屋上立ち入り禁止の流れは全国に普及していく契機となった事は疑うべくないだろう。


【管理者責任】

そしてもう一点、取り上げたい事柄がある。宮台真司(社会学者)さんがラジオで仰っていた事だそうだが、それは『隣人訴訟』。

宮台「やっぱり皆さん考えていただきたいのはね、僕は1980年がひとつ分水嶺だったと思うんですけど、その社会に、あるいは地域にスキマがあるっていうことをね、人が許さなくなっていくんですよ」
荒川「うん」
宮台「それを僕は、旧住民が新住民に、置き換わっていく中で生じた動きだと思っているわけ」
荒川「はい」
宮台「っていうのは、実際、79年なんだけど隣人訴訟っていうのが起こって、隣の人に子供を預けておいたら池にはまって死んだので、隣人を訴えたら、まあ世間中大沸騰した、どう沸騰したか?というと、『ふざけるな、何訴えてるんだ』って話だったんだけど、まっ、あっという間に、それを訴えるのが当たり前だって変わっちゃったんですよね」
荒川「ええ」
宮台「その流れの中で、実は、その土地を知らないでやってきた新参者であるところの新住民が力をますます持つことになると、それを背景に『店舗風俗を排除しろ』とかってなると新風営法に繋がっていくし、『暴力団事務所を排除しろ』ってことになると、これが暴力団新法、これは92年に施行されますが、繋がっていくわけですね」
荒川「うん」
宮台「あの~、理屈は分かるよ、でも、昔の旧住民は必ずしもそうは反応しなかった、自分たちの地域でそれぞれのモノがどういう風に機能してるのかってのが分かっていたので、杓子定規には考えなかったんですね、あるいは、もっと分かりやすい言い方をすると、ここでも以前言いましたね、用水路にはまって子供が死ぬ、僕が子供の頃よくあった、工事現場で穴掘ってて、穴が埋まって死ぬ、よくありました」
荒川「うん」
宮台「そのときにね、すぐ設置者責任問われましたか?そうじゃなかった、多くの場合『だから危ないって言ってただろ』っていう風に」
荒川「うんうん、そうだね」
宮台「子供達に言う、っていうメッセージがあった」
アイスバーンの道路なのにガードレールがない海外の例と比べながら、
宮台「つまり、ある時期から我々はね、管理者責任を問うことになった、そうしたら何がなくなったか?スキマなくなったんですよ」
荒川「うん」
宮台「ね、きっちり管理しろってことで、放課後の校庭開放なくなった、箱ブランコ撤去された、用水路は全部暗渠(あんきょ)になった」
引用:https://notei.hatenablog.com/entry/20121210/1355148717

この管理者責任を誠実に全うしようと努力した結果、ベンチ座る事しかできない公園、上る事ができない屋上が完成する。


【まとめ】

1980年前後にこれほどの社会的変化があったとは、正直驚く。

『そりゃあ屋上、上がれなくなるよね。。。』と納得してしまう。

ビルの屋上が室外機で溢れ、不良が屋上でたむろして、団地の屋上で自殺が多発し、お隣さんから責任問題で訴えられてしまう。そんな1980年。

明治以降、日本が近代化に邁進して来た結果、いつの間にか欧米から学んだ法治と日本の和の心のハイブリッドで息苦しい社会になってしまったようだ。

しかし40年経った今、期せずして強制的に新しい社会を作り直す契機がやって来た。過去をよく見て、未来に希望を描いて行きたい。

宿野部隆之

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