見出し画像

東京駅の二大改札口、八重洲はかつて丸の内にあった。

東京歴史ナビへようこそ。
本日も東京の街を、歴史と共に案内していきます。

今回の歴史ナビのテーマは「八重洲はかつて丸の内にあった」です。

八重洲という地名は東京駅八重洲口でおなじみ地域ですが、駅の出口にあるように、中央区八重洲という地域が存在しています。
東京駅の改札口を表現する際は東、西という方角ではなく、八重洲口、丸の内口と大まかに二つの出口に別れています。
今でこそ二分され、丸の内とは反対側に存在する八重洲ですが、そんな八重洲はかつて
丸の内に存在していました。

東京歴史ナビでは各地域にスポットを当てた歴史や、
その歴史的な視点でルート案内を行った内容をPodcastやYouTubeで配信しています。

noteではそれをテキスト化し、画像を含めて分かりやすく説明しています。

早速いきましょう。


―――
八重洲の由来はヤン・ヨーステン
―――

現在は中央区に存在する八重洲ですが、丸の内にあったころは麹町区という区域にありました。
八重洲という名前はオランダ人航海士のヤン・ヨーステンに由来します。
関ヶ原の戦いが行われた慶長5年、徳川家康が勝利する半年前、豊後国(ぶんごのくに)現在の大分県にオランダの商船、リーフデ号が漂着しました。
その船に乗っていたのがヤン・ヨーステンです。


ちなみに、リーフデとはオランダ語で愛を意味するそうでう。

このヤンヨーステン一行、ヨーロッパを出発したときは5隻の船と、100人以上の乗組員がいたそうですが航海中の悪天候などにより、次々に離れ離れになったり沈没したりしちゃったそうなんです。
結局、リーフデ号1隻、24人の乗組員でなんとか大分に漂着するんですけれども
漂着した当初、海賊と勘違いされ、罪人同様の扱いを受けていたそうです。
後々誤解が解けるのですが、ヨーロッパから荒波を渡り、仲間と別れ、沈没も乗り越え大航海してきて、なんとか生き残って漂着したというのに待ち受けるのが犯罪者扱いですから災難に恵まれた人生だなーなんて思いますよね。

そんなヤンヨーステンですが、江戸城に招かれ家康のもとで働くことになりました。
時には通訳として、時には世界情勢を語る専門家として、家康だけでなく、二代目将軍秀忠のもとでも江戸幕府の外交における重要な存在として活躍したそうです。
それほどの活躍をしたヤンヨーステンには日本名として「やようす」と言う名前がありました。

日本名で「やようす」とされるヤンヨーステンが与えられた屋敷が、現在の丸の内3丁目あたりにあったそうなんです。
丸の内3丁目というと帝国劇場とか、東京国際フォーラムがある一帯です。
そこの一部にヤンヨーステンの屋敷があったそうです。

(この写真で見えている建物沿い)


それを表すのが江戸時代の古地図にあって、そこには和田倉門から馬場先門にかけてのお堀沿いを「八代洲河岸」と書かれています。
日本名のやようすがそこに使われています。

その八代洲が訛って八重洲へと変わり、明治に入ると、八重洲町という名前として残っていきます。


―――
八重洲町のあった丸の内2丁目
―――


明治5年になると、麹町区八重洲町という町名が設定されます。
その場所が現在の丸の内2丁目です。
現在そこには重要文化財に指定されている明治生命館や赤煉瓦の際立つ三菱一号館美術館、

(右側 明治生命館、当時は低層のビルのみ)


(三菱一号館美術館)


江戸時代に大名小路と呼ばれた通りを挟んで三菱UFJ銀行本店ビルが建っています。

この地には、かつて八重洲町だった面影を残すものがあります。
同じく丸の内2丁目に立っている丸の内パークビルディングです。
丸の内パークビルディングには、この地にあった丸の内八重洲ビルディングの一部分が入口の外壁に使われています。

(丸の内八重洲ビルディング)

(左側が丸の内パークビルディングの玄関)

現在はビルが改修されましたが、丸の内に八重洲があった唯一の証拠です。
ちなみに、丸の内八重洲ビルディングは大人気ドラマ『HERO』の舞台となった東京地検城西支部のロケ地となった場所だそうです。


―――
八重洲橋と存在感を失う八重洲と言う名前
―――


外堀川には八重洲橋という橋が掛けられていました。
現在は片側4車線の道路となっている八重洲口目の前の外堀通りには外堀が存在し、八重洲町から、日本橋にかけて掛けられていました。
今の東京駅八重洲口中央交差点付近です。

(写真の場所辺りに橋が架かっていた)

東京駅の開業と共に外堀が埋められ橋も撤去されましたが、八重洲橋も八重洲町があったことを示す存在です。
またさらに、東京駅が開業することで八重洲町の大半が東京駅となります。

次第に存在感を失っていく八重洲ですが、
ついに、昭和四年の町名変更で八重洲町は丸の内と変わり、八重洲の名が消滅しました。

じゃあなぜ、現在も八重洲と言う名が存在するのか?
この話は中央区のテーマの時にお話したいと思います。

復活したのは八重洲という地名が消滅してから25年経った昭和29年です。
現在の場所に中央区八重洲として成立しました。


―――
まとめ
―――

八重洲はかつて丸の内にあったというテーマでお送りしてきた今回なんですけれども、

八重洲と言う名は、徳川家に仕えたオランダ人航海士のヤンヨーステンから来ていて、
そのヤンヨーステンの屋敷があった現在の丸の内のお堀付近が八代洲河岸といわれ、
八代洲と言う名前が訛って八重洲へ変わり八重洲町という町名が生まれた。

その八重洲町がかつて丸の内に存在していた。

というお話でした。

丸の内を通ることがあった際、東京駅八重洲口を利用した際、
このことを思い出すだけで少しだけタイムスリップしたような感覚になれるかと思います。


さて、
いかがでしたでしょうか。


東京歴史ナビでは、各地域にスポットを当てた歴史をお伝えしたり、
歴史的な視点でルート案内を行った内容を配信しています。

あなたの通勤や暇潰しのお供となれば幸いです。
ご視聴ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?