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昭和の歴史で見る東京駅丸の内口からの景色

こんにちは、東京歴史ナビへようこそ!
今回も、歴史とともに東京の街を案内していきます。

今回の歴史ナビのテーマは「昭和の歴史で見る東京駅丸の内口からの景色」です。

今回は丸の内駅舎前の広場に立っている人に直接的に視線を促しながらお伝えするガイド的な内容となっています。
東京駅丸の内駅舎前に立っているだけで、その周辺の歴史を知り、今の違った空間を感じられるかと思います。

それではいってみましょう。


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東京中央郵便局のあった場所
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まず、東京駅丸の内駅舎を背にして左へ視線を移して見てみてください。
そこに目を向けると時計の付いた白い低層ビルとその上に伸びる高層ビルの建物が見えると思います。
こちらは、低層階がキッテと呼ばれる商業施設で、上層階がJPタワーと呼ばれるオフィス施設です。
昭和時代、この地には東京中央郵便局がありました。

低層と高層タワー部分で分かれていますが、当時あったのが低層の建物です。
現在の建物は、再開発されたモノですが、昔の建物の保存部位を3割ほど残しつつ、
歴史的価値や景観の美しさを現代に継承し当時の面影を残した低層階と
オフィスである高層階で再開発されました。

キッテという施設名は郵便局であったことから
ハガキに切手を貼り、思いを届けるという意味でのキッテ。
来てと言う意味でのキッテ
が由来となっているそうです。

言ったところで特に面白い情報ではありませんが、
キッテのタワー部分であるオフィスにはマラソンでよく耳にするコニカミノルタの本社が入っています。

そしてなんとこの場所、大正時代には地下に駅舎と郵便局を結ぶトロッコが走っていたそうです。
現在は改装され、地下通路として利用されています。

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昭和初期で最大、東洋一だった丸ビル
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さて、キッテの場所から少し右へ視線を移してみましょう。
東京駅丸の内南口ロータリーの正面にこちらも低層と高層の分かれたビルが見えると思います。
こちらが丸の内ビルディング、通称丸ビルです。

丸ビルは昭和前期で最大のビルであり「東洋一のビル」と当時は言われていたそうです。
その当時の高さを表すのが今の低層部分です。
現在のような高層ビルになる前は、この低層部分の高さが最最上階でした。

低層階は様々なテナントが入る施設となっているのですが、
オフィスビルの低層階を開放し、ショッピングモールを展開するカタチは、この丸ビルが先駆け的な存在だったそうです。

ちなみに、今あるのは全面を改装した後2002年に完成した後の新しい丸ビルです。


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名前のややこしい新、丸の内ビルディング
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さて、丸ビルから真ん中の通りを一本挟んで右側を見てみましょう、
東京駅丸の内北口ロータリーの正面、こちらも低層と高層が分かれています。
こちらが新丸の内ビルディング、通称新丸ビルです。
新丸ビルも丸ビル同様に低層階にはテナントが入り、高層階がオフィスになっています。

昭和初期、この地には東京館と言う名のビルを建てるために建設が始まるのですが、日中戦争の影響で中止されます。
戦時中は、防水用貯水池として存在し、ビル群の真ん中にポツンと大きな池が存在していました。

戦後、建設が再開され完成します。
その頃には丸ビル、新丸ビルのあるこの地を中心に戦後復興へと駆け抜けていきました。

やや似た名前の丸ビルと新丸ビルですが、もう一度確認しておきましょう、東京駅を背にして左側が丸ビル、右側が新丸ビルです。
ちなみに、どちらも建て替えを行っているため
新しい丸ビルと新しい新丸ビルとなります。

正式名称で行くと丸の内ビルディングは新しい丸の内ビルディング、新丸の内ビルディングは新しい新丸の内ビルディングです。

そうなんです、このふたつ、丸とか、新とか、新しいとか色々行ったり来たりしてややこしいんです。
では次行きましょう。


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国鉄本社のあった場所
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さて、新丸ビルから右手前に目線をずらしてください。
ちょうど駅正面の右手、キッテの正反対の位置にあるビルが
「日本生命丸の内ビル」です。
この地はビルが4つほどならび、そのビル群や複合された商業施設を含めて「丸の内オアゾ」と呼ばれています。

誰もが聞いたことある日本生命、略してニッセイの東京本部がこちらに入っています。
1997年頃までは、JR東日本本社やJTBの本社がこの地に置かれJRの前身、国鉄の本社はこの地にありました。
この日本生命丸の内ビルも、低層部分と高層部分が直結しながらも低層部分は違う見た目で存在しています。

さて、ここでお気づきの方、もしかしたら既に気付きの方もいらっしゃると思いますが、
この一帯、低層と高層で分かれたビルの作りをしています。
特に低層に関しては全て同じ高さです。
これには歴史的な要素がありました。


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丸の内スカイライン
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日本経済の中心として、この丸の内は急速に発展していくのですが、
その代表が、「東洋一のビル」とも言われた建て替えられる前の丸の内ビルでした。
丸の内は昭和8年に美しい景観を維持する制度である美観地区に指定されるのですが、その制度の中に当時の丸の内ビルと同じの、高さ百尺、数字にすると31mの制限が設けられました。

その高さで統一し、並べられたこの一直線のラインは「丸の内スカイライン」呼ばれ、賞賛されたと言われています。
その当時の高さを残しているのが、現在の各ビルの低層階で、丸の内周辺にはその高さ百尺のビルがまだ残されているところもあります。

現在も丸の内スカイラインは存在していて、皇居の緑を中心としてエリアによっては100m150m200mと制限がかけられています。


そのような、昭和の景色が現代と調和しながら残る丸の内の街ですが、
お伝えしてきたやや似た名前の丸ビルと新丸ビル、どちらもデベロッパー、設計ともに三菱関連企業である三菱地所、三菱地所設計となっています。
JPタワーもそうです。
これがまた三菱財閥という丸の内払い下げという歴史に繋がっていくのですが、それはまた江戸、明治の歴史で見る回でお送りしたいと思います。

もしくは三菱の払い下げをテーマにした回でお送りします。


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まとめ
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ということで「昭和の歴史で見る東京駅丸の内口からの景色」というテーマでお送りしてきました。

丸の内は日本の最先端とも言える高層ビルの並ぶオフィス街となっていますが、
丸の内周辺に建つビルに共通しているのは、昭和の面影を今も残しているというところです。
低層の部分は、昭和期にあった丸の内スカイラインの高さが今も残されたもので、丸の内で空を見上げると、なんとなく感じとることができます。
丸の内を歩く際は、昭和を面影を感じながら歩いてみるのも良いのではないでしょうか。

さて、
いかがでしたでしょうか。


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ご視聴ありがとうございました。

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