作品と作者の分別 


ピエール瀧や槇原敬之が薬物で捕まった頃くらいから考え始めた。

作品に罪はあるのか。

だが未だにこれを咀嚼しきれていないというか、考えれば考えるほど深みにはまっていっているような気がしている。

そもそも薬物を使用することが罪なのかという観点もあるし。個人的には、薬物の使用で人に迷惑をかけていなければそんなに悪いことではないと思う。もちろん社会としては禁止した方が良いと思うけど。

大麻も合法化の流れがあるが、私は反対だ。ミニマリストだから。
別に家ん中いっぱいものあるけどね。単純にシンプルなものが大好物だからシンプルな日本が好きなだけのこと。

タトゥーも同じ理由で掘らない。そもそも痛いのが嫌だからやらないというのもあるが、それだと「痛くなかったらやるの?」と言われたとき詰んでしまう。
だからそうではなく、ミニマリストだからやらないと言いたい。
根本的には美学の問題。



キマッてるときに作った楽曲

「作品に罪はあるのか」という文言をたまに目にするが、そもそも罪のある作品ってなに?
あと仮に罪のある作品があったとしてそれが何なんだと。
美しければ良いんじゃないのか、芸術って。ていうか別に良い悪いもないのか。

でも芸術作品には人を魅了してなんぼ、それこそがマンボウという思想が自分の心の片隅に存在しているのも感じる。

色んなアーティストのインタビューなんかを見てみると、「何のためにつくっていますか?」という質問がある。
これの答えがあたりまえだけどみんな結構違う。

辛い人の心の支えになりたいとか、勇気づけたい、かっこいい音を出したい、メイクマネーしたい、他の仕事が全くできないから、とか。

でも根本の部分って「音楽がおもしろいから」ではないかと思う。おもしろいと思って作ったり聴いたりしている。

誰かの好きな作品を否定する

自分の好きなものを悪く言われて気分が悪くなったという経験は誰しもあるだろう。なんで気分悪くなるんだろうね。

ポジティブなコメントは言ったり書いたりしてよいけど、ネガティブなことは発信するなという思想がある。かなり多くの人が支持している気がする。
私も無意識にこの考えをもっていたのだが、何年か前からこれを疑い始めた。
確かに、「お前がよく聞いてる○○ってバンドめちゃくちゃダサいな」などということを日常的に口にしていれば、友達は減るだろう。わざわざ言わなくていい、と言われるだろう。

でも、論理的に考えれば他者にどうこう言われようと何の影響もないはずである。自分がそのバンドを好きなこと自体は誰にも妨害できないのだから。
あなたはダサいと思ってるのね、私は好き。で終わり。

しかしこれは”論理的に考えれば”の話だ。

ラニーノーズのファン

少し前、ラニーノーズという芸人のファンが書いたnoteが話題になっていた。
その方が書いた記事を一通り読んで気づいたのが、「誰かの否定を否定する人」の存在である。

noteを書いた彼は、前提として推しのラニーノーズが好きなのだが、ライブのネタが面白くなかったりYouTubeの活動に誠意が感じられないとも感じており、そのことをSNSなどに書き込んでいた。
すると周りから「そういうクレームは気分悪いから書くな(要約)」などというリアクションがあったそうだ。
これはまさに、好きなものを否定されることが嫌だという感情を持った人間のリアクションであるだろう。そして、ネガティブなことは思っても口に出すなと言ってその人の書き込みを否定する。この人は誰かの否定を否定していることになる。

論理的に考えれば何かを否定するのは自由なはずだが、自分の好きなものが否定されたときにそれに反論したくなる気持ちはとても人間味のあることであり、自然なことなのかもしれない。

結局、ファンの彼はセクハラ・ストーカーにあたる書き込みをしたことが原因となりラニーノーズの二人にブロックされたり吉本から出禁リーチをかけられることになった。
整理したいのは、彼が犯したミスはこのセクハラまがいの言動の部分のみであり、ラニーノーズが面白くないと書きこんだりするのは許容されるべき、というか実際のところ許容はされていたとみることもできるか。

とにかく、何かが嫌いという負の意見をもっと言いやすい社会でも良いのではないかと思った。
批判的なツイートを見かけた途端、パブロフイッヌの如くそいつを叩くのは良くない、いや、別にそれすらも良いよ。

彼のnoteを一通り読んでみると、ラニーノーズへの意見の間に譲歩文みたいなのがたまに挿入されていることが分かる。「わざわざこんなことを言ったら嫌われるのはあたりまえだと思う」とか「社会の仕組み上、悪いのは自分だと認めるしかない」というニュアンスのものだ。

彼のnoteや呟きを読んだ人たちの感想として、「この人は視野が狭い」とか「自分の理想像を他人に押し付けている」みたいなものも散見されたのだが、それは少し的外れではないかと思う。

私が読んだ印象では、そのような自分を冷静に客観視していて、そのうえで行動していると感じた。とても論理的で、社会を俯瞰している雰囲気が漂っている。そもそも、ラニーノーズのライブに対する観察とか洞察、お客さんの描写とかが鋭いと思った。
文章を読む限りでは少なくとも視野が狭いとは感じなかったし、むしろ人の心を読み取る力に長けているくらいだと思った。

彼が出禁リーチをかけられる原因となった失言に関しても、正直似たようなものはネット上に溢れていると思う。記事には具体的にどんなことを書いたかまでは載っていない。おそらくかなり過激なことを書いたのではないかと勝手ながら推測する。俗にいう”ライン越え”だろう。

どこがラインなのか見極めるのは昨今無理ゲーになりつつある。だからほとんどの国民は当たり障りのない投稿しかしていないのだ。

なんというか、彼の文章には「間違っている意見」がなかった。現代社会をただ単に反転して映した鏡のような印象である。

『私の間違いはなんだったのか?』という記事もあるが、その「間違い」という単語の意味するものは、多数派にとって居心地の悪い行為のことを指しているのではないか。

結論が、良かったところは口に出してOKで悪かったところは言わなくて良し、で良かったのだろうか。

「お笑い」における作品と作者

作品と作者の分別というテーマから大きく話が逸れてしまった。
でも、ラニーノーズのファンの話にも関連するところがある。彼の書いたお笑いライブの感想を読んで思ったのが、めっちゃ批評家だということだ。
コントや漫才を完全に作品として観ている。良い意味でも悪い意味でもモノとして観ている。
この純度が高いから批判的なことも一定量書けたんだろうと思う。
ある程度お笑いを見ている人であればそのような思考になるのはあたりまえなのかもしれないが、ここまで作品と作者をキチっと分けて捉えられる人も少ないのではないだろうか。

まぁだれか言ってたけど、彼は作者のお笑いのセンスが好みで推し始めたというわけではないから話がややこしくなってるというのはあるすよね、確かに。

それに、作者自体が作品であるというまぁ特殊と言えば特殊な職業というか商売というのもあった。○○が言うから面白い、というのが普通にあるからね。

否定・批判が社会に贈るプレゼント

否定や批判などの意見は、私たちに新しい視点を提供してくれる。
騙される人が少なくなるだろう。

「日本でしか暮らしたことがないが、日本が好き」というのと「いろいろな国で暮らした結果、日本が好き」というのは結論としては同じかもしれないが内容量が全然違う。

周辺を知らないのに好き、というのは非常に脆い。

海外に住めば、自ずと日本という国の嫌な部分も見えてくると思うが、そのうえで好きになることで好感度に厚みが出る。

「ここがすごいよ日本人!」みたいなテレビ番組だけ見ていても何もおもしろくない。







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