10.手を繋いでよ
おしゃれでカッコ良くて超自慢の彼氏のナオユキが最近全然つれない。あたしのことを触りもしないしあまつさえ半径5m以内には近づいてこない。あたしがちょっとでも近づこうとすれば、ナオユキは顔をしかめ、両手を前に突き出し「タンマ」と言う。「タンマってなによ」と、さすがにあたしも怒りながら抗議したわ。そしたらナオユキはここぞとばかりに「英語のtimeが変化してタンマになった説もあるし、フランス語の無駄な時間という意味のtemp mortからきたとする説などもある。個人的には器械体操で選手が手にはたいて使う、滑り止めの炭酸マグネシウムを略してタンマっていう説が一番グッときたかな。君の好きなキムタクの『ちょ、待てよ』を代わりに使えないこともないが、あまりエスプリではないからね……聡明な君にはもうわかるね?」とまくしたてた。あたしバカだからそのときは、「(キムタク??)へーすごーい、ナオユキってカッコ良いだけじゃなくて長舌で知的!」って感心しちゃうんだけど、それで抱きつこうと駆け寄ればナオユキは全速力で逃げていくの。そんで、5m先で猫みたいに振り返ってあたしのことじっと見つめてる。ねえ、どうしちゃったの? あたし悲しくなっちゃってその場で泣き崩れたんだけど、OLさんに大丈夫?って肩を叩かれてやっと、ナオユキがもうどこにもいないことに気づいたの。
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以前はこんなんじゃなかった。少なくても1週間までは普通のカップルで、むしろ超イチャイチャラブコメ系だったのに。あたし、ナオユキになにかしたのかな。携帯がガラケーでダサいから?
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テレビもラジオもPCもない質素な一人暮らしの部屋も、彼がいればワンダーランドだった。でもそれも過去。今では家の中でもきっちり5mの距離がある。なんか最近、5mを測る紐みたいなのを持ち歩いているし、別れたいのかと聞くとそうでもないらしい。なんなのこのおひとり虚無! 眠れない夜が続いて、おかげで明け方完全に爆睡。授業にも遅刻するようになって、もう何もかもうまくいかないって泣いて過ごす日々が続いたの。
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ナオユキがあたしと文字通り距離を取ってる?と感じてからさらに1週間。あたし気づいちゃったんだけど、街からカップルが消えたかもしんない。最初は大学の有名おしゃれカップルが食堂の長テーブルに離れて座ってごはん食べているのを見かけて、別れたのかーとか思ってたんだけど、ご町内に出ても手をつなぐカップルがいないんだよね。待って。日本、おかしくない?
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急に怖くなってとりあえず誰かに会いたいと思って走り出した。というか誰かってナオユキしかいない! 一目散に足は大学裏にある学生マンションに向かい、ナオユキの部屋へとカチ込んだの。ソファで雑誌を読んでいたナオユキは絶対に一瞬嬉しそうに笑みを浮かべたのに、何でもない風を装って雑誌に視線を戻して「絶対に5mは近づかないでくれよ〜」と面倒そうに言う。だからあたしは「うるせえ!!!」って怒鳴って、背中を向けたバカ野郎の頸部に遠慮なく右ストレートをぶち込んだ。宙を舞ったPOPEYEが床に落ちる前に、襟元を掴んで引き寄せる。
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「ふざけんなよ、何なのよこの距離感!?」
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ナオユキは心底がっかりしたと言わんばかりにあたしを見上げた。そして大げさにため息を吐いて「……悶(もん)だよ、悶。今のトレンドだろ? POPEYEにも書いてるし」と言った。何を言ってるのか本当にわからない。そういえば、と床に目をやると、ナオユキが数分前まで手に持っていたPOPEYEが落ちていたから、あたしは這いつくばるようにして雑誌を手に取り開いた。「有名メンタリストが提唱してンの知らないの?」雑誌には開きグセがついていて、すぐにその特集が目に飛び込む。「悶デトックスをしてないインフルエンサーはいないんじゃない。君は本当に世間に疎いね?」
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“悶”でデトックスせよ!
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やり方は1か月間、恋人と最低5mの距離を取ることだけ。
欲望を断つことで絶食と同じデトックス効果を発揮!!
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さらに、悶ボルテージが上がった彼女も
キミにゾッコン間違いなしだ!
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POPEYEを床に投げ捨てて立ち上がり、玄関に向かう。「最低……」言葉は自然とこぼれてた。寝不足で目眩もしていて最悪でもある。「でも、みんなやってるし……」と後ろからボソボソと声がした。この人のこと賢いと思っていたのは何だったんだろう。さっきまで高圧的だったのに、なんでこんなに弱気になってるんだろう。なんであたしはそんなのに振り回されなきゃならんかったんだ。最後にもう一度罵ってやるぞ!と振り返ると、すがるような表情のナオユキと目が合った。
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「……ねえそれが、あなたのエスプリだったの?」
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玄関を開けて廊下に出た。アパートの前の道を見下ろすと、きちんと手をつないで歩く素朴なカップルがいたからホッとした。後ろ手でドアを閉める。ドアがガチリと戻ったと同時に、サチモスの「STAY TUNE」の音が途切れた。
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