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「短編コント」  愚風さん (侏儒ものがたり)

1.

 あの龍と虎の問答以来、茶川ちゃがわには茶川龍ノ助と名付けられ、菊珍には菊珍トラエモンというあだ名がついてしまった
ぼく、トラエモンと菊珍は大はしゃぎしたものの、茶川は何か浮かない顔だった

 ふだんから笑顔を見せて接する男ではなかったけれど、つい数日前からそんな様子だった
文学院の同僚も茶川のふだんの態度を見ていたので、いつものモノゴトをまじめに取って、また考えこんでいるなとさっしていた


 じつは愚風ぐふう和尚が、1週間の予定でわが文学院に滞在することになったときのことだった
愚風和尚はわれわれ文学好きの者にとっては、師匠とも呼べる存在
われわれ若い者のあこがれだった潤太郎禅僧の、若い女の肌にみやびに彩る刺青を描いた「耽美たんび」は大いに絶賛されたものだった
その潤太郎先輩が愚風和尚によって推薦され、デビューのきっかけになったことばかりでなく、和尚の文才は全国の文学好きな禅僧にも知れ渡っていた

 好機一遇のチャンス、茶川は会ってじぶんの作品を見てもらったのだ

 ところが、だった
ありがたく見てもらったものの、ワハハハ、ワハハハと笑って、愚風和尚は立ち去って行った


 いっけん愚風和尚は奇矯な態度が大いにあって、反骨的で、女の裸を見るのが好きで追い回したり、破戒僧みたいな面もあった
だからそのイッカンかな

 でもそれは外面的なもので、愚風と名のっていても、文章を見ればまれに見る文才で師の夏目和尚を勝るものがあった
けっして人の作品を見て、あなどるような和尚ではないことは日ごろから愚風和尚の文章を見て感じている
そのことが茶川を悩ましていたのだった


2.

 その作品は、長崎禅寺のゼンチ内供ないぐの大きな福耳を扱った『耳』で、夏目和尚から絶賛されたものだから、大いに自信があった
たしかに滑稽な面を扱っていたものでも、そんなに笑われるような文章ではなかった、それなのに大きな笑い声で去って行った

 茶川はボンヤリした不安で眠られず、朝を迎えることがあった
いったいどこがいけないんだろう、作品の内容、それとも文才のなさかな
若くして才能を認められたぶんだけ、なおさら不安が増すのだった


 そして愚風和尚が、禅寺を立ちさる日が来た
思いきって、茶川は和尚にたずねたのだった

 どうして私の文章を読んで、お笑いになったのですか
すると和尚は、こういい放った

「あなたは道化のお笑い芸人がお好きですか」


( 好きも何もそんなモン、見るには見るけど、何も思わない。じっさいむかしは漫才落語はおもしろくて見ていたけど、最近はテレビをナガラして見るのできちんと観賞されないのか、芸人なのに芸をせず、タレント化してしまってる。
 楽にお笑い番組で司会して若いひな壇芸人をいじったり、お母さん相手のニュース情報番組ではプロデューサーの顔をうかがいながら、口さきがうまいことを利用して、台本を笑顔で読んでいる。

 でもスキャンダルが起きたら、芸のこやしになるなんて遠い昔の話で、控えている芸人がいっぱいいて代打要員に困らない、つくづく好きな芸をみがいて来なかったことを悔やむだけの始末。
 でもヤクザみたいに、戦闘服からスーツに着替えして、社会に名が知られ、お金が入ってきただけよかったかもね。
 喜んでいるのは芸人のご両親だけで、世間的に立派になって、の大笑い。

 特に嫌いなのがニュース番組のキャスターとコメンテイターをやっている芸人で、番組の始めに笑いを取って、私はお笑い芸人ですからねと前ふりをして逃げを作り、まじめにコメントする。
 専門家でもないのにえらそうにもの言い、非難されたら芸人をバカにするんですかといい、キナ臭くなったらタダのお笑い芸人ですからと逃げていくのだった。

 ただ怖いものはといえば、政治家でもなく、国民でもなく、目の前の権力者であるプロデューサーの気を損ねないように心がけて、芸能生活を生きていくことだった。
 たとえ気のいたことをいっても専門知識のない、ただ空気をよむだけで、演芸落ちしてテレビ局に頼っていくしかない、単なる御用芸人にすぎなかった。元はといえば、伝統のお家芸である太鼓もちともいえた。

 そういうことだから、むかしはともかく今の芸人には話芸を期待していなかった。)



「最近はあまり見ません、むかし、やすしきよしの漫才はおもしろかったですね、ビデオで初代林家三平のお笑い落語をよく見ます」

「ねっそうだろう、お笑い芸人はひとから笑われて喜ぶのに、キミはひとから笑われないように一生懸命だ、だから道化にも劣るというんだよ」

 なーんだ、だからワハハハと笑われたんだ
ということでなく、じっさいそうかもしれないとふり返って見て思いあたることがあった


 私はいままでは、まじめにシェイクスピアやさまざまな古典文学を学んで、作品に取り入れてきた
考えてみれば、シェイクスピアの劇場に来るのはインテリばかりなく、むしろ芸能好きなオジちゃんオバちゃん、そして女性や子ども
だからみんなを飽きさせないように、エッチな表現も少しいれてみたり

 他の娯楽作品も時代が過ぎて読み返してみれば、古いぶん、わからない語彙のあるぶんだけ、りっぱに見えることもある
あまり物事をまじめにとらえるはおかしな話で、意外に世の中は単純にできているかもしれない

 ダンナさんより、長生きしている奥様たちのほがらかさを見ても、世界は人が望むようにあり、人が見えているように見えてくるのだった



にんまり































































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