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「短編 春のソナタ」 古今東光 泥の中で



 一輪いちりんのれんげ草


 いつの時代も人はステイタスを作って、他の人と差をつけたがるものです

 貴族とバトンタッチした江戸時代の幕末でも武士の地位は大したもので、
多額の寄付をして武士の称号をもらった商人が大喜びした話があるし、
百姓生まれの近藤勇が武士に憧れたのもわかるような気がする


 “ そして今度は武士に変わったモノが出てきた
学問ができても身分が低く不遇だった父親を見て、福沢諭吉は封建制度は父のかたきでござると言って、学問のススメを明治以降進めていった

 でも湧きいでた泉も溜まれば腐るように、いつしか学問にいたる学校の道は単なる立身出世の道となってしまった
身分制度を脱却して、未知の学問芸術を開拓して、学校制度を盛り上げていったものの、いつしか外見のステイタスは上がるのに中味は枯渇していた
いつもの王朝、幕府に見られる形のワンパターン
政治や学問、文学も例外ではなかった

 あたかも中国の歴史のように、戦い終って出世する科挙がハバをきかして、試験問題である儒学が学問内容よりも、パズル・クイズを解くようになり
王朝の中で出世できても、足かせになって、清末期の康有為みたいに西太后や体制矛盾の中で、大胆な改革ができなかった
出世の科挙から自由だった、作家の魯迅や毛沢東みたいな発想ができなかった

 満月のときはすでに陰りがあり
満杯の中にもう水はそそげなくて
満たされない心は、逆に満たそうという気持ちが溢れでて
コンプレックスや挫折のマイナスイオンをいっぱい浴びて、人は成長していくのだった

偉人才人はそれを濾過して大きくなった

 学歴制度は父のかたきでござる、という新しい才能ある人も出現して
新しい自由なクリエイティブの発想は、前代の否定から始まるというのは当たっていた
内容と同じく、生き方も問われた
無難な生き方は、内容も同じく無難なモノになっているというのはボクの偏見かな ”


 文学の前ではすべての人は自由で平等である
万葉集のときから、学校でそう教わったはずだった

 ここに文学好きな古今東光ここんとうこうという男がいた
ケンカっぽく、
女好きがもとで高校を追いだされて以来、
学校に行ったことがなくすべて独学でやったそうだ

 ジャン•ジュネにも似てといったら、古今サンは怒るだろうか
聖ジュネと呼ばれた、
フランスの作家ジャン・ジュネは小さい頃から、家庭の環境で少年院を繰り返し、社会の底辺で暮らし学校に行けなかった

 女関係や男関係、犯罪関係の中で血と汗とスペルマの汚辱にまみれていたジュネはどこで言葉を覚えたのか、多くの作家が学校の柵の中で学んだものを刑務所の中で孤独に学んで、カレの驚くべく文学の世界観を構築したのだった


 そんな古今サンは勉強熱心だった
文学好きで偶然知りあった学生の端々ばたばた康成たちの雑誌「新思潮」に参加し、
若い頃モグリで大学の講義を聞いたりしていた

「大学の講義ってあんなものか、大したことねえな」と吹聴していた

 そんな古今サンをなぜか端々康成は気にいっていた

 あるとき文芸シリーズを文学春秋で刊行することになった
当然、古今サンも執筆のメンバー
文学春秋の社長菊池何某なにがしはどうも気に食わなかった
古今サンも一緒に参画して会社をつくったものの、どうかなと思われたらしい

 だから執筆メンバーが集まったところで菊池社長はいった

「いまテーブルについているメンバーの中に文学士でないものがいる、はたしてこれでいいだろうか、しかも素行が悪く高校も追い出されたらしい」

 でも、いわれた古今サンは澄ましたもの、悠然としていったのダッタ

「泥の中のれんげ草」

 これを聞いた端々康成はますます気にいって、生涯のいい友人になったという





















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