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「短編」 設定が、人をそうさせている


*「見て」聞くがごとく、「聞いて」見るがごとし
絵画を見て音楽が流れて、音楽を聴いているのに絵画が浮かんでくる


 見ざる聞かざる言わざるとは、どんな言いまわしか
ひとつかけても芸術の妙意を感じることはない、はたしてどうしたもんだろう、文芸評論家の古葉野次こばやじ秀雄は思いあぐねていた

うん、なかなかうまい、このコーヒー
インスタントだからどうかな、と躊躇したけど、まあまあ、ドリップ式のこのインスタント

大学の頃、一時的にサイフォン式に凝ったけど、面倒くさいなってドリップ式に変えたのに、気づいたら、自分で作って家で飲むときはインスタントで間に合わせていた、もちろん家の者に作ってもらうときは正式にちゃんとやってもらう

それにしても手軽なドリップ式のインスタント、粉にお湯入れて飲むより、いくぶんましだな

えっと、
さっき何を考えていたんだっけ
最近どうも物忘れが多くなっていかん、立ちあがってみたら、あれ何をするんだっけなんて

そうそう五感の話ね

文学ばかりでなく美術や音楽にも関心が引かれ、つい最近も美術雑誌に画家の評論を始めたばっかりだった、それゆえ読者にどのようにしたら、絵画の良さや意義を伝えることができ、また自分の解釈がどんなふうに伝わるのか疑問だった

興味ある大人にはそれなりに、思春期の子供にはなんとなく伝わっても、古葉野次みたいに五体満足で病気なく健康な人は問題なくても、目、みみ、口が不自由な人はどんなものだろう、どうやって芸術を感じるとれるのか

古葉野次には、ひとイチバイ芸術の良さを伝えたい、感じさせてやりたい気持ちがあった
目が見えなくても絵画を見て、耳が聞こえなくても音楽を聴いて、口がうまく話せない人にも本を読んでいるような気にさせ、喜びを与えたかった

たとえば歌手で成功しなくても俳優で活躍して花開いたり、その逆もあり、また美術や音楽で才能を活かせなかった詩人が、詩を書くときに皮肉にも最大限に引き出せてくれる要素になっていたことを考えるにつけ、何かある、あるんだけど、もうひと確かなつヒントになるものが欲しかった



 そんな思いがつのい、
迷ったときの西田鬼太郎師匠、教えを受けにはるばる京都にまいりました

久しぶりに来た京都は、やはり東京より季節によってさまざまに自然風物のどかで、色どりも艶やかだった
数年ぶりに会う鬼太郎さんは、病気もなく健康にしているだろうか
やっぱり深い思索をめぐらすには都会の喧騒がなく、ゆっくり時が動いているところで、静かに身をゆだねることが大事だな、と古葉野次はあらためて確認した

家に到着して、家政婦さんらしい人から部屋に通され、しばらくすると鬼太郎さんがひょっこり顔を出して声をかけてくれた

古葉野次はソファから立ちあがって、お久しぶりですとあいさつをした
それからしばらく立ちあがったまま、窓辺に
誘われて、外の景色を見ながら雑談をして、今回の訪問の目的である質問を何気なく投げかけてみた

すると鬼太郎さん、ほほう、そうですかと言いながら、そばにあった杖を古葉野次の足のほうに、そおっと置いた
古葉野次はサッと軽快によけ、後ろに下がって杖を受けとった

「ほう、まだ若いから元気だな、ちゃんと目が見えているな」

それからまた鬼太郎さん、
「悪かった、もうちょっと、こちらに来てごらんなさい」

わかりました、と一歩前に出た
「ふーん、よく耳は聞こえるみたいだな」

そして最後に
「どうだいわかったかい」
「何がですか」

「ほら、ちゃんと口が言えるじゃないか」

それから、鬼太郎さん、笑みを浮かべて

「ねえわかっただろう、見えているし、聞こえてもいるし、はっきり口から声が出ているじゃないか、伝えられないことはないよ」
「ははは、そうですね、先生わかりました、ありがとうございます」



 レーニン、最後の闘い
官僚制

 ケンカ相手の資本主義者たちが言うように、かれは単なるロベスピエールやナポレオンと同じ類いのレベルだったのだろうか、はたして好き嫌いに関係なく、客観的にみて偉大なマホメットに遠く及ばない存在だったのだろうか。

国が大きくなることにこしたことはないけど、国内の安定がより大事。
偉人もいいけど独裁者が出やすい個人重視よりも、凡庸であっても執務能力があり、いつでも優秀な公務員を入れ替えできる官僚体制を築くことが不可欠だった、かれにとって性急な課題だった。

「英雄」は国家が出来あがったら、消え去るのみ。

会社創業者みたいに後継者に譲り、見守ってアドバイスして育てるべきで、いつまでも権力者にしがみついてもろくなことはない。
あとは能力ある政治家と優秀な官僚にまかせるのが世の習い、中国王朝の歴史の繰り返しはそう感じさせてくれた。

レーニンはその前に銃弾で倒れ、
道半ばで、そのすぐ後にスターリンがあらわれ、一番恐れていたものになった。

1  
 設定が、人をそうさせる

 とはいっても日本では、軍拡がままならないので、アメリカに骨抜きにされている文人上がりの政治家と、ペーパーテストで成りあがった官僚、そして唯一頼みになるのが経済人だった。
でも商売上手で繁栄すればすぐに、横ヤリするアメリカの外圧がやってくるのです。

いくら嫌いでも、屈辱的でも、
商売相手の中国と用心棒のアメリカがいなければ、日本国は生きていけません。

同じように
同じ中国とアメリカも、「国内向け」に政治家どうしは非難しあっていても、お互い交易しなければ生活が成り立たないのは了解していた。


そんな感じで思い起こせば
100年以上も前、ケンカ上手のドイツ帝国のビスマルクは政治上は戦っていても、相手諸国と個別的に商業貿易を結んでいた、敵国だからといって政治同様に生活の基盤である経済も断絶して、孤立するようなお坊っちゃまではなかった。
大学の学生時代から決闘やケンカに明けくれ、生傷が絶えなかったビスマルクは、国際感覚も対人関係も柔でなく、鉄血宰相といわれていたように、肌で感じとっていた政治的「直観」もあわせ持っていた。

また
中国三国時代の曹操は若い頃から、ならず者や不良たちの中にあって人の機微を知り、頼られる器量と、学者気質の頭脳は、乱世のなかで奸雄といわれても、最下層から上層部まで国民から信頼され束ねる政治家には必要なものだった。

坂本龍馬と勝海舟を生まれながら合わせ持っていた大杉栄は、僕は刑務所で出来あがった人間だと自称するように、若い20代のほとんどを刑務所で過ごして地獄から這いあがってきたかのような、かれの批評眼のまなざしはいまでも生きている。
一回、刑務所(あるいは別荘)に入るたびに1ヶ国語マスターすることをこころざしたばかりでなく、初めてファーブル昆虫記を見つけ、そんなものよりと仲間の同志から言われながらも翻訳したり、戦前の過酷な情況にあって軍部や共産主義から最も敵対され身の危険を感じて、共産主義者だった作家の中野重治から、あの人は天才だからね、と皮肉を言われたりしていても、じっさいは文学センスを持った学者気質の人でもあった。
かれのように公敵ナンバーワンと呼ばれながらも人を引きつける器量は、英雄肌と文学センスの学者気質を持っていたビスマルクや曹操と同じように、なぜか悪役になっているのは不思議だし、「設定」がそうさせている。




2

 身体も頭脳も、逆境や負荷ふか(マイナスイオン)を与えられ享受して鍛えられるのは人間ばかりでなく、野生の動物もそうであり、創造する芸術家もそうであることを教えてもらうばかりだ。

逆境のなかで這いあがった人を紹介すると、必ずその人は例外といって、誰でもそんなことは当てはまらないという。
普通の人はまだしも、といってはなんだけど、芸能とかスポーツの世界はそんな甘くないと分かっていても、一部でも活躍している人がいれば、その道をめざすのが「人の気持ち」です。
遅い早いの時期の差があっても、やがて人生の定年期が訪れてくれば満足と後悔の度合いがおのずとわかってきます。


最後に笑う者が最も笑う、とはお馴染みのニーチェの言葉。


チビだった、
かんしゃく持ちで髪の毛がモジャモジャで、女性にモテなさそうで、おまけに音楽家なのに耳は聞こえなくなったベートーヴェン、最悪だった。
でも雨漏りする家で、そこはかとなく作曲していました。

いっぽうで
カッコいい日本のミュージシャン、曲が売れ、女子供からきゃあきゃあいわれモテて、印税はがっぽり入って、毎晩豪華に飲み歩き騒いで、曲づくりのために、100億円あっても足りなかったのは、豪華マンションで音楽機材を買いそろえたからではなかった。
枯渇するのはお金だけではない。

むかし巨人の四番打者が
バントで塁に出たら、観客から批判ゴウゴウだった、そんな打席を見るためにお金を払っているわけじゃない、野球を見に来ているんだ、勝つだけのプレイを見に来ているわけじゃない。
バントやゴロですばやく塁に出ても、喜ばれるイチローの妙技とは別の意味で違うらしい。

大相撲でも、平幕力士が飛んだり跳ねたりハタいたり、取り組みをしているのは見ていて楽しく、観客も沸きます。
でもさっきのプロ野球と同じく、横綱がハタいたり横に飛んで勝っても喜ばれない、親方がマユをひそめるのはたぶん横綱に相撲道を取ってもらいたいためらしい。
横綱相撲の模範となった双葉山のどうどうと受けて立つ取り口は、引退してしてわかった、平衡感覚がまったく効かない片目からくる、至難の産物だった。

そんなこと言っても
楽してカッコよくスター街道を走り、成功した幸福な人生を歩みたいのは万人の素直な気持ちに変わりなく、
でもやっぱりダラダラしてグウタラするのも皮肉的には受けるかもしれないけど、多少身体に負荷を入れて、いじめ鍛えなければ健康的にもどうかな。
そして頭脳の方もフィジカルしてみよう。

同じように言葉を持ち表現しても、あい対立しているかのような文学と政治社会。コンプレックスや負荷を感じたり、疎外感や孤立を通してしか、初めて生まれ持った資質や、共にある存在を感じとれないのだろうか。


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