強いものにまかれ
そんなこと、許されるんですか。
そんなもん、放っとけ、と昔の大相撲で土俵の鬼といわれた初代若乃花は、日本人の忘れっぽさを見越して、親方時代、相撲協会の不祥事スキャンダルを切り抜けた。いちばんの有効策のようだった。
でも一度食らいついたエサは二度と離さないテレビ各局、分別くさいレポートで国民大衆の無責任な興味本位をあおった。
そんな芸能や政治家スキャンダルがテレビ局の格好のエサだったのに、敵もさるもの、油断なくテレビ局の弱点をついて、いつしか大手芸能プロや政府・警察の記者クラブ、スポンサーの利害関係とソンタクでがんじがらめになった。
弱いものにはめっぽう強く、強いものにはとっても弱い。人間らしくて、すなおでいいな。
その後、
テレビの落穂拾いみたいなYouTubeなどのネット「ピラニア」の手に、そのスキャンダルの手法が移った。
差別化を図るために
そんなテレビを批判しながらも、テレビでしか生きていけない茶坊主評論家や太鼓持ち芸人のコメントそのままに、YouTubeの中でもどういう訳か分別くさい解説が飛びかっていた。
そんなこと、許されるんですか。
アメリカ資本のグーグルの意からニラまれないで、アメリカ批判やユダヤ人批判、風邪ウィルスの利権を批判してバンされないようにあたりさわりなく、われわれは共産主義各国の悪口や金儲け、英語教材のコマーシャルばかり見せられ、エサづけされているのでした。
結局、媒体が変わっても、強いものにまかれる人間そのものは、変わっていないってことさ。
貴族から武士、市民へと実権が変わっても、人間そのものが変わっていないように。
子どもの頃、悪代官と闘うウイリアム・テルを夢みて、赤ひげにあこがれ医者を志したあのとき、
学生の頃、わが心は石にあらずと口ずさみ好んで誓ったあのとき、
教師や会社員となり、いつしか出世して行くにしたがって色あせていないだろうか。
でも青少年にとって、昔もそうだったようにいまも、卑屈さを拒絶する心はけっして朽ちていない。
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