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「短編」 おれの本質



 本質的な、おれを求めて

「ねえ兄貴、方言はどうして出きてきたか知ってる」
「うーん、わかんない、なんで」

 意外に真理はむずかしい本の中や偉い人の言葉からヒントをもらえないで、幼いといったら怒られそう、身近にいた妹から教えてもらったことが一度か二度あった、と文芸評論家の古葉野次こばやじ秀雄は述懐していた

 これもおれが若い学生の頃、部屋でのんびり考え事していたら、何を思ったのか妹が話しかけてきたものだった

「江戸時代ね、幕府のスパイを防止するためだったのよ、薩摩藩とかね、どんなに言葉を習っても生まれたときから話している人と違って、アクセントがどこか違うの、だからヨソから来た人はすぐバレっちゃうんだって」

 えっそうなの、おれはそれまで外国語も同じようにバベルの塔の崩壊じゃないけど、ひとつの言葉から分裂崩壊してたくさんの言葉が広がっていったとばかり、そうだよな、それが自然だな

 えらいな、幼い頭でよくそんなモンわかったな、頭を撫でてやろうしたら、やめてよ気安くしないで、という年ごろみたいなのでやめました
たぶんに歴史の授業の合間に先生が雑談に話していたのを覚えていた模様で、授業をまともに聞かなくて、意外にわき道にそれた話なんかが耳に残ったりする、でもなかなかいい発見だった

 後年、フランスの構造主義の後に現れた哲学者があたかも発見したように各国の言葉の起源を述べていた
古代フランク王国が分裂して、いまのドイツ、フランス、イタリアの3国になったそのときの調印文書に、初めて国の独自性を出すために区別化する言葉があらわれた、と豪語していた

 これ聞いて、おれなんかもっと前から気づいていたもんね、鼻高々だった

( ちなみに日本では「書く漢字をもとに」、和風に訓読み、中国風に音読みして、山をヤマ、サンと発音して、富士山をふじのやま、ふじさん。
いっぽうアルファベットを使う国では「話す言葉をもとに」、方言の語尾を活字化するかのように、park(英)、parco(イタリア)、parc(フランス) )

 そんなこんなで本の中のえらい言葉より、意外にモノのヒントは身近に、それも子供の素朴な言葉にひそんでいるなと感じ、評論稼業がマンネリ化したときに、ひょんなことから知りあった少年さとしから、なにげなくヒントをもらってもいた
だから今日も久しぶりに幼い顔を見て、気分転換に少しぐらいなっているのかな

「ほら、おまえの好きなペコちゃんポップキャンディ」
「ありがとう」

 この前も二人の前を歩いていた若い女性のスカートがふあっとひらめいたときに、動いているのは、風でもなくスカートでもない、おじちゃんの気持ちが動いているんだよ、なんて秀逸なことを言いやがって、的をちゃんと射抜いてやがる

 そんな、目の前の幼いさとしの顔を見ながら、雑誌社から「文学の本質」について一文書いてくださいといわれていたことを思いだしていた
そんな抽象的なモン書けるかい、といいたかったけれど、だっていつも「人生とは」なんて人一倍抽象的なもの書いているじゃないですか、なんて顔されて、ついオーケーしてしまった

「そんなモン書けるか、なあ」
口に出さないで、目で合図したら、さとしも目で「別に」と答えていた

 文学の本質なんて、蒼っぽい学生じゃあるまいし、あいつ、本当はおれのこと蒼っぽく見ているんじゃないのか、めんどうくさい奴だからそんなもんでも書いてくれなんて

 意味もなくこんなことで、言葉をはぐらしながら、note 2000文字を埋めるために、おれがいろんなこといって、読んでいる人にクダまいているとでも、
などと次のフレーズをどうつなげて行こうかと考えていたら、スカートじゃなく頭がひらめいた

 文学の本質なんて、
おれが生まれる前におれの本質があるわけもなく、文学が生まれる前にも文学の本質があるわけもない、ただ存在するだけだ

 だから禅の本の『無門関』でもうたっている
「雲と月は同じもの、谷と山とは別のもの。
それがめでたしめでたしさ、一でもあれば二でもあり。」
 ( 三五、西村恵信訳、岩波文庫 )

 われわれは自分でかってに物事をむずかしくしているだけで、むずかしい言葉でつつみ、すなおな真実を隠していただけだった

 うむ、こんな抽象的なオチでいいんだろうか
「どう思う、さとし」

 歩きながら、そばで古葉野次のぼやきを聞いていたさとしは、いっしゅん、えっと顔を少し上げて、
「若いな、おじちゃん、ついていけないよ」


今年は羽ばたくぞ、と10数年

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