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 他人のような自分じしん、「怒ったぞ」


 * 現代でもっとも忘れられているもの、それは本当の怒りを怒る男である、とニーチェがどこかで言っていた


1.

 ナポレオンは国内で不満がたまると戦争をやって、
勝利することによって国民の目をそらした

アメリカは国内の選挙権をもつユダヤ人を気にもして、
ユダヤ人国家のイスラエル国に敵対する
中東アジア諸国を排除して援助し、
なにかと金持ちであるユダヤ人資金も援助された

またユダヤ人重役が多いハリウッド映画では
アクション映画にかこつけて
19世紀の産物である口あたりのいい美しい言葉、
民主主義と科学を掲げながら征服し侵略して、
異議をとなえる反抗的なインディアンとか
共産主義者やイスラム教主義たちを意味もなく人を殺す単なるテロリストにしたてあげて、
社会正義のもとにアメリカの権力者の下僕が
カッコよく映画の中で、残虐無残に敵を血祭りにあげていった

まるで
日本の時代劇の主役が悪者を殺しすぎだよ
と思われるほど勧善懲悪の名のもとにバタバタ斬り殺して、
たぶん中国でも北朝鮮でも同じような、自分たち政権を正当化するドラマにも似ていた


 現国家の思想教育を少しずつ毒を盛るかのように、
あたかも学校教科書とテレビを
やたら依存し信頼する子供や大衆に対して、
自分たちに都合のいいアメリカ資本主義の国策映画ばかりを大量生産するのはごもっともな話で、

戦国時代や江戸時代そして戦後のいまと同じく、
前時代の政治を悪く言うのはあたり前のように
前の時代がよかったなんて言ったら、今の政治が正当化されないし意味がない
そんなことは学校卒業して
二十歳過ぎたら誰でもうすうす気づいていても、

われわれはなぜだかわからない分別でひとり慰めてあっていた
これが人間の歴史が始まってから同じことの繰り返しで、庶民の生き方さとつぶやきながら

自分の心の弱さも、政治権力者パワーエリートの主張と同じく、みずから正当化していた
わたしの前の
鏡に映る政治権力者の姿は、わたしの心を反映していた


( 「新しい主義主張は前代の否定に始まる」とはよく言われる言葉で、文学分野でもリアリズムがロマン主義を批判して出てきたように、観念論を批判して唯物論、実存主義に反対して構造主義があらわれたようなものだった。
 どんな清らかな水でも溜まれば腐る。利権を握っているエリートや、文壇を仕切っている重鎮たちに反旗を翻して、新人が出てくるのは理の当然である )

2.

 そんな感じで
日本でも選挙が近づけばおいしい公約を掲げるのはもちろんのこと、
今なら身近な、海外からの日本入国審査緩和とか

それでなくとも、
真実を見るならきれいごとだけではなく大人なら、
いやなことやケムたがることも逃げないで、
口に出したり描かなくとも、ありのまま事実をみることも必要である



 「実像」を見るなら、
ウソつく人はいやと言われながら
虚像(アート)とか虚構(フィクション)の芸術の世界で感じとるように、
「表社会」を見るなら、
ヤクザは嫌いだと言われながら
裏社会の人間たちから同じニオイをうかがい見て、

それでなくとも業界の中で発展しているのはいろんな意味で
ケンカできる所とわかり、
極道社会では山口組の弘道会と住吉会の幸平一家と言われ
国際政治の社会で、いま戦争できるのはロシアとアメリカぐらいだともっぱらささやかれている

「大いなる宇宙の創造の意味」を知るなら、
薬も毒も生きることも死ぬことも、
創造された自然の中からうかがいできるのだった
内的世界も外的世界も、
対立する拡散分裂や統合があい乱れて、プラスイオン•マイナスイオンや雌と雄、陰と陽が溢れでていた

いいも悪いも
怒りには元気が必要であり、衰退していく所はいつも分別だけがのさばっている

 絶頂のときは崩壊の始まりといつも言われ
この世の春で、藤原道長が満ちたりた月を愛でて、
源氏物語では大奥物がたりが語られる頃、
すでに将門と純友の乱が起こり
新しい人間、
武士が起ころうとして
やがて爛熟らんじゅくされた
武士文化の江戸時代末期にはたびたび外国船が訪れていた

いまメディアでも文芸でも
ソーシャル•インポテンツな美しい内面の輝きばかりがもてはやされ
そのくせ大衆文化のあだ花である、
誰でもが有名人になりチヤホヤされたがり、ぜいたくなお金をほしがって

 希望しても自分ができない才能のなさと、無責任な傍観者使用でうっぷんをはらすような、羨望せんぼうとジェラシーがうずまいていた

確かに新しいマグマが吹きでようとしているかのように


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