短編、ゼロ度の覇権 明智十兵衛光慶「国々は猶 のどかなるころ」
王朝期の藤原朝の教養人にとって、和歌はひとつの嗜みであった、貴族生活を反映して、恋愛の歌に大きな特長があった
王朝に代わって軍人時代とも区分され、覇権を握った武士の世界でも、和歌に代わって、インテリ層の武士でも生活を反映してか、集団でスクラムを組むような連歌なるものが登場した、尻とり遊びみたいな
元来、和歌とか連歌、俳句、詩的な韻文の分野では、二十歳前ではオレンジジュース風でも、詩的なものには人の生き方が発酵され醸造されていなければ意味もなく、表された作品には詩人の匂いとか声の色、肌の温もりが感じられた
われわれは鑑賞し、詩人の思いを感受するのでした
美術が目で、
音楽が耳で鑑賞され、文学を読むと口で味わうものならば
散文形式の小説には同じ具材を料理しても、料理人の熟練した手さばきでおいしくもなり幸福にもなるのに似て、
詩的な韻文ではお酒のようで、熟練した職人が長らく発酵させたものを味わうように、詩には人生を噛みしめ味わうものがあり、
機械が作るようなフードや手っ取り早いジュースではなかった
ところで、
戦国時代の天正10年(1582年)にささやかな連歌の催しがあった、愛宕山で行われたので愛宕百韻と呼ばれた
当時の教養人の明智光秀の呼びかけなのか、
長男の明智光慶(通称十兵衛)初め、連歌師の里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐が招かれた
表向きは、毛利征伐の戦勝祈願のようで、会は主催の光秀の発句で始まった
ときは今 天が下しる 五月かな 光秀
水上まさる 庭の夏山 行祐
花落つる 池の流れを せきとめて 紹巴
いっけん、和やかに歌合いは行われていった
連歌には、他に有名な大成者の二条良基のものや飯尾宗祇の『水無瀬三吟百韻』がある
このときの連歌は文学史でも、さりとて、とり立てるほどではなかった
しかし、このときが天正10年(1582年)5月24日、本能寺の直前であってみれば、そこはかとなく感慨深いものがあった
それゆえ、心前の句を受けて、明智十兵衛光慶は歌を、こう結んだ
色も香も 酔をすすむる 花の本 心前
国々は猶 のどかなるころ 光慶
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?