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 鏡の前のボクは、どんな顔


 * 傍観者は常に感傷的である

 現代文学を創る人に


 1.

 何か事をするにあたって、
利口でなれず馬鹿でもなれず、中途半端じゃなおなれず、とはよく聞かれる言葉だ。じっさい中途半端な奴は何をやっても大成しない。

 むかし、お笑いタレントで食えない人がどういう訳か選挙で人気を博し、県知事になった。気分をよくしたソノ男、今度は首相になりたいと言いだしダダをこねるしまつ。
 困ったときは女でも誰でも、即座に頭を下げ、土下座することもいとわないと噂されていて、そんな男に人のいい宮崎県民は許してもわれわれ日本国民はお断りしたかった。
 だから以前漫才師のやっさん、横山やすしさんはよく言っていたものだった。
「芸はいつまでたってもヘタくそなのに、そんな奴にかぎって女をヒッかけるのは一人前だ、怒るで、ホンマに」


 そんな感じで、頭はカラッポなのに理屈ばかり捏ねたがるジャズ好きの作家に似て、あっおもわず、言い切っちゃった、しーらないっと、言ってはいけないことを言う新人タレントみたいな、公然の秘密なのに。

 えーっと何を言いたかったんだっけ、
そうそう、そんなこんなで
いくら和歌が好きでも貴族中心の軟弱さに飽きてくるように、
明治維新以来の政府の教育方針とはいえ、
国立の有名大学出身が中心になっている作家の文学を、
小学校のときから教科書で読まされ、
さすがに二十歳になると権力者の教育意図が見え見えでなくとも、ウンザリしてきます。

 いい大学をめざして、
学習能力がすぐれた指導者を育てるのが教育のあり方と言っても、
なんだか江戸幕府の儒教主義者や、現在のマルクス主義の人たちを見ているようだった。

 平安朝もすぐれた作家やすぐれた詩人がいたとしても、
読者は文字が読める少数者にかぎられパターン化して、
明治以降の文学では、思春期の少年少女や成年期を過ぎた老人が主な読者中心になって、
成年期の男女には仕事や育児もあってか、娯楽本かビジネス本で息抜きしていた。


 さきに言ったように
平安朝の軟弱性も飽きて新しい文学、武家の物語が出てきたように、
明治以降の青白いインテリ青年の詩や小説を読んで、若い女性にまあステキね、なんて言われてもいい加減どんなもんかなと思うのが、革新をめざす新人作家でなくとも少しは考えます。

 大学があたかも、欧米では昔の教会内部の養成機関みたいに発達したかのように、
日本の大学も、徳川幕府公認の儒教の学問所の末裔みたいで、最初の頃はなんとか新鮮味もあって初々しかったけど、時とともに権威づけられて、みんな似たりよったりでワンパターンになった。

 鴎外も漱石も、芥川、三島由紀夫もいいけど、国家公認の教会出身や江戸時代の儒教の英才教育を受けた人たちのようで、また悪くいうつもりはないけど、徳川幕府初期の名門家のご子息や北朝鮮のエリート機関の出身みたいで政府や教育者には都合よく、みんなからも憧れられても、
どこか、みんな文章の味付けが同じで色あいが似ていて、また国家に養成された機関の大学出身校が同じなのか、人間も雰囲気もまったく同じ匂いがする、パターン化されている。

 2.

 あるいはそうではない O ancheアンケ no (Or even not )

 StudyとCreative の間には、近くても深い川がある。

 芸術家や作家の人は、常に
型にハマった生き方や芸術方式を本能的に嫌う、みんなと同じようにくくられたがらない。
前時代を拒否したがる。

 天才の家系譜、画家の狩野派もいつしか色あせ、
将軍家指南役柳生新陰流も柳生十兵衛の後では形だけで色あせて、将軍家指南役であるがためにかえって対外試合ができなくて、セレブな名前に甘えて、いつしか諸藩とか町道場に実力のお株を取られていった。

 帝大学閥の作家も初期にはあんなにがんばったのに、創成期の柳生新陰流や中国の革命世代の人が生死のぎりぎりで勝ちとって築いたものの、その孫の代には例にもれず気骨さがなくなったのに似て、
エリート出身であるにもかかわらず両親の反対とか世間の冷たい無理解の視線のなかにも負けないで闘った、明治、戦後すぐの先輩たちのハングリーさも欠け、
せっかくがんばって受験でエリート校に入ったのに、何でいまさら食べていけるかどうか分からないことを何が悲しゅーて、苦労してやる必要もなく、
東大生は公務員関係か公共性のある所しか通用しないと言われてもなぜか褒められたと感じ、いまではすっかりセレブな名前に甘えて、無難な学校の先生や、お得意の予習復習を活かしてお手のものな評論家で逃げ道を作り、才能ある人たちにクリエイティブな道を譲っていった。

 このように
名門、軍閥、学閥も最初の頃は、カッコ良くエリート気分で、自分たちが引っ張っていくんだと苦労もしてがんばったのに、

 やがて
初々しさも欠け、逆に他を排斥して、
その出身だけでセレブ化して形骸化し、得意満面なのは自分たちだけで新しい人間の登場に気づいていなかった。


 それに新しい流行も、新鮮で新しくあればあるほど古くなる。
モガモボ、リーゼントや長髪、ミニスカート、
いつしかナウかったものがオールドに。

 セレブがいつまでも続くわけもないのは
貴族や武家を見ればわかると言われても、
また新しく時代の特権クラスをめざせばいいと思われても、常にやがて悲しい斜陽化へ。
当時いくら羽振りがよく人気があっても、いつしか思い出の懐メロになっていた。

 いくら貴族だ、武家だ、エリート大学卒だとモテはやされてもいつしか消え去っていきます。

 生まれたときから死に向かい、セレブは斜陽の始まりだった。

 切ない束の間の栄光や名誉に固守して、身をこがすより、
芸術や文学の命が「永遠」と分かれば、逆に今のいっしゅんの尊さもわかってくるというものです。



 新しい文学をめざしたがるのがクリエイティブな気持ちであり、創作の泉です。

 頭だけではなく、
よって立っている存在基盤から問い直し始め、文学が安易でないように身そのものも安易さを求めないで、家柄、学閥の名門出身でなくても卑屈にならないで、名門出身ならかえりみて、みずからマイナスイオンを浴びて切り開いて行き、
政治経済にかぎらず、すべての芸術的なものは前時代の否定に始まるように、クリエイティブなものは反抗精神に根づいて、まだ見ぬ成立していないものにあこがれます。

 幸い、雑誌のように売り上げとかコネとか、誰かに気兼ねや打算的思いもなくて文章を書けるコノ場所があり、同人雑誌のようにまだ見ぬ同じ思いの人もいて、まったく文学に興味がない人も偶然読んでくれたり、また多くのビューやスキがあっても偉い人の引用や考えを咀嚼そしゃくしないでそのまま語ったものならむなしくて、たとえつたなくても自分の思いを文章で描けられたら、もしひとりでも共感してくれる読者がいてくれたら、そこはかとなく充実感が生まれてきます。


( 多少咀嚼して言えば)、思い通りいかなくても、悩み苦しんでいるときは前進しているときだ、とむかしの文豪ゲーテも言っています 。

 コノ場を文章修行の実験場として自ら問い直し励んだら、気分もいくらか楽になるだろうし、それにお客さまに出す料理には、職人の腕さばきと質の良い仕込みが必要であり、誰も入門してすぐに横綱にはなれません。

偶然、
この文章を読んでくれた人が、ひとりでもプロの作家として自立して、文学の中に名前を刻めるようにと、ささやかですけど気持ちをこめて期待しています。
文学を志す皆さん、がんばっていこう。

 すべての文学史は常に現代文学である。



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