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「短編」 作家残酷物語、M りんごはまっすぐ落ちていない


* 小説に取ってかわる、新たなる時代のフィクションを求めて


「お勘定は890円になります」
「1000円で110円のおつりだから、まずこちらが110円渡すから、1000円ちょうだい」

 はい、1000円どうぞ、ありがとうございますって、わけねえだろう、アメリカ人好みのこそくな商売上手をしやがって

 最近、評論から小説を書きはじめたM、なんだか不機嫌そう

 ほんと、道をきれいにするためにゴミ箱を作らないとか、中味より上っ面の心理戦で購買力を誘う作家や商売人連中ばかり、意図的にテーブル席を作らないでカウンターだけで間に合わせ、お客さんに購買力をあおるラーメン屋みたい

 そういえば、むかし作家のサイン会で人が集まらなかったときのこんなエピソードがあった
人がほとんどいない、先生、とても怒っているよなんてスタッフも困惑、ふとそこでいいアイデアが浮かんで、サイン会を無事に盛況で終わらせたそうです
こんな手を使った

「古葉野次先生が急遽お見えになりました、先客70名様に限り、新刊本をサイン入りで販売しますので、今日お見えの方だけに予約整理券をお渡します、なお午後3時までとなっておりますのでお急ぎください」

 最近、さすがに手のうちが見えたのか効き目がなさそう

 でもいまでも、あの手この手を使って、本の購買力を誘う甘い言葉のセールスに熱中して、肝心の小説内容はさっぱり
ナイーブな柔和さを漂わせながら、辛口評論をちらつかせ、あたかも口は悪いけどホントはいい人なんですよ、ナンテいう芸人みたいなワンパターンだった
内容はどれ見ても同じで、サスペンスあり、辛口の社会風刺あり、思春期の若い人には性のあり方とテクニックをふんだんに込めて、柔らかな感受性と銘打っていても卑猥的で風俗的で、興味しんしんに、こっそりと

 ほんと、なんでもありの山盛りで、てんこ盛りの風俗小説でしかなかった

 Mはそんな英米風の功利主義的な手法はとても嫌いで、なじめなかった
とはいえ、生活のために好き嫌いを言っている場合じゃない

 そこで松竹隆明さんと別れても、出版社の玄関そばにあるロビーのソファに座って、小説を書くっていっても、コレからどうしたもんかな、と天井を仰ぎみてため息ついていた

「ようどうしたの、しょんぼりして」

 ポンと肩を叩かれた先を見れば、評論を書いていたときの担当編集者の顔

「別に、ちょっと前に、松竹隆明さんから、だからキミは自立できないと言われてね、落ちこんでいるんだ」

「そう、大変だね、新しいジャンルを始めているときはなかなかうまくいかないよ」
そう言って、Mの前にヨイショと座りこんだ

「じつはね、おもしろい話はあるんだ、聞いてみる」

 また隆明さんじゃないけど、たとえ話かな、文学関係者はたとえが好きだな、まったく

「 これ、ある大御所作家の有名な言葉なんだよ、あのね、
“ 机の上で文章を書くときは、饒舌すぎてはいけない、沈黙でもいけない、ではいい文章を書くにはどうしたらいいか、わかるかい “ 」

 うん、なかなかいい質問だな、いまのボクに直結しているぞ、饒舌でも沈黙でもダメか、もしかして単なる心理作戦、
うーん、わからん

「わかる、これはね、
“ 机の上で文章を書くときは ”  
が鬼門なんだよ」

「 … 」

「さらに第2の関所を設けているんだ、つまりこれはね、ふだんなにげなく饒舌に書いたり、言葉少なめに自由に書いたりしていても、いちど
“ 饒舌すぎてはいけない、沈黙でもいけない ”
とストップをかけられることに意味があるんだ。そして改めて思い直して、文章に向かうとき、饒舌に書いたり、沈黙的に書く『自由』を味わえるんだよ、わかる」

「ボクの場合、自由に書けるというのがネックになって文章が進まない、むしろ不自由に何も考えないでいい文章が書けたら、もうこの上ないよ」とMが言えば、

「まあね」と編集者、「でも最後の “いい文章を書く” とはどういうことだろう」

「たぶん、すばらしい内容とかベストセラーになるような文章ですか」

「そうみたい」

「えっそれだけ、なんか切り返すモラル的な言葉とか、えらそうな格言ないの、おもしろいオチが何かないの」

「ない。文学はそんなに甘くない、文学にオチがなくゴールがないってこと、こんな感じでいいかな。

しいて言えば、
大学受験の傾向と対策とか、会社面接の前でテイのいい言葉を準備したり、文章学校で習って新人賞取っても長く続かないよ。

いい学校を出て誇るよりも、学校令を公布した政治家の森有礼や福沢諭吉に負けない気持ちで、じっさい幕末に遅れてやってきた青年の夏目漱石は、幕末の先輩に負けないように奮発して、カレは漱石になった。

それでも何事でも、
前代を乗り越えたつもりが振り返ったら、人並みのトントンということもある。
志は高く、目の前の些細な困難から逃げないで、馴れあいの小市民的な気持ちから一歩づつ克服していくことが、文章作法と共に大事だなと先輩たちは教えてくれたね。

要領よくやる人は、結局要領が悪いんだよ。

それに
他から見たらよくわからないカップル同士。
古代西暦200年代の前半にディオゲネス・ラエルティオスという、舌をかみそうな人が書いた『ギリシア哲学者列伝』の中で、こんなソクラテスのエピソードがあるんだ。
いつもソクラテスが奥さんからガミガミ怒られて、その上あるときは窓の上から水をかぶせられたこともあったんだ。
だから友だちがよく我慢できるなと言っても、ソクラテス本人はカミナリの後にはいつも雨が降ってくるさ、と平然としていたんだよ、いろんな愛があるもんだ。

ついでに言えば
文学創造のテクニック的には、愛が関連しているかもね。
愛のテクニックは気持ちいいけど、創造されるモノは産みの苦しさといって痛みも感じているのさ、誰でもいいっていうわけじゃない。

たとえば樋口一葉にもっと優れた人が教え導いていたら、もっと優れたものになったわけではなく、
与謝野晶子が鉄幹よりも優れた人と結婚したら、もっと優れたものになるわけでもない。
愛する偶然の相性で、埋もれた才能が開花して解放され、体から溢れでてたもので、誰でもいいというわけではなかった、愛は女性を変えさせ、新しい人間をつくるんだ。

青は、あいより出でて、藍より青しって感じで、
愛から創造されるもの、それはなーに。

こんなオチでいいかな」

「長いな」

 ... あのう、この短編の筆者です、思いつきで何も考えないで書きましたけど、すこしはおもしろいですか




 付録
 りんごはまっすぐ落ちていない

” 時は金なり、とはフランクリンの言葉。
即物的で金儲けに忙しいアメリカ人に支持され、薄利多売の芸能スポーツ文化に興味がある経済人にも受けいれられて、時間の大切さも知りながら、時間に追われる日々は果たして自然な生き方かな、と疑問に感じつつも、いつもながら世の中ってこんなもんさと現状肯定の大人の作法。

でも、虐げられた人間社会の解放をめざすものがあるように、内面的世界でも、人間の解放をめざすような一面もあるクリエイティブな文学芸術の分野では、悠長なことも言っていられない。

むかし
天にいる神様がわれわれを見守ってくれるように、地球のまわりを太陽が回っていたと思ったら、コペルニクスやニュートンのおかげで、地球の方が回っていることがわかり、宇宙が限りなく広がって、天には神様もいない誰もいない、単に漂っている地球のように孤独な自我があらわれ、デカルトやシェイクスピアが登場した。

それからつい最近まで
時間のまわりを光が回っていると思ったら、アインシュタインのおかげで、時間の方が「光、約30万km/秒 のまわりを回っていた」ことがわかり、なんのこっちゃと、いままでの美しい自我とか起承転結の意味もなく、遠近法、#さん♭さんはどうするのと言われても、大いなる豊かな自然の新しい思考が生まれ、
ハイデッガーならびに、プルーストやピカソ、シェーンベルクさんたちもあらわれて来ましたとさ。

りんごはまっすぐ落ちていない。
四次元空間ばかりでなく、五次元、六次元以上もあるらしい 。“

     ちぎれ雲( 2023年3月27日 )から





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