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短編コント 作家の数ほど文学論がある、自由むげに①

 * 満たされた行為のなかで

 創作されたモノのなかに文学そのものはない
と最近、文芸評論家の松竹まつたけ隆明は思いはじめていた

 文学を知るために、
詩や小説を読んだり書いたりしてもムダ
目的を持たない
持つとずれる、的に当たらない

 初めに理論があり、そうでなければ文学ではないというのはおかしな話で、すべての理論は文学作品のサンプルを見て決まっている
サンプルを集めた時点で何を集めたかで、すでに評論じたいが決まっているただの一人の個人的な意見にすぎない
すべては創作された作品の結果でしか判断されない

 それゆえなんだかんだ言っているヒマがあったら、小説を書いているほうがマシで実用的だし、しようがない奴につき合っているヒマがない、
とは小説家からよく聞こえてくる言葉で、ほんと中途半端に当たっているようにもみえる

 じっさい
創造主から造られた人間が、同じ人間を定義できるわけもなく
人間が作った言葉で作られた文学を、同じ言葉で定義できるわけもない
人間を見て、文学作品を見て、観察し感じる取るしかないだろう
(人間の体は水が何グラムで、骨と肉で出きていて、目とか耳の感覚器官を持ち感受性を持っている、など言っても内面の人間そのものはわかるはずもなかった)

 むしろ
「詩を読み、小説を描いている行為のなかに」こそ文学はあるだろう
行為そのものが文学であるかもしれない

 うーん、最近オレって、いいこと言うな、まんざらでもないぞ

 そんなことをつぶやいていた松竹、今日は娘の小学校の授業参観日だった
あなたヒマなんでしょう、かわりに行ってきて
と奥さんに言われ、失業している身、断われるわけもなくトボトボと小学校の教室にやって来たというわけだった

 若いお母さんたちにまじって中年男の松竹が一人、
習字やら親の顔を描いたマンガみたいな絵が貼ってある教室の壁のそばに、ポツネンと立っていた
授業が始まる前のざわめきのなかで
ふと教室の中を見ると思いあたる子供がひとり

 たしか古葉野次秀雄のエッセイの中に出ていた、不二家ポップキャンディーの子供
ちらっと写真が出ていたのでおぼえていた
ほう、娘と同じ小学校だったのか、それも同じクラス

 授業が始まるには少しばかり時間があった
松竹はなんだか興味があったので、子供のそばに寄って話しかけてみた
「何さがしてんだ」
「作文を書くにはえんぴつがいるんだよ」

「えんぴつがなかったら、どうするんだ」
「えーっ、気持ちで書くんだ」

「ふーん、気持ちがわいて来なかったら、どうするんだ」
「決まってるじゃん、作文を書くよ」


 臨機応変だな、一定の形がない
そうかなるほど、オレは頭の中で理論的にわかっていても、この少年は本能的に実践でわかっているんだ、元来創作ってものはそう言うものだからなと感心していた


アーツアンドクラフツ刊 右が隆明サン なぜか写真うつりを気にしていた頃



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