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短編 世界の起源、始めの文学


 1.

 フランス語を読めるようになったら、なんだか英語を読むのが虚しくなって、いっちょ前にフランス語で美術論を読んでいたら、びっくりした

ギュスターヴ・クールベの L'Origine du monde ( The Origin of the world )

裸の女性の股間を下から、度アップ
日本の美術誌では見かけなかったので、さすがに写実主義、でもちょっと、ワンダフゥ
慣れてもそんなに見つめられなくて、フランスの美術館職員の若い男性が、ふたり両脇にかついで、それも用心して展示している様子を見ながら、うーん、どんなもんでしょう、大事に扱ってね、などと、ケアフゥ

絵画に限らず、芸術には時代をけん引する革新性が必要です
クールベはプルードンの肖像画で知っていたけど、そんなに関心がなかった
でもよく読んでいけば絵画ばかりでなく、政治活動も過激で、建物損壊で賠償させられたそうです
さすが危険人物のプルードンを描くだけはあるな、と感心しました

そんなクールベがいなければ、ピカソのエロチカも生まれて来ないし、アンディ・ウォーホルも出て来ない、新しい若い人も続かない

でも単に、好きだという声もある
人には向き不向きがあって、
岡本太郎さんはヌードは描かない、私には向いていない、そう生前に語っていた


 内気なボクには、とうてい革新的な芸術家になれそうもありません、予備のものを載せておきます

               photo by fuyuko1224


 2.

 好きな野球やってて、成績振るわないで収入が少ないとか、小説書いても、絵を描いても暮らしがよくならない、もっと有名人になって裕福な甘い生活をしてみたいなんて、好きなことやってて、文句ばかり。
人さまは朝早くからラッシュアワーで揉まれ、汗水流して働いているのに、そんな、みなさんのおかげで成り立っているのに、人さまの半分でも生活できればいいじゃないか、そんなフレーズも遠い昔のドラマの世界しかあり得なくなった、滑稽な社会になっていた。

いまでは人々をよろこばせるよりも先に、一日でも早く有名になってリッチな生活をしたい、そんなことばかり、
芸術も文芸、芸能も単なる金儲けの手段に成り果てて、女性や子供たちをかわいく愛撫するようなマーケット志向の言葉ばかりが持てはやされていた。


 そんな文芸界にも、青春とはなんだ、人生とは、文学とはなんだ、と昔のテレビドラマの見過ぎみたいな男が文学の門を叩こうとしていた。
最近、評論からクラ替えをはかっているM.のW大の後輩の男、もうすぐ卒業なのに就職活動もしないで、小説家をめざしていた、押忍おす

そんな後輩の男、本を読んでいてハタと読みとまった。

中国の坊さんの話、
弟子が和尚に仏教の奥義を尋ねたとき、和尚からこう言われたそうだ。

「ある人が深い井戸に落ちた、もし一本のロープも使わないでこの人を助けられたら、おまえの問いに答えてあげよう」

うむ、この文章は意味深い、文学にも通じる問題だな。
そこで、いろいろ考えてもさっぱり、この男、ついつい眠りかけてしまった、
こりゃあかん、そこで先輩のM.の顔が浮かんだ。


「先輩、こういう訳なんですよ、わかりますか」
「わかりますか、といわれても田村くん」

おっといい忘れていた、ちなみにこの後輩の男、名前を田村ごうといった、念のため。

「ところで、その井戸に落ちた人はどんな人」
「さあ」

じゃわかった、その道に詳しい、ぼくの文学の師匠である人を紹介してあげよう、
そういって愚風さんの家を教えてもらった。

「ありがとうございます」


そんなわけで、少しばかりストーリーのテンポが早いけど、いろいろ忙しいなか、いっかいの学生ごとき男のために、愚風さんはわざわざ会ってくれたのでした。
田村号は恐縮しながら、いままでの経過を話してみました。

「こういう訳です、つまらない質問ですみません」

ふふふと愚風さんは、笑みを浮かべました。
つまらない問題の中にこそ、重要なことが含まれているんだよ、そう言いたげだった。
いっしゅん、間があいて、

「田村くん」
「はい」

「ほら、もうこの人は井戸から上がったよ」

えっ何のこと、意味わかんない。


 でも、そういうことかな、と田村くん。
愚風さんの家から帰り道、思慮深い愚風さんはくわしく語らなかったけど、意味することを考えていた。

たとえば小説と同じで、初めから小説というものはない、この散文形式を小説と名づけたときに初めて、小説とはなんだ、という問いが始まった。
そんなに生まれて長くもない小説の歴史、小説みたいな作品サンプルを集めて、初めて小説とはなんだ。

じっさい、
自然の作物、ジャガイモや米について言葉で説明するのはわかっても、人が作った抽象的な言葉に、人が作った抽象的な言葉で解釈するのもおかしな話だ。

小説で愛を語りたがるのは、女性でもっている小説の常套手段、
でも抽象名詞の愛を、人が作った言葉でとらえられるはずもない、国語辞典で字句を引いて納得しても、創作である文学では愛という語彙を使うんじゃなくて、表現力で愛を語ることにあるんではないだろうか。
だから遠い昔の源氏物語から現在まで、永遠と語られてきた、
これも愛、あれも愛、みんな愛、ふふ、ふふん、どっかで聴いたような歌の文句だな。

中学生、高校生に人生とはこういうものだと、映画の予告編みたいなことを言えば、まだ社会に旅立っていない人には感慨深げでも、大人にとって、何それって、感じかもね。
だから、

「じつはまだ、ぼく、ひとつも小説書いていないんです」

帰りぎわにそういったら、そういうもんだよ、と愚風さんは笑っていた。

仏教に、きっと解釈の奥義というものはない、
小説の作法にも、これが王道の表現力というものはないだろう。

たぶん、井戸に落ちた人は初めからいなかった、「問い」だけが落ちていた。

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