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 現代の寓話 分かっちゃいない、たけしとタモリ、龍と春樹の場合


 これから述べるのは近くにいなくても読んで、見て、被害妄想でもない、単に感じる「観想」ですので大目に見てね。


 もの事をわきまえない小中学校のうちから、学校で芥川龍之介とか太宰治、夏目漱石みたいな精神的に病いを持っている作家の小説を読まされた日にや、被害妄想になる子どもが育つのも仕方ない。
どうも同じ学校の後輩たちが多い教科書編纂者には、彼ら先輩がナイーブで感受性が高い作家だと思っているふしがある。

1. 
 処世術と太鼓持ち

「僕は文学には理解を持っています、芥川賞をもらった作品は必ず読んでますよ 」

かつて中曽根康弘・元首相は文学通を自認して、分かっていますと得意げだった。

でも、分かっちゃいねーよ。

( じつは一度、中曽根さんと遭遇した。
ビルのエレベーターに乗っているとき、突然扉が開いて中曽根さんが護衛とともに乗り込んできて、そばで見る中曽根さんはいくぶん背が高くても頭の髪の毛がそこはかとなく薄かった。
後ろから、目の前のそんな少し禿げあがった頭を見ていたら、おもわずポンポンと叩いてみたい衝動に駆られた )


この中曽根さんは典型的な政治家だった、フランス革命時代のフランス政治家ジョセフ・フーシェにどこか似ていた。
フーシェは王朝、共和国、ナポレオン帝政、それからまた共和政に変わっても常に世渡り上手に政権中枢部に潜り込んで、狼みたいな冷酷さで政敵を倒し、常にナンバー2あたりに君臨して、警察権力を握り、身の保全を確保していた。
晩年の余生は若い女性も連れて、その後の一生を安楽に暮らしていましたとさ。
歴史の教科書に表だって出ることはなくても、この時代を詳しく調べれば常に顔を出し、当時の国民が誰でも知っている存在だった。

どこにも存在する人間、
たぶん近くで見たらいい人に感じても、社会的存在では処世術巧みで、どこか人に無神経で、あまりにも「動物本能」にすなおなで、理想ばかり掲げて、目の前の現実を見ないような人たちをバカにする人間の典型だった。
いっけん、めざとく賢いふうに見えて、当時は権力を集中しても、死んだら名も権力も消えていく運命だった、むしろ死んで名を残すより、生きて享楽的に安全に生きることを望んだ。

 あまりに処世術がうますぎて人気や富を得ても、かえって死んで名を残せないだろう。
悪いけどタレントではビートたけしとかタモリさんとか。
たぶん近くにいてもいい人みたいで、長所は短所、本人もきっと理解していることだろう。
たとえ処世にキッパリ感がなくダラダラしているようでも自分に素直で、だから生きている間はがんばりまーす。

( たぶんたけしさんもタモリさんもこれを読んでいるわけもなく、目に触れたらごめんなさい。
でもコノヤローと笑ってくれる大きい存在だろうし、たまには酒でもつきやってやろうといっても、あんなにお金を持っているのに割り勘ねなんて、会ったこともないけど、たぶん自分に素直な人なんだろうな、なんてほんと怒られるぞ )

2. 
 マーケティング作家

 作家では、これも悪いけど村上龍とかね。
たぶんこの人も人間的に素直でいい人にちがいない、でも動物的に防衛本能が強く、文学界をうまく立ちまわって、世の中にあった小説をうまく書いても、かえって古くなり、生きている間は作家として処世的に生計できても、それがゆえに死んで名を刻むことはないだろう。
多少生活できれば、やせ我慢な生き方は人を引きつけるでしょうけど、やっぱり本人に素直で無理のない生き方が一番です。
(これも知ったら怒られるだろうな、無視しているみたいでも、きっと )

 それからついでにもう一方の村上の春樹サン。人間的に、先に挙げたような処世術を持たない、使わないタイプでも、文章が処世的に散見されます。

おもしろいけど、もう少し表現力をつけてほしいな、といえば、他人からそういうお前は何者だと問われても、ここはあえて、えらそうに言ってみたい。
出版社みたいに、特定の作家にこれもまた利害関係やソンタクでおべっか使うこともなく、また身近の作家みたいに気がねすることもないし、この文章が目についても文芸に興味ある人は限られ、同人誌ほど読者数もないだろう。

( そうはいっても小説好きの童貞処女みたいなものとか、何かと出版社に頭があがらないで媚びがちな作家予備軍でも、二十歳過ぎればセールスのお得意さんになるのもどうかなと疑問にも感じられてくる。
作家希望でまだ一人前でもないのに教科書に出てくるような、すでに評価された作家や、売れ行き抜群の有名人気作家の本ばかりを読んで感想言って得意になってもしようがない、テレビタレントがテレビ局に何かとソンタクしているようで、なんで教科書編纂者や他人の趣味嗜好に合わせにゃあかんのや、北朝鮮やアメリカじゃないのに。

日本では海外評価に弱く、「人気」をとるには海外メディアからが手っ取り早いといわれ、たとえば海外で出品された映画の座頭市を見て、勝新太郎と比べなくても、かくし芸にしか見えないと日本の映画関係者がいっても、外国人にはトレビアンだった。
そんなふうに密かに感じていてもカドがたつから口をつむぎ、文章も語るほどでもないけど誰かに代わって語ってみれば、そこで昔、未熟でも勝手にいいたいことをいいあっていた学生時代の文芸仲間を思い出しながら、気ままにのたまわってみたい )


 読んでいて
なんだかホストが言葉で女性を愛撫しているような、後輩に何か昔話を自慢しているように言葉が美しく、言葉だけが目につきます。
真実な言葉はそんなひと目でわかる言葉や語彙にあるわけもなく、いくら言葉で表現する文学とはいえ内容にあり、読んでいていつしか言葉が消え心に残り、あらためて気持ちが現れるときに言葉が浮きあがってくるもので、軽々しく言葉で理屈を述べるのをためらいます。

書かれている内容が聞こえてこないで、楽しい娯楽な気分だけが漂い、ストーリーや言葉だけが浮揚して目について、しきりにしゃべりたがってもその後すぐに言葉も記憶に残らない、何かしゃべっていたな、何だったっけ。

( じつは大江健三郎の「評論」の本を読んでいて、つとに感じたものだった。
大学生のとき、かれの小説を読んで表現力の見事さに驚いて、おもわず天才性を読みとった。
でも本人はほんとうのところ、評論を認めてもらいたく一生懸命「勉強」して書いていて、確かに作家本人も書いているときはこれが真実だと信じているらしく、読んでいるボクもその通りだと感じつつ、読み終わって、しばらくするとなぜか記憶に残らない文章になっていた。
なぜだろう、気のせいかな。その根拠をいいたいけど長くなるので、ここでは控えておきます。

本人の気質もあるとはいえ、小説は言葉や語彙そのものになくて、あらためて表現力にある、と知った。
そのぶん評論はあんなに能弁に語っても、すぐに消え去っていくようだった。

その逆が詩を書きたいけど書けないで評論で成功した小林秀雄、詩を書いても続かないで評論が向いていた吉本隆明。

学者や評論家たちとはいくぶん情操が違って、すべからく政治活動とか詩や小説創作に携わるものは、バカでできず利口でできず、中途半端じゃなおできない、というおなじみの言葉がうまく当てはまってくる。

小説と哲学評論を書いていてもカミュが先にノーベル文学賞を取り、後にサルトルがノーベル賞にノミネートされ辞退したのは単なる偶然ではないようだった。
創作と評論の二つともうまくいけばいいけど、そんなに二兎は追えず、俳優と歌手に似て、理系と文系、ニーチェとアインシュタインなどと頭に浮かんできて、つれづれに )


それに
いい音楽やいい絵画を鑑賞しているときは、いい旋律や素晴らしいデッサン力に初めは惹かれても、そのこと自体を説くより、ただ音楽を聴いているだけで絵画を眺めているだけで心豊かに、いつしか音色だけ、色彩だけが心にしみて、精神的にも情操が高められていく気配がします。
求められれば感想を答えても、あまり言葉で吹聴することをあまり好まない。

また自然や人生を言葉で語るには物理学者や哲学者もいて、文学の本領はそんなところになく、人生経験があまりなく若くて未熟でも、無意識の中にでも感じとり、表現されたランボーの詩や宮沢賢治の童話の中にあるだろう。

赤ちゃんを見ているだけで和み、好きな人がいたら静かに何かいいことを想い、好むように、最初からどうしてかとゆうとなんて、言葉でまくしたてません。
それにどんなにすばらしい言葉でもすぐに固定され、いい意味でも悪い意味でも「利用」されがちで、創作には常に生きて働く言葉を生成していくことが肝心ではないだろうか。


 個人的には
語彙には気をつけるようにしています。
人が使った言葉はなるべく使わない、故事成語もすぐに遺跡物になり、教養ある人に受ける漢字も控えめに、動詞も「言った、行った」の区別するときに使います。
若い人に受けるカタカナ文字はテレビ、パソコンなどの製品名や地名、人物名に使うとか、意図して語を区別して引きたてる場合以外は、必要最低限使わない、流行ってもすぐに古くなり、ゴミくず同然になってしまう /


そのように言葉や語彙を使う小説でも、表現されたものにあり、言葉そのものにとらわれることではない( とボクは思う )。

まして、ひと目ですぐに理解され、どこかで聞いたような美しい言葉にあるはずもなく、ご存じのように創造されるクリエイティブな革命や芸術作品は、初めは毛嫌いされ拒否されるものとは、よく聞かれる言葉だ


 と、ここまで有名人の実名あげていたら、たぶんファンの人は怒っているだろうし、いくら自由な文章空間で、少ない読者数といっても言いすぎみたい。
でもテレビや文芸誌みたいに、この場所でもつつましくソンタクして文章を書いてもしようがないし、いったいどこに存在意義があるんや。
もっともタレントの控えの大部屋とか、作家になりたくてもなれない二軍ベンチであきらめくすぶって、ぼやいてばかりいる人は別だけど。

 東大のなんとか思潮や名士の白樺派、エリート官僚、あるいは人気タレントでカッコよくデビューできればいいものの、そうでなかったら、大手メディアや文芸誌に載ることを夢見て、媚びるように一日も早く作家になることを望み、心焦ってイライラ、教科書に載るような作家の感想を述べることで一人前の文学通を示していた。

生きているときから処世的にうまく、ピカソのように大げさな絵を描いて、三島由紀夫みたいに一生懸命勉強して作文を書き、生存中も、そしていましばらくも人気を博しても、いつまでも続くわけもなく表面上つき合っても、いつしか色あせるのがかいま見えて、逆に生きている時は誰にもふり向かれなかったモディリアーニやスタンダール、宮沢賢治の方に、かえっていつまでも永遠さが保たれていくのは逆説でなくて、すなおに人が芸術に求めているものは政治と同じようにうまく世の中に合わせればいいものの、合わせられない人々の感情をともに抱いて、拒否感を持ち異議申し立てることにあり、社会の王道でなくいつも社会の片隅から起こってくるのは、人間にとって、もっともなことである。

生きているときから有名で享楽できればいいものの、自分がどうあったら一番うれしいのか心にきざんで、たとえ数人しか読んでもらえなくても自分に試練をかけて闘っていきたいですね。


 そんなこと言いつつ字数的にもちょうどいい頃あいになったので、この辺あたりでお別れにしましょう。

うむ、もう読んでくれないだろうなあ。


 たぶん20人読んで、1/3は読んでも読んでないで目を通すだけ、1/3はアホかと怒り、1/3はふーんといってその中の1人か2人でも、なるほどねと感じてもらえれば、うれしいですね。
200人だったら10人、いないだろうけど2000人なら100人もいる。

うーむ

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