日本語がしゃべれなかった男の物語(プロローグ)

生まれも育ちも生粋の日本人だが、40歳過ぎまで日本語が苦手でうまくしゃべれなかった。これは本当の話である。原因は生まれ育った環境によるところが大きかったのに違いない。私は、昭和33年(1958年)に奄美大島の最北端の太平洋に面した小さな集落で生まれた。世帯数約60戸、人口は約200人弱の小さな集落である。昭和30年〜40年代は日本が高度成長期の坂を駆け昇っていく時代であったが、奄美大島は本土より10年以上も時代の潮流に乗り遅れていた。戦後しばらくアメリカの軍政下にあったが、激しい復帰運動により昭和25年(1953年)に沖縄に先んじて日本復帰となった。米軍からすれば沖縄と違い奄美は平野部が少ないため基地を作るメリットを感じなかったのだろう。このような経緯もあり奄美における戦後復興への取組は、他の地域に比べて大幅に遅れ、多くの家庭が貧しい生活を余儀なくされていた。主要産業といえば農業(サトウキビ)と漁業、そして大島紬であったが、殆どの家が半農半漁の生活をしており紬産業が活況を呈していくのは日本が高度成長に湧く昭和40年代からでその担い手は女性であった。周りのどの家庭も子供だけは多かった。我が家も7人兄弟、父親の兄弟は8人、母親の方は5人兄弟とまさに貧乏子沢山の家系だ。我が家に電気が通ったのは昭和38年頃だったか(記憶は定かではない)、テレビを買ったのは確か昭和44年だったと記憶している。その時に初めて標準語を耳にすることになる。生まれてから奄美語しか聞いてこなかった私は、日本語がうまく話せないハンデを背負って生きていくことになるのであった。沖縄や奄美そして東北地方の先輩方が都会に出て田舎者としてコンプレックスを抱き肩身の狭い生活を強いられたという話しを聞く度に「言葉」の問題が最も大きな要因ではないかと考えるのである。沖
続く。

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