日本語がしゃべれなかった男の物語(受験失敗〜浪人生活へ)
大学受験の直前まで偏差値は50前後と学力は一向に上がる気配はなかった。このままでは国立大学は無理かなと思い、現役での受験は諦めようかと思ったが、さすがにそれを両親に言い出す勇気はなかった。当時、国立大学は1期校と2期校に分かれていた。全く自信はなかったものの九州内の2大学を受験し、予想通り2校とも落ちてしまった。受験する前から不合格になるという自信があったので悔しい気持ちは湧かなかったが、家族の顔を見ると、自分は何と親不孝な息子だろうと申し訳ない気持ちと悔しさがこみ上げてきた。しばらくの間、魂が抜けたような生活を送っていたが、このままでは終われないという気持ちが芽生えてきて、1年だけ浪人させて欲しいと両親に懇願した。貧しい家ではあったが、「財産は残せない代わりに子供達への教育投資だけは、しっかり行うつもりだ」と言うのが両親の口癖だったので、あっさり許可してくれた。浪人生活は、知り合いの紹介で福岡市でおくることにした。受験するには都会で揉まれた方が良いのではないかというのと予備校の授業料が安かったからである。昭和40年代後半、福岡市には全国大手の予備校が進出し始め、地場の予備校との受験生獲得競争が激しくなってきた時期である。このため地場の予備校は授業料を安くせざるを得なかったのである。予備校への入学を控え3月20 日過ぎには単身福岡に向かうことになった。その頃、奄美と福岡間には1日1往復の直行便があった。YS11という小型のプロペラ機で1時間50分程度かかった。奄美空港を離陸後1時間が経過、飛行機は九州山地の上空にさしかかった頃、あいにくの前線の影響により機体は墜落するのではないかと思われる程に大きく揺れに揺れた。気流の影響で機体はミシミシと音をたてるは、凄い勢いで急降下するはで生きた心地はしなかった。まるで前途多難な受験生活を暗示しているようで気分は落ち込んでしまった。続く。
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