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【FC徳島】➆悔しさ味わいながらも前を向き続ける 強い精神力が武器のサイドバック DF高畠淳也選手

 「後ろには誰もいなくて、前だけに世界があるっていうのが楽しい。景色が一番いい」。FC徳島のDF高畠淳也選手(26)=徳島市出身=は、自身が務めるサイドバックの魅力をこう話す。徳島北高時代に監督の勧めでFWからコンバートし、FC徳島でもそのポジションでチームに貢献している。サッカーにかける思いは人一倍強く、大学卒業後にオーストラリアのセミプロクラブでプレーした経験も持つ。

練習のようす=吉野川市川島町のヨコタ上桜グラウンド

 サッカーを始めたのは8歳の時。兄の影響で地元の沖洲FCに入り、城東中時代は徳島FCリベリモ(徳島市)に所属した。徳島北高では、県大会決勝まで進んだが全国大会に行けず、悔しい思いをした。卒業後は国士舘大に進学した。

 大学時代には大きな挫折を味わった。「まるでダメだった。4年間で公式戦には出場できず、3年生まではくさっていた」と振り返る。3年の夏に帰省した時、母親から「逃げようとしていないか」と言われ、スイッチが入った。気持ちを新たに励み、JFLを中心に何チームかの練習に参加した。しかし、どこも契約はかなわず。地域リーグも考えたが、当時は働きながらサッカーをすることは考えられなかった。

オーストラリアのセミプロクラブでプレーしていた高畠選手(左端)(提供写真)

 サッカー人生で大きな節目となったのが、オーストラリアに渡ったことだ。大学の友人2人がオーストラリアに行っており、エージェントが大学の先輩で信頼できることもあり、渡豪してセミプロクラブに入団した。最初の試合で骨折してしまい、治療のために一時帰国するアクシデントもあった。それでも、楽しかった記憶しかないという。

 「大学の4年間は楽しいと思えなかった。試合に出られなかったのが一番大きく、もどかしい気持ちがずっとぬぐえなかった」。そんな悔しさを引きずっていたが、オーストラリアでの経験で、やっぱりサッカーが楽しいと感じ、サッカーだけに打ち込んでいきたいという思いが増した。

オーストラリアでプレーし「やっぱりサッカーが楽しいと感じた」と話す高畠選手=徳島市の徳島新聞社

 その後もオーストラリアでプレーを続けたい気持ちは大きかったものの、2020年に新型コロナウイルスの感染が拡大した影響で、リーグ戦が1年間中止になり、諦めざるを得なかった。同年3月に帰国して2カ月、サッカーができないストレスで、激太りしてしまったのだそう。当時は実家の近くにFC徳島の拠点があったことから、5月から練習に参加するように。6月に正式に入団した。

軽くアップする高畠選手(右)=吉野川市川島町のヨコタ上桜グラウンド

 21年には、さらなる飛躍を目指してJFLのMIOびわこ滋賀(現レイラック滋賀FC)に移籍。関西での合同セレクションに参加して目にとまった。「なかなか満足のいくシーズンではあった」と自身のプレーに手応えはあった。一方で、「チーム状況などからJリーグを目指すのは厳しい」と感じ、1年で滋賀を離れた。

 ただ、置かれた環境は厳しかった。JFLの他のチームの練習にいくつか参加し、話がまとまりそうなチームもあったものの、J3のチームから選手が流れてきたことで白紙に。所属先が決まらず、「サッカーはもう無理なのかもしれない」との考えも頭をよぎったという。そんな時、FC徳島の社外取締役が誘ってくれ、22年に再び契約を結べることになった。

全国社会人サッカー選手権大会四国予選の代表決定戦でプレーする高畠選手(中央)=23年7月、高知市の高知県立春野総合運動公園球技場

 サイドバックへのこだわりについて「プレースタイルは『これが自分』みたいなのはなくて、(監督の戦術に応じて)求められるなら変えていきたい。精神力やスプリントが武器だと思うので、そこは負けたくない」と熱く語る。「諦めたくないけど、折れそうになった」というJリーガーへの道。「やっぱりJリーグの試合を見ていると、その舞台に立たないとやめられんなと思い続けている」との情熱に突き動かされている。(2023年9月取材)


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