《美術人類史.Ⅷ》 創造の純度
森羅万象の連鎖関係を宇宙の均衡と想定するなら、無限に複雑なシステムに漠然と自然美を覚えますが、
これを見事な知能プログラムの様相でありながらも、凡ゆる無垢の構成で完結し合った領分の集積のみと、美術人類史の環境観として仮定すれば、完結な造形とは自然美であると共に終始単一の事象の概念だと論じ得ます。
反面人間の思考産物からは決して完結性を備える造形を創出できないとしています。
何故かは前項に寄りますが、要約すると上記の意味で生物や人間の存在も本来は無一ですが、
人類の思考を備えた時から凡ゆる完結事象に干渉を行い対象化し、観測と定義付けから事実と比較価値が生まれ、モノの存在を作り出す自然な能力意識を、私達が思考宇宙を精神に取り入れた代償による不完結性だとすれば、完結性に対して相対的なるからです。
(もし人類に完結性が備わるなら新旧観、生死観は要りませんし、何より人類で無くなる事も前項に挙げた通りです。)
しかしながら人類文化アートの方向性は、この自然美を追い求めるべく歴史を刻んでいます。しかも三大欲求の根底に勝るスピリットで不屈に挑んでいます。
あたかも人類が純粋に自然美も有する生物である故に、単一存在の強みへの憧れ、母性なる敬愛を持って、異次元である宇宙美の発見を求めながらも、美意識的には忘却した完結の楽園に近づこうとコンタクトするかの様です。
こうして「無機と有機=無垢と思考」との陰陽の間合を詰めよると言った、原点回帰の如く実直に芽生る好奇心が、生きる為の意欲と解明の原動力となり、希望や欲となって大きな価値を育んで、人類の造形の美の威厳、ステータスとなっている事は自明です。
ではさらに、今回はこのモチベーションの鍵となる「創造の純度」の重要性に触れたいと思います。
さて、私達の人生全ては認知上の事実から出来事が生まれます。個人の思考から誕生する有の意図を、夢幻でも無からの引き上げたビッグバンとでも捉えるなら、この宇宙に人類の数だけ別の思考宇宙が事実存在するとも言えます。
ただし自在な意図の形象化には、今のところ地球環境を通して自分と他人の認知が必要であり、一つの人工物は二つの思考宇宙が、この同次元宇宙の法則に則り接触し合うから生まれます。
この様に一つで在る様で、一つ溶け合わない二つの陰陽の唯一無二的の条件も、人工物の不完結性の定めであり、創造と破壊を繰り返す起因ですが、同時に魅力であり人類のたくましき足跡です。
(前回述べた文化現象は発信者と受信者が揃ってから現れる理由です。新たな人造思考体のAIであろうと、他の知的思考体でも同義です。)
特に環境や状況により神霊などエピソードを通じたマインド理解(宗教価値感)は、集団で生きる為から集団を司る支配層の団結ツールとして文明創造の根幹のテーマに最適です。
ゴッドイズム、シャーマニズムによる対象化はコミュニティに末広く理解され易いスタンダードな「美のカタチ」として顕著に現れ、天体、時空、圧力、気候、熱湿、鉱物、植物等々全ての学問の基礎ベースにもなる一方、
多勢の好奇心や高揚思考で加工する程、言わば難解な形象となり、例え素晴らしい芸術論理を生み出すと言った、人工物としてクオリティや内容色が深まりつつも、底上げされた常識化はピュアなポテンシャルの抑圧となると、文化は創造面の伸びから積み重ね方によって退廃傾向に移ります。
つまり各時代の栄華を誇る時は概ね退廃は始まっているのです。
これらを踏え美術人類史では、文化の創造と退廃の相対バランスの優劣を語る為では無く、平和も戦も隔て無く人類文明の存続性の意図を繰り返して観る為に、
人工産物の洗練過程の「自然の完結性に近い人工造形ほど高く、人の思考が加わる程下がる」と言うシンプルな反比例現象に対して「創造性の純度」と称し文化のパロメーターに据えた見方をします。
では次に肝心の「創造の純度」保持とは何事を示すかについては、
まず文化の伝播を水の流れに見立てた時、清んだ創造の純度は、流れの中で「信仰」に変換されるので、高い所から周囲へ濾過しながらゆっくり浸透するイメージが少なくとも理想です。
この貴重な源泉を当事者が意識できる様ならば神格化、預言的になり民を希望に導くポリシーとなります。
それを支える道具の工面、労力や工程からも、前述の学問素材を駆使するにあたり、造詣全てか天然物由来に近い時は、素朴でも単純に澄んだインパクトの造形となり存続します。
また結果として、私達の西暦でもたかだか2000年弱です。シュメール文化の物語では王は何万年も在位したと語られています。人類の生態環境が今と異なり本当に存命したのか、其れとも儀式的に何代も同名継承したのか、または神格化したのか、人で無いのか、時間論が違うのか、
何れにせよ長期文明だったと認めれるのは、シュメール文化伝播の源泉が、創造純度の高かいところからゆっくりと流せたのと、さらには源泉が禁苑にあって中々一般には見つけられない様なベール域(特権儀式)であったり、法律であったり、これらが存続価値観の工夫です。
これらの反転限度は、創造の純度が下がる要因でしょう。当然ですが個人においても思考がもつれる程に不毛の課題は利害となり生まれます。混乱は混乱で全てに可能性はありますが、文化でも人でも個性の保持には、創造の純度は油断を許さずすぐにも下降する性質からストイック性は求められます。
この観点から、引き続き様々な美術人類史を紐解きますので、次回は創造的退廃、退廃的創造の意味から今一度四万年前のラスコーの壁画を再考察してみたいと思います。
どうぞお楽しみに。
日本画家 戸倉英雄
※ 美術鑑賞ポイント。
例えば石器、青銅器、鉄器にしても、今現在に残る先人が残した造形物から、携わる人々の美の追求愛が概ね知れると、その各時代の環境の中で、創造純度のバランスを崩しても次の文明土台に移る文脈に溢れます。
そして再び別の場所で浮かび華咲く創造文化にも、前美意識のDNAの痕跡まで消せません。
残念ながら時代様式のバトンサイクル的理解に繋がる、数多の失敗作、駄作、破壊作など残らない過程作品には単に美術史では中々スポットは当てれません。
芸術を芸術の行動認識であったかは別論として、どんな各時代にも必ず素晴らしい作品は生まれますが、その鑑賞理解だけでは、一部作り手の尽力の結果論で中々脈絡は繋がらないところを、美術人類史では迫りたいと思います。
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