見出し画像

「今」に生きる生命のエネルギーを前に

短大生の時に写真の授業があり初めて一眼レフカメラを持った。
ファインダー越しに自分の見た世界をガシャリという音と共に切り取ることに夢中になった私は、夏休みなどの帰省時に父に頼んで閉村後の村に連れて行ってもらうようになった。
何度も書いているが、閉村した村が実際に水没するまでにとても長い時間があり、その間はいつでも訪れることができた。

ダム建設計画が実際に動き出した当時から閉村、そしてその後にいたるまでずっと、「最後に村の日々の風景を残したい」と初めて手にしたコンパクトカメラで生活を記録し発表していたおばあちゃんがいて、全国的にも取り上げられたり評価を受けたりされていた。カメラを持った18歳の私はそのおばあちゃんにも刺激されてはじめて意識的に、人に伝えるために客観性を持って故郷を見ようとしていた。私の心がとらえた「失った故郷」を撮ろう、と意気込んでいた。
が、未熟な私が、かつての村の姿を知らない人にもそのことを伝えきれるような風景はほとんど残っていなかった。

住民たちは補償金を受け取る条件として建物は壊して更地にするという約束があったので、私の集落にはかつての村の風景は一切残っておらず、生活の片鱗というと家の基礎コンクリート跡や石垣、井戸の跡などしかなく、そこにさえも植物が命を謳歌せんばかりに繁茂していて、人々の生活の気配はほとんど見つけられないほどだった。
コンクリートを割るように幼木が生えてきていたり、川向こうに行かないと採れなかったような山菜が家屋敷跡に生えていたり、小道にはとても分け入れないくらいの圧倒的な植物(と生き物たち)の密度だった。さらに諸工事のため地形が変わっている場所もあったので記憶を辿ることは困難な状況でもあった。

彼ら(あえて人間以外の命たちのことをこう呼ばせてもらう)には「今」しかない。過去を振り返ることや、未来を憂うことなど当然皆無で、今、自分の持っている命をどれだけ発揮することができるのかというポイントに全力を注いで生きている。目の前の風景はただただ、命の歓喜に満ち溢れてキラキラとしていた。
その光景は、私の感傷や罪悪感や被害者意識などという重たいものとは正反対だった。そうある重たい自分に激しく違和感を抱き、自分のちっぽけさをありありと見せつけられ、混乱した。
強い直射日光を浴びながら大量の汗をかき、セミの鳴き声の爆音の中ですっかり途方にくれたことを覚えている。

画像1

これを書いている「今」気づかされること

その時のことを細かく思い出しながら書いていると、その過去の時間の記憶、五感で感じた命たちの佇まいから、時空を超えて今、教えられることがある。
当時18歳の私はワナワナするだけでその混乱がどうして生じるのか言語化しきれていなかったが、今の私がやっと受け取れて言語化し、こうして理解できた。

私は「人間」の一人として長らく、村の他の生き物たちに対しての罪悪感に苛まれていたが、彼らは起ること全てを受け入れ、その時(「今」)にベストを尽くして生きる存在たちである。その視点から見ると、過去を振り返ってうじうじと感傷にひたって、罪悪感をまるでおもちゃのようにもてあそんでいる私のなんとおこがましいことか。

彼らに学んで、私もその感傷の世界にはもうさよならをして、淡々と粛々と「今」を受け入れ、「今」できるベストを尽くすことが全てなのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?