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うつ病だから見えたこと①

今回から3章に分けて、「うつ病だから見えたこと」について書いてみたいと思います。

うつ病は、本当に辛く苦しい病気です。しかし、その辛く苦しい長いトンネルをぬけると、以前とは全く違った新しい景色が見えてきます。

この第1章では、「自分は何のために生きているのか」と題して
①自分はなんのために生きているのか
②うつ病と宗教
③うつ病と慈悲について
④人を恨むこと
⑤生きてるだけで百点満点
⑥生きてるだけで百点満点②
の6項目について書いて行きたいと思います。

私は、自分がひきこもりの体験があるため、引きこもりの方を支援するお手伝いをしています。

そのため、文章が引きこもりの方達に語りかける口調になっています。

それをご了承ください。

それでは、どうか最後までお付き合いをよろしくお願いいたします。

第1章 自分は何のために生きているのか

①自分は何のために生きているのか


「自分は何のために生きているのか?」どなたでもふと、そんな事を考える時があるかと思います。


私は、現在56歳の男性ですが33歳の時に「うつ病」を発症し今も心療内科のお世話になっています。


抗うつ剤こそ服用していませんが、現在を睡眠導入剤は欠かせません。
医学的には「完治」ではなく「寛解」状態なんだそうです。
そんな私ですが四六時中「何のために生きているのか?」を考えいる訳ではありません。


そんな事を考えていては逆に生きて行けないのではないかと思います。
物事が順調に進んでいる時には何の考えず惰性で生きていけるのですが、壁にぶつかった時、何かに不安を感じている時に「あぁ俺って何で生まれきたんだろう?」とため息混じりに考えてしまいます。


「うつ病」の為に何回か入退院を繰り返しました。最初の入院は1年にも及びました。


入院当初は読書などできる状態ではありませんでしたが8ヶ月程経った頃から少しづつ本を読み始める事ができるようになりました。


元々読書は好きだったのですが読むジャンルは歴史小説か経済小説でした。吉村英治さんの「宮本武蔵」や清水一行氏の作品が好きでした。
主人公が己の力で成り上がって行くようなストーリーを痛快に感じて、自分もいつかは金持ちがなりたいと思っていたのです。


そんな自分が始めて精神世界の本に触れたのがこの時でした。
飯田史彦氏の「生きがいの創造」ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」に出会ったのです。


「前世」「生まれ変わり」「魂」「神」について生まれて初めて考えました。最初から全てを信じられた訳ではありませんでした。


例えば「生きがいの創造」には幼い子供が自分の前世を語り始める事や、退行催眠により前世を思い出した人の例が書かれていました。


しかし、別の本「すべての存在へ」では母娘が退行催眠により全く同じ前世を語り出したことが書かれていました。


「別の人間が同じ前世を持つなんてありえるのか?それが事実なら前世の記憶とは単に脳内の潜在意識の記憶に過ぎないのではないか?」とも思いました。


今では「魂」とは非物質エネルギー体なのだから、一つの「魂」が二つに分かれて生まれ変わりをすれば、二人の人間が同じ前世なんて持っていても論理的に矛盾はないと考えています。


②「うつ病」と宗教


うつ病」と宗教なんて、大それたタイトルをつけてみましたが、そんなに難しい話しはできません。


宗教のことを勉強した訳でもないので、あくまでも自分の偏見ですが、「うつ病」に合う宗教は仏教のなのではないかと思っています。


キリスト教の「汝の隣人を愛せ」とか「汝の敵を愛せ」と言われても「うつ状態」では人を愛するどころではありません。(キリスト教信者の方ごめんなさい)


私は、仏教の禅が「うつ病」には良いのでは?と感じているのです。


「うつ病」の時は、ああなったらどうしょう、とか、こうなったら困るとか雑念と、言うかマイナス思考でいっぱいになります。


そんな時に、禅の「念を継がない」と、言う教えが良いと思うのです。


ああなったらどうしょう、と思ってしまうのは仕方ないことだと思います。
「念を継がない」とは、ああなったらどうしょうと思った時に、そこでストップをかけることです。


次々にマイナス思考が、押し寄せて来るのを一番初めの段階で止めるのです。


思ってしまったことは取り消せないので、それ以降を止めると言うことです。
もちろん、簡単なことでは、ありません。しかし、不可能ではないと思うのです。


ほんの一瞬でも良いので思考をストップさせる練習をしていると、次第にマイナス思考の連鎖から逃れられるようになってきます。


私自身も完全に出来ている訳ではありません。まだまだ、修行中と言うか練習中です。


しかし、以前に比べれば大分上達したと思っています。


昔は、仏教なんて大嫌いでした。何か陰気臭い感じがして・・・。


「人生は苦である」なんて究極のマイナス思考だと思っていましたし、何よりもお坊さんが嫌いでした。


普段は何もしてくれないのに、葬式になるとノコノコやって来て、多額のお布施を取って行く・・・。


本当に坊主丸儲けです。でも、今は仏教こそが生きるための宗教だと思っています。


より良く生きる手段を教えてくれるのが仏教だと思っているのです。

仏教自体は好きですが、お寺は相変わらず性に合いません。
お寺が性に合わないと言うか今の檀家制度に疑問があるのです。


詳しくは、書きませんが、とにかく「うつ病」には考えないことこそが薬だと思います。


「抗うつ剤」も、考えなくさせることが目的だと思います。


自分の経験からも「抗うつ剤」を飲んでいた時期には思考能力がありませんでした。これは、経験から確かなことです。


「心の病」を患っている方は、試しにやってみてください。きっと効果があると思いますよ。


③「うつ病」と慈悲について


仏教の言葉に、慈悲があります。
辞書によると、「情け・憐れ 仏・菩薩が衆生を憐れみ、苦を除き楽を与えようとする心」と書いてありました。


慈悲を「慈」と「悲」の二つに分けると、「慈」とは頑張れと励ますこと」、「悲」とは「慰めること」となると思います。


苦しんでいる人の苦しみの半分でも自分が背負いたい、苦しみを軽してあげたい。


それでもそれが出来ない自分の無力さに「ああ」と大きなため息をつく。
手の上に手を重ね涙を流すこと、これが「悲の心」だ言うそうです。


どちらかと言うと「悲」は母親の感情、「慈」は父親の感情だと思われます。


子供が、何らかの犯罪を、犯し服役する時に「お前の罪は俺の罪だ、一緒に一生をかけて償っていこう」と慰める父親が「慈の心」で。


それに対し、母親は、何も言わずただ、子供の手を握りしめてひたすら涙を流す。これが、「悲」だと思われます。


「うつ病」や他の「心の病」を抱える方達には、この慈悲の、どちらが必要なのでしょうか?


もちろん、両方必要なのかも知れません。


しかし、私の経験上、「うつ状態」の酷い時期に「一緒に頑張ろう」などと言われても「もう自分は十分頑張ったんだ!これ以上どう頑張れと言うのか?」と励ましの言葉を苦痛に感じたことが、多々あります。


また、頑張れ!頑張れ!と言われて、頑張れない自分に絶望して自殺をしてしまった方も知っています。


やはり、「心の病」の重症期には、何も言わずに一緒に泣いてくれる「悲の心」のほうかが合っているのではないでしょうか?


そして、いくらかでも、回復して来た時には父親役「慈の心」の出番だと思うのです。


励まして、寄り添ってくれる存在。一生、一緒に居てくれる存在が必要なのだと思うのです。


結局、「心の病」には「慈悲」の心が必要だと、ただし、その必要とされる時期が違うのだと言うのが私なりの結論でした。


④人を恨むこと


私は、パワハラのせいでうつ病になったため、私をパワハラした先輩職員に対して、ずっと恨みを持っていました。


具体的に、その人の家に放火してやろうとか、その人の子供を殺してやろうとかいったことを真剣に考えていた時期がありました。


パワハラした本人を殺してやりたいとは思いませんでした。


何故なら、死ねば相手を楽にしてやることになると思っていたからです。


その頃は、よく夢にその人が出てきました。


毎度のパターンなのですが、その人が私に対して「お前は俺が嫌いだろう、殴れるものなら殴ってみろ」と挑発してくるのです。


私は、もちろん、思いっきり殴り倒してやりたいのですが、これも毎回同じパターンで、腕が動かないのです。


まるで、金縛りにあったように体が動かないのです。もちろん夢の中話しです。


しかし、ある時に夢の中で殴ることができたのです。
その時も、途中までは何時ものパターンでした。


ところが、こちらが殴り倒してやろうと思った瞬間、左手が動き、相手を殴ることができたのです。


繰り返しますが、あくまでも夢の中話しですよ。


その時は、実際の自分の左手も動いていて、隣に寝ていた長男の顔を殴ってしまいました。


この殴打事件?があってから、私の心の中から、恨みが少しづつ減って行った気がします。


何故なのか、私にはその理由は分かりません。心療内科の医師に尋ねてみたら、何らかの答えが、得られたかもしれませんが・・・。


病気にしろ、引きこもりにしろ、何かしらの原因があるからこそそうなるのだと思っています。


その原因は、本当は自分の中にあるのだと思います。
しかし、苦しんでいる最中に、原因は自分にあるなどと考えることは不可能でしょう。少なくとも私の場合はそうでした。


すると、当然、恨みの対象は自分以外の他人になります。恨みのエネルギーが、自分から他人に向けられるのです。


結果、どうなるか?「人を呪わば穴二つ」とよく言われます。
人を恨むエネルギーは相当に強く、他人を呪い殺すことも実際に可能なのです。


しかし、困ったことに、この恨みのエネルギーは自分に帰って来てしまうのです。


ですから、人を呪うならば、相手の墓穴と自分の墓穴の二つ用意しておきなさい。と言うことなのですね。


恨みは、捨てるのが一番です。最高なのは、自分を苦しめた相手を許すことです。


私は、相手を許すために、どうしたら良いか色々な本を読んで見ました。
どの本の理屈は分かります。が、とても実践はできそうもないものばかりでした。


では、恨みを捨てるには、どうしたら良いいのでしょうか?
早い話しは、「全ての原因は自分にある」と気づくことです。


⑤生きてるだけで百点満点


最近、よく思うことがあります。人間は、生きてるだけで百点満点じゃないかと。


だから、うつ病だって、引きこもりだって、自分を卑下する必要は全然ないんと思うんです。


もちろん、うつ病や引きこもりで、家族や他人に迷惑をかけることはあると思います。


でも、迷惑をかけることと、人生を減点されることとは別問題。
どんなに、迷惑をかけても、生きてるだけで百点満点なんだと思います。


もしも、人生が減点されることがあるとすれば、それは、自分自身を生きていない場合だと思うんです

うつ病になったら、うつ病である自分を受け入れて生きる。
引きこもりになったら、引きこもりの自分を受け入れて、堂々と引きこもりの人生を生きれば良いと思います。


ただ、自分は、うつ病のままじゃ嫌だ。引きこもりのままじゃ嫌だ。と、少しでも思ったら、そこから抜け出す努力は必要だとは思うんです。


抜け出したいけど、「きっかけ」がないって、よく聞くけど、「きっかけ」って与えられる物じゃなくて自分で作るものだと思います。


まず、なんのために病気を治したいのか、引きこもりから脱出したいのかを明確にしたら良いと思います。


それさえできれば、後はそれに向かって一歩を踏み出すだけ!
と言っても、その一歩踏み出すのが大変なんだってことは、体験者として良く分かってるつもりです。


それでも敢えて言わせてもらいます、一歩踏み出すだけって。
一歩踏み出せば、あとは慣性の法則で、二歩目、三歩目がでるもんだと思っています。


その一歩を踏み出すか、踏み出さないかによって、人生は180度変わると信じています。


別に、無理やり一歩を踏み出せって言ってるんじやないんです。
人生を変えたいって意思がある人だけが、一歩踏み出すだせばいい話しで、今のままで良いよって人は、一生、うつ病でいたり、引きこもりでいることも、全然OKなんだと思っています。


私の場合は、一生うつ病じゃあ嫌だと思ったから、断薬したり、引きこもり脱出のために夜の駅の改札口辺りをウロウロして、人に慣れる練習をしてみた訳です。


人は千差万別だから、こうすれば絶対にうつ病が治るとか、引きこもりから脱出できるなんて、万能の方法なんてないと思います。


でも、最大公約数と言うか、多方の人はこうすれば良くなるって方法はあるのかもしれませんね。

勘違いしないで欲しいのは、医者が病気や引きこもりを治してくれるじゃないってことです。


ここのところが大事ですからね。医者と薬は補助的に使うもの。
治すのはあくまでも自分自身なんだと思っています。


繰り返しますけど、私の言ってることの全てが正解ってことじゃないですから。自分が感じたことが正解。私はそう思っています。


⑥生きてるだけで百点満点②


生きてるだけで百点満点だって思う理由のもう一つの話しをします。
私の元上司一人と、先輩二人の合わせて三人が、自殺してしまったんですよね。三人とも、とっても良い人だったんですが・・・。


逆に良い人過ぎて、背負わなくてもいい物まで背負っちゃったんですね。
私自身、自殺未遂してるから、偉そうなことは言えないんですが・・・。


これを読んでくれている人達には、絶対に自殺はして欲しくありません。
どんなに苦しくても、生きてるだけで百点満点なんですから。


自殺するってことは、自分で自分に与えた問題集を自分で捨てること。
今回の人生では、この問題をクリアしょうとして生まれてきたのに、投げ出しちゃったってことだと思うんです。


だから、次に生まれ変わっても、同じ問題集を解くことになる。
もしくは、もつと難しい問題集を持たされることになるかもしれないですね。


今回の人生での問題集、私の場合はうつ病だと思います。
うつ病を、どう治すか?または、うつ病とどう付き合って生きるか?が、私に与えられた課題だと思っています。


問題集は人それぞれだし、自分に解けない問題集は、絶対に持ってこないような仕組みになっているようですから途中で投げ出さないことが肝心。


全問解けないうちに、寿命が尽きるってこともないらしい。
逆に、問題集が解けない間は、生き続けなければならない。


うつ病なら、うつ病を克服するかうつ病と友達になる。
引きこもりなら、引きこもりから脱出するか、いっそのこと引きこもりの達人になる。


「引きこもりの達人になる方法」なんて本を出したら、ベストセラーになるんじゃないかな?


いずれにしても、生ききることが人生で一番大事なこと!
それ以外は、枝葉末節なんだと思うんです。仕事で成功するとか、金持ちになるかなんてどうでも良いことだと思います。


この世が、学びの場で、各自が問題集を持って生まれてくるとしたら、身体的なハンデや精神疾患を、持っている人達は、きっと、高度に難解な問題集を持って来ているんだと思います。


繰り返すけど、どんなに高度で難解な問題集でも、自分に解けない問題集は持って来てはいないと云うことです。


この世は、魂的に幼稚園児から大学院生までがごちゃごちゃになって生きてる世界。


だから、余計に生きづらいんですよね。ちゃんとクラス分けされてば良いんだけど、そういうわけにはいかないみたいなんです。

いかがだったでしょうか。これで第1章は閉じたいと思います。何か参考になることがひとつでもあったなら幸いです。

引き続き第2章以降もお読みいただければと思います。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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