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クドリャフカの順番における名作論について考察

・クドリャフカの順番においてまやかが名作論について語っていたのでそれについての自分の意見を書いてみようと思う。どういう問題かというと「名作は主観に過ぎないのか?」という問題だ。

・名作は主観に過ぎないというのが摩耶花の部活の先輩である河内先輩の立場で名作は厳然と存在するという立場が摩耶花の立場である。作中ではサブ的要素ではあるけどこの2つの立場で論争が繰り広げられる。

・繰り広げられると言ってもそこまで掘り下げられた感はない。作中に出てくる『夕べには骸に』という作品のすごさを演出する目的で議論が提示されているだけで真剣に議論している感じではない。名作なんてない派閥の河内先輩にその作品を認めさせることでよりその作品の凄さがより際立つという作者の演出的意図のもと議論を提示しているという感じである。

・ただこの問題って個人的には河内先輩側の立場が正しいような気がする。つまり万人が認める名作なんて存在しないのではないかという話だ。ちなみにここで言っている名作は「誰もが受容し良いと思える作品」という定義である。

・名作が存在しないと思う理由としては実際に名作ってどんなに有名作でも賛否があるからだ。教科書に載ってる文学だとしても現状だとほとんど読まれていないし、実際にしっかり理解しつつ読んだとしてもつまらないと思う人は結構いるだろう。漫画や映画にしても同じでどんな人気作でもどうしても否定的な意見は存在してしまうし、時代によっても需要のされ方は変わってくる。

・それに時代によって倫理感覚も大幅に変わってくるわけだから、数千年規模でいえばほとんどの作品は倫理的に受容しきれなくなるんじゃないかと思う。

・なので名作を成立させる場合は結局定義次第なのではないかと思う。「ある一定の期間名作として通用する作品」かつ「ある程度の規模の人間が受容できる作品」を名作として定義するのであれば確かに名作は存在すると思うがこの「ある一定の期間」と「ある程度の規模」という条件をどの範囲に設定するかという点で名作が存在するかが変わってくると思う。

・範囲次第で変わってしまうのでボーダーを設定すればどんな作品だって名作になり得てしまうのかもしれない。さらに言えば「ある程度の規模」をどういう種類のグループに設定するか(文学好き・映画好き・アニメ好き・創作物あまり見ない人で好みが違ったりする)で相当変わってきたりするという問題もありなかなか難しい問題な気もする。

・なんか面倒な議論になってきたのでここで終わりたいと思う。ところどころ自分の書いた文章に矛盾点もある気がするけど雑然と書いているので許してください……(書きながら考えてて途中からよくわからなくなってきた)

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