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品田遊(ダ・ヴィンチ恐山)『正蔵』と芥川龍之介『手巾』の似ている点について語る

品田遊(ダ・ヴィンチ恐山)さんが執筆した『キリンに雷が落ちてどうする』という本を読んでいてふと芥川龍之介の作品に似た点があるなと思ったので、今回はその発見について書いていきたいと思う。

『キリンに雷が落ちてどうする』という本はエッセイ集であり、品田さんが毎日書いているnote記事を少し編集を加えてまとめたものとなっている。今回取り上げるのはこの中に入っている『正蔵』(p104)という話で、これが芥川龍之介の小説『手巾』と似ているという発見を書く。

まず『正蔵』の内容について話そうと思う。この話はタイトル通り林家正蔵が出てくる話で、林家正蔵がバラエティでリアクションを取る際に笑うタイミングでもないのになぜか突然意味不明なタイミングで笑ったらしく、その理由ついて品田さんが考察を加えた内容となっている。

品田さん曰く、林家正蔵が笑った瞬間はゾッとしたらしい。その理由として以下の文を引用するのがわかりやすいと思う。

怖い。ぞっとした。おそらくは「へぇー」「ははぁ」などの興味関心を示す相槌を出力しようとしてミスしたか、どこかのタイミングで笑い声をあげて番組の雰囲気を盛り上げようとしていたのが意図せず暴発したのだと思うが、このミスによって、正蔵の中に広がっている光の届かない穴みたいなものを覗き込んでしまった感じがした。

品田遊『キリンに雷が落ちてどうする』p104より引用

結局、人がコミュニケーションをとっているとき、それぞれの人が向き合っているのは現実ではなく、その状況から想定される舞台のような空間であり、読み上げているのは数行先まで書かれた台本だったりしないか。実際は現実を参照しながら台本を都度書き直しているとしても、我々のコミュニケーションは相互連関する「アドリブ」なのではないだろうか。

品田遊『キリンに雷が落ちてどうする』p105より引用

現実のコミュニケーションが演技であるという洞察は非常に面白い。言われてみると確かにそういう要素はあるというか、どんなに感情豊かに話している人でも内心は冷めていて、外部の問いかけから機械的にそれらしいコミュニケーションを引き出しているに過ぎない場合はある。正蔵に限らず、コミュニケーションには少なからずそういう要素があると思う。

対して芥川龍之介の『手巾』は大学教授の長谷川先生の元に西川婦人が訪ねて来てその婦人の振る舞いを見て長谷川先生が洞察を加える内容となっている。

西川婦人というのは先生の教え子の母で、息子が病気で亡くなってしまったのでそのあいさつのため先生のもとにくる。その際、先生は息子が亡くなったにしては母親の反応が薄いため違和感を感じる。というのも長谷川先生はドイツに留学していた時分にちょうどヴィルヘルム1世が崩御し、泣いて嘆き悲しむ国民をみていたため、それと比較すると西川婦人の反応がどうにも淡白に思えてしまったわけである。

しかし、夫人のある動作を見てその認識は変わる。会話の最中に落としたセンスを拾うため床の方に目を落とした時にある発見をするのである。その発見を描いた部分が以下の一節だ。

その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持った手が、のっている。勿論これだけでは、発見でもなんでもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、震えているのに気がついた。ふるえながら、それが感情の激動を強いて抑えようとするせいか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりに緊く、握っているのに気がついた。

~中略~

――婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。

ちくま文庫『芥川龍之介全集1』p170より引用

つまり息子の死に対する反応が淡白だったわけではなく、単に文化により感情の表出方法が違うだけで、婦人の動作の機微に感情が現れていたという話である。先生はこの婦人の繊細で美しい感情表出に心打たれる。

ただ話がここで終わらないのが芥川龍之介の面白いところである。婦人の来訪があった日の夜、長谷川先生はその婦人の動作の日本文化的な美しさを自身の奥さんに話す。そしてその後、部屋でその来訪の回想に耽っていると、とある本のある一説に目が留まってしまい、ある発見をしてしまう。それが以下だ。

―私の若い時分、人はハイベルク夫人の、多分巴里から出たものらしい、手巾のことを話した。それは、顔は微笑していながら、手は手巾を二つに裂くと云う、二重の演技であった。それを我等は今、臭味(メッヘン)と名づける
。…………

~中略~

先生の心にあるものは、もうあの婦人ではない。そうかと云って、奥さんでもなければ日本の文明でもない。それらの平穏な調和を破ろうとする、得体のしれない何物かである。

ちくま文庫『芥川龍之介全集1』p172~173より引用

このように先生は明らかに何か不穏な発見をして、この雰囲気のまま物語が終わる。ここについての先生の発見は明確に説明されないが、自分の解釈としては品田さんの『正蔵』における洞察と似たようなことを発見したのではないかと思っている。

その解釈に至った理由がこの小説の序盤の方に書かれている以下の一節である。ここにおいてはストリントベルクの『作劇術(ドラマトゥルギイ)』の文が載せられている。

――俳優が最も普通なる感情に対して、ある一つの恰好な表現法を発見し、この方法によって成功を勝ち得る時、彼は時宜に適すると適さざるとを問わず、一面にはそれが楽である所から、また一面には、それによって成功する所から、動(やや)もすればこの手段に赴かんとする。しかしそれが即ち型(マニイル)なのである。……

ちくま文庫『芥川龍之介全集1』p162より引用

つまり西川婦人の繊細な動作自体もまた、ストリントベルクの『作劇術』において示されるような、型(パターン)でしかないという話である。

p173に「ストリントベルクの指弾した演出法と、実践道徳上の問題とは、もちろん違う」というような文もあるが、これは実践道徳の場合はパターンにすぎないにせよ感情が伴うので、単純に一緒というわけではないと言っていると解釈した。

ただ感情が伴っているにせよ、その美しいと思っていた感情の表出方法が所属している文化で育つことにより醸成されたパターンであることの否めなさは残る。どんなに感情豊かな表現でも、どんなに繊細に見える表現でも、所詮それはパターンである。実際に悲しんでいる感情自体は存在するが、その表出方法自体は機械的に出されているだけなのかもしれない。それが芥川がこの『手巾』という小説によって暗示しようとしたことなのではないかと思う。

即ちこれは品田さんの『正蔵』に似ている。『正蔵』においてもまたコミュニケーションがある種のパターンであるという洞察が含まれている。時代を超えて似たような発見がなされるのは面白いことだと思う。

個人的に芥川龍之介と品田遊さんは似ている部分があると思う。表現方法に違いはあれど着目するポイントが似ている。芥川は厭世的で品田さんはどちらかというと楽観的という風に本人の性質自体は全然違うと思うが、どういった視点で人間を見ているかという点は似ていて面白い。芥川の短編も品田さんのエッセイ集も面白いので片方が好きな人はもう片方も読んでみることをオススメする。

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