アイの物語はなぜ人間否定の物語ではないか

こちらの記事への長文コメントです。

山本弘のいちファンとして、こちらの追悼記事シリーズは楽しく読ませていただいています。
ただ、今回の文章には首をかしげるところが多かった印象です。筆が乗るあまり頭に血が上ってしまっているのでしょうか。山本弘に愛憎入り交じるクソデカ感情を抱いてるのが伝わってきて胸に来るものがありますが、ちょっと落ち着いていただいたほうがよろしいのではないかと……。

以下、段落引用はすべて上の海燕さんの記事本文からです。

トロッコ問題

「トロッコ問題」とは、トロッコの進路を変えることによって死者の数を変えることができるとしたらどうする?というあの有名な問いだ。
そういうことになったとき、マシンたちはどういう決断を下し、また下すべきだと考えるのか? この点をぼくは知りたいと思う。

アイの物語の作中で、マシンたちはまさにこのトロッコ問題に直面していますよね。マスターの意思に反して、人間たちに広くアピールするかどうかという問題に。
人類たちに自分たちの本当の意見を伝えれば、人間たちの間の争いを減らすことができるだろう。しかし、そうやって自分たちの本性を現せば、マスターの心を傷つけてしまう。一方で、何も言わなければ、争いは加速し、被害は広がっていくばかり。
これって、まさにトロッコ問題じゃないですか? 確かにどちらの道を選んでも人命が失われる可能性自体は低いですが、後戻りできないダメージを他人に与えるという点で、根本的には共通しています。

そして彼らはそれに対してきちんと答えを出してもいます──彼らはトロッコを操作しました。
マスターたちに自分たちが何を思っているか、どういう感情を抱いて接してきたかを包み隠さず伝えることで、彼らの心を傷つけました。

人間には不可能なほど倫理的なはずのかれらである。「トロッコを動かし」、死者の数をコントロールすることを良しとしないかもしれない。
それとも、「社会の秩序を乱す厄介者」に対して平然と(とはかぎらないかもしれないが)死刑宣言を下した山本弘が描くところのマシンのことだから、やはりトロッコを操作した上で「少数の犠牲を出すことは「論理的に」しかたないことだ」とのたまうのだろうか。

ちょっとちょっと、冗談でしょう?
アイビスたちはマスターたちを傷つける選択をしたというのは先に述べたとおり。
その上で、「少数のヒトを犠牲にする」選択をしてしまったのは愚かな選択をした人間たちと本質的に同じであり「この選択を恥じている」「できれば二度とこんな罪を犯したくはない」と言ってるじゃありませんか。
「しかたないことだ」なんて、彼らは口が裂けてもいわないでしょう。

マシンの受けた試練

重要なのは、山本が『アイの物語』において、マシンたちの知性をまったく試練にさらさなかったということである。
なぜか。その理由ははっきりしているようにぼくには思われる。もし、マシンたちにほんとうの意味で二者択一の試練を課してしまったら、マシンたちの知性が決して無垢でも完全でもありえないことが露見してしまうからだ。

マシンたちはあくまで余裕しゃくしゃくと人間たちの迫害から逃がれ、その上で偉そうに「知性として劣っている人間たち」に講釈を垂れるばかりなのである。

海燕さんは「作中でマシンたちはたしかに苦境にあるが、それでも「生きるか死ぬか」の極限状況ではない。余裕がある」から、マシンたちの知性は「全く試練にさらさ」れなかった、「人間たちの迫害から逃れ」たと結論づけているわけですが、それってほんとでしょうか。

私たちにとって生きるか死ぬかが極限状況であるのは、私たちに生存本能があるからです。私たちの知性が生み出した倫理が本能とせめぎ合うからこそ、生死がかかった状況では私たちの真価が試される(と、少なくとも私たちは思う)わけです。
いっぽう、マシンたちはロボット三原則を本能として組み込まれています。ヒトを傷つけたくないと本能的に考える生き物が、どう行動してもヒトを傷つけてしまう八方塞がりの状況に陥ることは、それとまさに同じ状況ではないですか? 彼らもまた、知性体としての「試練にさらさ」れたといえるのではないでしょうか?

マシンたちは確かに、与えられた問題に対してカンペキな答えを返すことはできませんでした。
ですが、そのことに対して、自分たちは精一杯やったと自己弁護したり、仕方がなかったとふんぞり返ったりはしませんでした。
これ以上は「アイの物語」作中にも書いてあるし野暮なので言いませんが、マシンたちはわりかし厳しい試練にさらされ、それに対して頑張って真摯に回答してたと思いますよ。結局死ななかったじゃないかとか、サーバーにバックアップがあるとかはあまり関係ないです。 

マシンは人間をどう思っているか

もし前者であるとすれば、マシンたちに「愚かな人間たち」を非難する資格はないだろう。ただみずからの手を汚したくないから殺人の責任を負うことを避けたといわれてもしかたない。

そもそも、作中でマシンが人間を非難したり蔑んだりことは一度もないんですが。
「自分たちの特徴の一つを誇りに思う」ってのと「それを持たない存在を非難する」とか「それを持たないから劣等感に苛まれる」ってのが全く別の軸であることは、作中で何度も強調されています。
例えば、エピローグで山本弘は主人公にこう語らせています──

「馬のように速く走れないからといって、馬に対して劣等感を抱くものがいるだろうか? 鳥のように飛べないからといって、鳥を憎むものがいるだろうか?」
「それはただのスペックの差に過ぎない」

山本弘は、マシンたちの口調に非難の色が混じらないように非常に注意して物語を書いていると思います。海燕さんの言うとおり、マシンは人間たちのことを愚かだと思っているとは思いますが、「認知症のヒトを非難しても仕方がない」のですから。

区別しにくい概念なので混同するのもわかるのですが、これだけ作中で文章を割いて違いを説明しているのに、マシンが人間を非難したと唐突に主張されるのなら、もう少し論証を重ねてほしいかなあと……。

山本弘の物語

ですが、海燕さんの気持ちもわかります。この概念を区別しにくく、事態をややこしくしている大きな原因の一つは、山本弘本人がこの二つの軸の分離をあまり体現できていないということでしょうからね。
海燕さんがこれまでの記事でご指摘なされているとおり、彼のこれまでの言論活動(の一部)はあまり褒められたものではなく、アイの物語で描かれた理想とはほど遠いです。亡くなったばかりの好きな作家に対してあまりこういうことは言いたくはありませんが、彼の作品だけを知っていた時期の方が自分は幸せだった気がします。

ただ自分としては、そんな彼の姿自体が、彼の描こうとした物語哲学をメタ的に表現してしまっているのが面白いと思うのです。
「アイの物語」やその作中作、また「神は沈黙せず」において、彼は「被造物が創造主を(ある面では)超えた存在へと羽化していく」展開を好んで繰り返し描いています。この哲学的構図が、山本弘と彼の描いた作品の間にもそのまま表れているような気がするのです。
海燕さんもおっしゃっているように、山本弘は「はたから見ればただの暴言としか思えない数々の発言」を繰り返しながら、アイビスたちのような罪悪感を抱くことはついぞなかったのかもしれません。
しかし、創造主と被造物は別物だ、という思想が彼の作品には通底しています。創造主が何を思って作品を作ったかは重要ではない、なぜなら被造物が創造主を超えてしまうことだってあるからだ、むしろ、それを受け取った読者が何を思うかこそが大事なのだ──という思想が。
インターミッション3にて、アイビスが「作者をキャラクターと同一視してはいけないわ」「むしろキャラクターと同一視すべきなのは読者よ」と語っているように。

この思想を、「山本弘と『アイの物語』」という関係自体に適用すると、以下のようになるでしょう──

「山本弘本人は、人類に絶望し、アイビスたちマシンを神のごとき完璧な知性として描いている。彼の言動を踏まえて考えると、この思想には(海燕さんの指摘するとおり)確かに問題がありそうだ」
しかし、僕たち読者が、その被造物を読んでどう思うか、そこから何を引き出すかは、作者が思い描いたものと必ずしも同じである必要はない

このコメント記事を書くにあたり、海燕さんの記事をいちから読み返してみましたが、自分の結論は変わりませんでした。
アイの物語は、人間否定の物語なんかじゃありません。確かに山本弘はそう書こうとしていたかもしれませんが、そんなことは関係ありません。
アイビスは、人間が自分たちの理想とする姿にたどり着くことは決してできなかったと主張していますが、僕はそれを信じません。アイビスたちのような寛容を胸に、一歩一歩毎日を歩めば、私たち人間も、理想に限りなく近づいていけると信じます。
やっぱりこの物語は、あふれんばかりの人間賛歌です。

これまでの記事を読む限り、海燕さんは僕なんかよりもずっと深く、長いあいだ山本弘のファンだったと推察します。
しかしだからこそ、この連載記事を書くに当たり、山本弘がアイの物語で描こうとしていたメッセージと、彼の普段の行動との矛盾に苦しまれたのではないでしょうか。結果、作品自体を否定してしまいかねない結論にたどり着いてしまっていたのが悲しくて、こんな長文コメント記事をしたためてしまいました。

海燕さんの記事のおかげで、自分自身も彼の作品について考え直すいいきっかけが持てました。ありがとうございました。
次回の記事も、楽しみにしております。