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翻訳の楽しさと難しさを知った本/『時をさまようタック』/文:松波佐知子

 『時をさまようタック』は私の最初の翻訳書です、と言うと語弊がありますが、翻訳を学び始めた頃に、『海辺の王国』等の訳者である恩師の坂崎麻子先生から、好きな原書を丸々一冊訳して、翻訳された本と自分の訳を比較する練習を勧められて選んだ本でした。

 日々に退屈していた少女ウィニーが、泉の水を飲んだために不老不死となった一家との交流を通じて、自分自身や死生観と向き合い、成長する姿を丁寧に描いた良作です。

 ナタリー・バビットを知ったきっかけは、坂崎先生の翻訳クラスで課題に出された短編集『悪魔の物語』でした。ユーモラスで人間味(?)あふれる悪魔をめぐるウィットに富んだ物語と、作者自身による洒落た線画の挿絵が気に入り、すぐにバビットの原書を何冊か取り寄せました。

 そのうちの1冊『時をさまようタック(原題 Tuck Everlasting)』の冒頭の文章に目を走らせた瞬間、“8月の1週目”をこんなにも美しく表現できるなんて! と、驚きと感動で胸がいっぱいになりました。同時に、どうしたらこの文章の持つエネルギーを余すところなく日本語で伝えられるだろう、とすごくわくわくしたのです。

 そこで、この本を翻訳の練習に選んだのですが、切なさと温かさと奇妙さが混ざり合った独特の雰囲気や、はっとするような美しい情景描写を訳し出すのは至難の業で、試訳をしては、小野和子さんの翻訳と照らし合わせ、また訳を絞り出すという勉強を2カ月ほど続けました。翻訳の勉強で1冊の本とこれほど深く向き合ったのは初めてだったので、最後の文を訳し終えた時には達成感と共に寂しささえ覚えたものです。

 今回、約25年ぶりにこの本を開きました。冒頭の文章の美しさはやはり唯一無二! 懐かしく思いながら読み進めるうちに、以前とは少し違う視点を持って物語に没入している自分に気づきました。 

 バビットは元々イラストレーター志望だったこともあり、視覚に訴える情景描写が素晴らしいのですが、久しぶりに読んでみると、光や自然の繊細な表現のみずみずしさはもちろん、空を突き破る雷の音や、静けさ、清らかな草の匂い、夏の空気感、余韻などの視覚以外の感覚描写も一層リアルに感じられたのです。

 もしかしたらそれは十数年前から続けている写真の影響で、私自身の感性が多少高まったせいかもしれません。写真を撮るときは目だけで捉えていると思われがちですが、実はあらゆる感覚を総動員して被写体を観察し、その瞬間の全てをひっくるめて1枚に収めています。そのようにして撮った写真は、何年か後に見てもその瞬間の音や匂いが蘇るものです。バビットも頭の中で物語の場面を映画のように展開させながら、自分がその中にいるような感覚を持って執筆していたのかもしれません。

 自分の経験や成長を経て、また新たな視点でこの本の素晴らしさに気づけたことがとても嬉しかったです。でもそれは含蓄のある作品だからこそ。10年後に読む時にはどんな発見があるだろう…その時を楽しみに待ちたいと思います。

『時をさまようタック』
ナタリー・バビット 作
小野和子 訳
初版 1989年
評論社 刊

(徳間書店児童書編集部機関紙「子どもの本だより」
 2023年3月/4月号より)

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