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第一回 水脈 伊岡瞬

1

 その朝、母親と小学五年生の娘は、神田川沿いの遊歩道を歩いていた。
 車通りの騒音も聞こえてこない、静かな住宅街だ。
 時刻は午前六時を少しまわったところだが、すでに真夏の日は昇って、じりじりと肌を焼き始めている。
 母親は日傘にサンバイザー、アームカバーと日焼け対策を講じてきたが、娘はつばのある帽子をかぶっただけで、紫外線など気にするようすもなく歩き回っている。
 夏休み時期ではあるし、行きかう人といえば、派手なジョギングウエアに身を包んだランナーぐらいだ。
「ねえ、おかあさん。見て見て。水があんなところまできてる」
「ほんとに。すごいね。危ないから近くに寄っちゃだめよ」
 夏休みに入ってからはなおさら、声をかけたぐらいでは起きない娘が、今朝は自分でセットした目覚ましで五時ちょうどに起床し、母親を起こした。
 目的は川の増水の観察である。「降雨前と後で、川の水量と水質はどのぐらい変化するか」を夏休みの自由研究にするのだという。自宅から、徒歩で十分とかからないところに神田川が流れているので思いついたようだ。
 ただ、たしか自由研究に関する注意事項の中に《危険(きけん)なことはしてはいけません》とあったはず。増水後の川の様子を見に行くのは危険だから禁止項目ではないかと忠告したが、娘は聞く耳を持たない。
「みんなが『セミが羽化するときの観察』とかばっかりじゃつまらないでしょ」と口をとがらせる。
 このあたりの神田川なら、そして今回の雨量ぐらいであれば決壊も洪水も心配ないだろうと、しぶしぶ同意した。それに、昨日の午後には雨も小降りになっていたから、水も引き始めているかもしれない。
 川まで来てみると、やはり怖れていたほどの水量はなかった。井の頭公園を源とする神田川は、普段はこのあたりでは大人が飛び越えられそうなほどの幅しかない。それでもさすがに、濁った水が護岸の高さの半分近くまで増えている。
 ただ、川岸には金網がめぐらされているので、足を滑らせて落ちる心配はなさそうだ。
「安全なところから観察するぐらいはいいけど、『水質調査』とかいって、川の水を汲んだりしないでね」
「はあい」
 あきらかに空返事だ。百円ショップで買った小瓶の首に紐を巻きつけた自作の採水用具だとか、採取した水を入れるためとしか思えない蓋のできる保存容器だとかを入れたトートバッグを持ってきている。
「やっぱり迫力ある。落ちたら溺れる」
 絵の具の全色を溶かし込んだような濁った灰茶色の流れを見て、娘は興奮気味だ。母親も、今まで川の流れや色合いなどに関心を持ったことなどなかったので、娘と一緒に感嘆しながら眺める。
 このあたりの橋は小規模で橋脚がないが、それでもところどころに、上流から流されてきたらしい、細長い水草やまだ青い葉がついたままの折れた枝などが滞留している。さすがに、テレビのニュースで見るような巨木はないが、それでも「台風の爪痕」という言葉を連想させる生々しさがある。
「ねえ、お母さん。あの橋の上から水を汲んでみていい」
「だめって言ったでしょ」
 しかし、どうせ止めても聞かないだろうからと、小瓶を垂らすのに安全そうな場所を探して川をゆっくり遡っていく。
 ふと、娘の足が止まっていることに気づく。またなにか危険なことでも企んでいるのか。
「どうかした?」
 娘の顔を覗き込むと、うっかり大嫌いなシイタケを口に入れてしまったときのような顔で、向こう側のコンクリートの川岸をにらんでいる。
「あれ、何かな」
 いままでのはしゃぎっぷりは影を潜めている。
 母親は、胸に湧き上がりつつある不穏な予感を「だから何よ」という笑いでごまかしながら、娘の視線の先を追った。
「ただの──」
 そこで言葉が止まる。あえて続けるなら「ただの人間の足」だ。
 コンクリート護岸に、数十センチ四方の四角い穴が開いており、そこから水が川に流れ込んでいる。下水かなにかの排水口のようだ。今まで、あんな穴があったことさえ気づかなかったが、雨の増水で、ちょっとした滝のような勢いで落ちている。
 その四角い排水口に、流入物を止めるためか、あるいは人間や動物の侵入を防ぐためか、鉄格子のようなものが嵌っている。
 その鉄の棒の隙間から、真っ白な、つまりむき出しの人間の足らしきものがだらんと垂れ下がっている。あえていえば、暗い中に寝転がって膝から下だけを垂らしたような印象だ。激しく流れ落ちる水にもまれ、まるで生きているようにぷらぷらと揺れている。
「マネキン人形か何かじゃない?」
 母親がそう言葉を継いだときには、娘はもっとよく見えそうな場所まで走っていた。
 娘が、視線をその物体に固定したままもう一度言った。
「あれ、人形なんかじゃないよ。たぶん本物の人間の足だよ」


2
 焼けつくような日差しだ。
 建物の中で待ちたいが、顔見知りの警察関係者でごったがえしている。いちいち挨拶をするのも、嫌味まじりの冗談に失礼にならないよう返すのも面倒だ。
 おまけに、少し前には本庁の連中も次々と入っていった。彼らがまとっている、どこかエリート臭を漂わせたエネルギッシュな空気が苦手だ。
 それにしても暑いな──。
 宮下真人巡査部長は、けやきの巨木の陰に立ってマイボトルの栓を開けた。杉並区和泉警察署の建物裏にある職員駐車場だ。今朝、出る前に詰めてきた冷たい凍頂冷茶が、もう残り少ない。
 そもそも、あの人が約束の時刻を守るだろうか。しかし、本庁一課の所属になってから破天荒さが収まったという噂も聞くし、奥多摩の分署から異動になってから一度だけ一緒に仕事をしたが、そのときはいくらか紳士的になったような印象を受けた。それに、今日は連れがいるようなことも言っていた。
 時計を見る。あと十分で合同捜査本部の会議が始まる。昨夜も緊急の会合はあったらしいが、実質的には今朝の会議が初回となるらしい。したがって、本庁──警視庁捜査一課から幹部も顔を出すだろう。つまり、あの人の現在の上司だ。
 宮下個人としては、このままここで待つことは我慢できるが、会議に遅れるのはまずい。二人そろって遅刻はよけいに目立つ。
 もう二分だけ待って現れなかったら自分だけでも先に会議に出ようと、スマートフォンのタイマーをセットしたとき、タイヤを鳴らして車が一台進入してきた。
 シルバーのマークXだ。覆面パトカーに多く採用される車種だ。見たところ型がだいぶ古い。初代型のようだ。だとすれば最終モデルでも十二、三年ほど経っているはずだ。しかもいつ洗車したのかと思うほど泥だらけで、ワイパーが動いた形にフロントガラスに模様がついている。
 間違いない。あれだ──。
 以前から、車種に関するこだわりも興味も一切ないと断言していたから、これもまたただ同然で譲り受けたのだろう。
 あと一分三十秒──。
 タイマーを気にしつつ、下りてくる人物を待つ。まず運転席が開いて、男が一人降り立った。身長は百七十八センチだが、筋肉質で締まった体をしているので、実際よりも長身に見える。
 助手席に乗っていたのはどうやら女性らしく、忘れ物がないか確認するような動作のあと、少し遅れて出てきた。こちらは小柄で、若そうな印象だ。就職活動で着るようなスーツ姿だ。
 会釈した宮下に気づいた男が、女に何か語りかけてこちらにやってくる。
「おう」あと数メートルほどのところで、向こうが先に声をかけてきた。「元気そうだな」
 宮下は手のひらを上げてその先を制し、署の入口のほうへ首を振った。
「挨拶は後回しにして、会議場へ行きませんか。あと八分ほどで捜査会議が始まります」
 男はそんなことはわかっていると言わんばかりに、右の眉をわずかに上げた。
「その前にお手洗いに寄らせていただけませんか」
 若い女が男を見上げ、男は女に視線を合わせずに答える。
「あんたは別に出席する必要はない」
「えっ、それじゃ来た意味がありません。だったら我慢します」
 二人のやり取りに宮下が割り込む。
「とにかく行きませんか」どこの誰だかわからないが、連れの女性にも声をかける。「ぎりぎり、トイレに寄るぐらいの時間はありますよ」
「よかった」
「ではすぐに向かいましょう。裏手の階段を上がって二階です。トイレは通路の奥、右手です」
「了解しました。宮下巡査部長殿」
 真壁修巡査部長は、左手をポケットに突っこんだまま、右手で軽く敬礼した。
* * *
「おまえさんが仕切ってくれ。巡査部長殿」
 そう言うなり、真壁は足を組んでアイスコーヒーにストローを突き刺した。
「その『巡査部長殿』っていうのはやめていただけませんか」
「そっちだって、何度やめてくれと言っても『主任』と呼んでただろう。それに、入庁後十年もかかってようやく昇進したんだ。自慢していい」
「八年です」
 宮下の右隣に座った女が、トートバッグからリングノートとペンを取り出した。何かを書き込む姿勢で質問する。
「八年ですか。たしか、宮下巡査部長殿は一橋大学の卒業ですよね。警察の昇進試験って、そんなに難しいんですか。司法試験なみですね」
 どうやら真面目に質問しているらしい。どう返答したものか迷っている宮下に代わって真壁が反応する。
「違います。こいつは小心者なので警官官に向いていなかった。それだけです」
「すみません。今のは冗談と受け止めてよろしいでしょうか」
 真壁が宮下を見て、「ほらな。聞いたろ?」とでも言いたげに右の眉を上げ、肩をすくめた。
「ちょっとよろしいですか」
 宮下はソファに座りなおして、両手を軽く振った。
「──まずは、自己紹介から始めませんか。自分がもっとも関心があるのは、この方が警察関係者かどうかという点です」
 会議場では、真壁とこの女が最後方の席に並んで座った。到着以来、まるで秘書のようにぴたりとくっついている。宮下は通路を挟んだ隣の机だ。女は前のほうに座りたかったようだが、真壁が断固拒否するのが聞こえた。
 一時間ほど続いた捜査会議が終了するなり、一課、所轄の刑事はもちろん、機動捜査隊や近隣署の応援部隊も、みなそれぞれ割り当てられた持ち場へと散っていった。コーヒーショップへ直行したのはこの三人ぐらいだろう。
「だから、紹介とかそういうのを仕切ってくれと言ってる」
 アイスコーヒーをずずっとすすり上げ、ぷいっと横を向く。
「では、ご指名をいただきましたので、司会進行をさせていただきます」
 朝の十時前ということもあって、広めの店内にほとんど客はいない。適度なBGMも流れており、大声を出さなければほかの客に聞こえる心配はなさそうだ。しかも、この女が店員に頼んで案内してもらった席は、上半分に半透明のガラスがはめ込まれたパーテーションがあって、半個室のようになっている。
 宮下もおそらく真壁も、この店に入るのは初めてだ。店の選択も席の指定も、会議後に彼女がすばやく検索した成果だ。
 宮下は、名乗るときの癖でやや背筋を伸ばし、体の向きを女のほうへひねる。
「それではまずわたしから。警視庁高円寺北署、刑事課所属の宮下真人です」
「巡査部長殿と呼べばよろしいでしょうか」
 女が真顔で訊く。
「それはやめてください」
「では、宮下巡査部長で」
 真壁が口を挟んだ。
「な、昔のおまえさんを思い出すだろう? 兄妹かと思うだろ。だいたいおれは……」
 愚痴が続きそうな気配を、まあまあと押しとどめ、自分の妹呼ばわりされた若い女に問う。
「ところで、そういうあなたはどちら様でしょうか」
 女は真壁に紹介して欲しそうだったが、真壁は我関せずという顔で窓の外をぼんやり眺めている。女はあきらめたように小さく咳払いし、自己紹介を始めた。
「わたしは、明京大学社会学部社会心理学科三年、コマキミホといいます」
 やはり学生だった。自然な動作で名刺を差し出されたので受け取り、それに目を落とす。下手なサラリーマンより肩書が長い。
「あまり自己PRが得意ではありませんので」
 小牧未歩という字を書くということと、専攻が『現代都市工学が犯罪に与える心理的影響』だということがわかった。何気なく裏返すと、英字表記になっている。凝った名刺だなと思ったとき、名前に目が留まった。
《Miho Grace Komaki》
 ミホ、グレース、コマキ──。
「これは、ミドルネームですか?」
「はい。母がアメリカ人なので」
「ああ、なるほど」
 一瞬宮下が口ごもった理由を、即座に感じ取ったようだ。
「そう見えないとよく言われます。日本の人は、すぐに人種的なハーフを想像されるみたいですね。でも、母はDNA的には日系です。ただ三世ですので生活習慣はピュアなアメリカ人です。そして、わたしも米国で生まれたので、アメリカ国籍を持っています。両親の馴れ初めも必要ですか」
 いいえそこまでは、と笑みながらうなずく。ふと真壁を見やると、ひとさし指の背を噛んでいる。腹立ちを抑えているか、笑いをこらえているか、どちらかだ。
「それで小牧グレース未歩さんは、警察関係者もしくは今回の事件とかかわりのあるかたでしょうか?」
「いえ、違います」
 躊躇することなく、あっさり否定する。
「では、真壁主任と深い関係が?」
 急に真壁が組んでいた足をほどいて怒りだす。
「ふざけるな。──それより、そっちこそ主任はやめてくれと言っただろう。だいたい、本店に行ったら、巡査部長なんてヒラと同じだ」
「なるほど、そうなんですね」小牧グレース未歩がメモをとる。
「何がそうなんですか?」念のために確認する。
「警視庁のヒエラルキーに関する考察です」
 小牧がメモをとっているノートをちらりとのぞいた。走り書きのようだが、宮下が清書するよりはるかに整った字だ。
 その視線を真壁に向けると、こめかみのあたりがこわばっているのがわかった。以前相方を務めていたときの経験では、かなり沸点に近づいている兆候だ。
 真壁は、自分でその昂りを鎮めるように、宮下に向かってゆっくりした口調で説明する。
「警察庁に長官官房という部署があるのを知っているか?」
「もちろん知っています」
「そこに審議官というお偉いさんが何人かいるらしい」
「ええ、知っています」
 なんとなくその先がわかってきたが、よけいなことは口にせず、説明を待つ。
「その一人のなんとかいう審議官が……」
「高橋です。伯父の名前は高橋コウイチロウ審議官。コウイチロウのコウは、うかんむりに片仮名のナと……」
 真壁が遮る。
「もう結構。その高橋審議官の姪ごさんでいらっしゃる」
「はじめまして」
 宮下があらためて挨拶すると、小牧グレース未歩も同じように挨拶を返した。続きを待っていたが、真壁は窓の外に目をやって、アイスコーヒーの残りをすすった。ほとんど氷ばかりになっている。
 説明は終わってしまったようだ。困っている宮下を見かねたように、小牧未歩がみずから補足を始めた。
「わたしが卒論に書こうとしている内容の参考にするため、犯罪捜査の現場を見たいと伯父にお願いしたところ、最初は断られました」
 良識があるなら当然だろう。
「──でも、もしもいつかゴルフデビューを果たしたら一緒にラウンドするという約束で、頼みを聞いてもらいました」
「ゴルフを?」
 はいとしっかりうなずく。良識は怪しくなった。
「でも、わたしはゴルフに興味はありませんので、あくまで方便です」
「では、卒論の取材の一環でこの現場に?」
 宮下の問い返しに、小牧は「はいそうです」と胸を張った。
「事情はわかりましたが、どうして真壁さんと同行なんです?」
「素人学生さんのお守りは、暇な人間にさせろってことだ」
 真壁が窓の外を見たままひとりごとのように言う。
 宮下は、すばやくしかしさりげなく、小牧の表情をうかがう。腹を立てているようには見えない。
 真壁は、かつて奥多摩から都下にかけて起きた、警視庁全体をゆるがすような大きな事件に巻き込まれたあと、警視庁捜査一課に引き抜かれた。
 この異動は、自身負傷しながらも事件を解決したことへの報奨の意味合いもあるだろうが、雷管を抜いてない不発弾のような男なので、監視できる場所においたほうがよいという計算もあっただろう。
 現在真壁が所属するのは、一課の花形部署である「強行犯係」ではなく、彼らからは「窓際」と呼ばれているらしい「特務班」というセクションだ。
 刑事としての資質は一級品なのに「強行犯係」に置かれない理由は明快だ。何よりまずチーム行動がとれない、自分がこれと思ったら上司の指示に従わない。警察機構はどの役所よりもチームプレーが必要だ。真壁のようなタイプは和を乱すので、どの係長、班長からも敬遠される。
 だったらいっそ本当の閑職に追いやって、自主退職するのを待つ、という選択肢も考えられそうだが、一度そうやってみた結果が奥多摩分署で起きた騒ぎということを考えると、上層部の不安も理解できる。
 もうひとつ、一課の管理官のひとりが真壁を気に入っていて手放したくないらしい。たしかに、変わり者ではあるが、かつて「野良犬」と呼ばれたように、危険を恐れることなく、骨身を惜しまずに働く。その資質は、野に放っては惜しいと宮下も思う。
 この管理官の発案で、便宜的に「特務班」という部署を新設し真壁を配した。つまり、真壁のために作られた、たった一人の班なのだ。
 かといって、資料整理ばかりしている閑職でもない。合同捜査本部が立つほどではないが、本庁としても介入したいような事案に、ことを大げさにせず、真壁を潜り込ませる。
「特務班」が窓際部署であるという噂は所轄にも聞こえていて、今朝の会議の前後にもその空気は感じた。
 だが利点もある。軽んじているから、真壁を強く警戒したり、露骨に蚊帳の外に置いたりしない。そのため情報に接しやすく、これまでも、当初は事件性が疑われていたような案件をいくつか解決したと聞いている。
 宮下も、異動後に一度だけ一緒に捜査にあたったことがあるが、ほとんど真壁ひとりで関係者に話を訊いてまわって、あっさり解決してしまった。
 真壁は、そんな刑事臭さを感じさせない、投げやりな口調で続ける。
「つまり、この学生様の実地研修のお供をするかわりに、地取りや敷鑑の聞き込みで足を棒にしなくていいという特権をもらった」
「はあ、なるほど」
 真壁と小牧の顔を交互にみる。納得できたような、依然としてまったく理解できないような気分だ。
「つまり、こういうことですか。自分たちの捜査にこの小牧さんが同行する、と」
「今、何を聞いてた。ミスコマツ・グリース・カホさんの取材活動に、おれたちが同行させていただくんだ」
「はあ」
 小牧グレース未歩が「二点、違います」と割り込んだ。
「まず氏名が違います。昨日差し上げた名刺で再度確認をお願いいたします。それから念のため申し上げますが、『ミス』という敬称は現在はほとんど使われておりません。二点目は行動予定についてです。最初に申し上げましたとおり、通常どおりの捜査をお願いいたします。わたしは、なるべく足手まといにならないように、がんばってお二人について行きます」
「ご垂訓痛み入ります。しかし、そういうあなたのおかげで、今も言いましたが、普段の地道な捜査から外されてしまいましたよ。今日の予定は白紙です」
 意外にも、真壁は冷静に応じた。腹立ちの境界を越えてしまったのかもしれない。
「でも、昨日は『自由に活動できる』と喜んでいらしたではないですか」
「これは自由とは呼ばない」
 宮下は、真壁が宮下に向かってごくかすかにうなずくのが見えた。言い争いにも飽きたから、あとは適当に収拾してくれということだ。
 苦笑しつつ、うなずく。
「わかりました。それでは、今日の行動について決めましょう」
 宮下は、ここでようやくメモ代わりに使っているタブレット端末を取り出した。

 事件は二日前の早朝に起きた。正確には発覚した。
 八月十八日午前六時二十五分ごろ、東京都杉並区永福三丁目を流れる神田川沿いの遊歩道を歩いていた母親と小学五年生の娘が、護岸に開いた排水口から人間の足らしきものが垂れ下がっているのを発見した。
 前日まで関東地方を直撃した台風一三号の雨の影響で、川は増水しており、娘は夏休みの自由研究のため、増水後の神田川の水量、水質を調べるために、この川沿いの遊歩道を歩いていた。
 コンクリートの護岸には、ところどころ下水やあふれ出た雨水が流れ込む──合流などとも呼ぶらしい──口があいており、問題の四角い排水口もそのひとつだった。
 この口の部分には、巨大なゴミの流出や、逆に動物や人間の侵入を防ぐための鉄製の格子が嵌っており、そこから滝のように水が流れ落ちていた。最初に娘が、この格子の間から人の膝から下らしきものが二本垂れ下がっているのを発見し、母親に報告した。
 一見、それは細く白かったので、母親は当初マネキン人形のようなものが流れてきたのかと思ったが、一部変色している肌の様子や質感などから人間のものではないかと感じ、一一〇番通報した。
 一報を受けて和泉警察署地域課の制服警官が駆け付け、目視したところたしかに人間の足らしい。さらに、その上部には体全体が横たわっているようだ。その旨をただちに本部に報告した。
 ほぼ間を置かず消防のレスキュー隊が到着したが、当該遊歩道には物理的に四輪車両は入れない。
 救出用の緊急機材を持って、徒歩で現場を確認することになった。足場を組み、ロープで釣り下がって観察した結果、水管内に若い男性のものらしき死体が横たわっているのを確認した。生死に関しては医師の診断を待つまでもなく、すでに死後数日は経ており一部では腐敗も始まっている気配である。
 やや遅れて同署刑事課の警官、さらに区の水道局の職員、下水や側溝の管理を委託されている業者も集合し、結局この業者が排水口の格子をはずし、遺体を回収した。流れが強く神田川の中に足場を組めないため、すべてロープで宙づりになっての作業となり、思った以上に時間がかかった。
 このあたりは、すぐ近くに区立の公園や運動場もある閑静な住宅街である。あっというまに野次馬が集まった。また現場の状況から目隠しのブルーシートを広げての作業が困難で、ときおり風にあおられて遺体がむき出しになり、野次馬のあいだから悲鳴やシャッター音が上がったという。
 回収直後の検視の所見──。
 性別、男性。死因、溺死と思われる。推定年齢十五歳から三十歳。死後数日から十日前後、一部に腐敗あり、目立つ外傷はなし、大きな骨折跡なし、刺青なし、四肢および指に欠損なし。歯科治療痕数か所あり。頭髪は黒。右目のみコンタクトレンズ装着。断定的ではないが、死亡の前から水に浸かっていた可能性がある。
 さらに遺体の特徴として、全裸であったこと、体をラップ状のものでぐるぐるまきにされていた。材質からして、食品用のラップではなく、「ハンディーラップ」と呼ばれる、梱包用のものと思われる。
 おそらく水につかっていたせいで、一部は緩みほどけているが、もとはエジプトのミイラのように、鼻だけを出して頭から足の先までぐるぐる巻きにしてあったらしいというのが検視官の見解だ。下肢に巻かれていたラップがほどけたために、二本の足がばらけ、排水口から突き出す格好になったようだ。

「身動き取れない状態で水に浸けられて、そのまま溺死したようですね」
 宮下が小牧グレース未歩をちらりと見やってつぶやいた。さきほどの会議でも説明された内容だが、その異様な殺人手法に、つい嘆息したくなる。
「ひどい趣味だな」
 小牧も割り込む。
「会議での発表では、遺体に目立った損傷はなかったということでしたね」
 目を輝かせている。たしかに、一般人が捜査会議になど顔を出す機会はまずないだろう。まして、もともと興味があって首を突っ込んで来たのだ。興奮するのもわかる。
「たしかに、擦傷痕や打撲の痕もなかったと言っていましたね」
 宮下がうなずくと、小牧はやや前かがみになり、声をひそめた。
「そこなんですが、どなたも質問されなかったのでわたしが挙手しようかと思ったのですが、あれはつまり性的暴行も受けていないと考えてよろしいでしょうか」
 真壁と顔を見合わせる。おまえが説明してやれと目が言っている。
「詳しい司法解剖はちょうどいまごろ行われているはずですが、まずそう受け止めて間違いないと思います」
「だとすると、動機は怨恨でしょうか」
「可能性はありますね」
 真壁が会話に参加しないので、二人のやりとりが続く。小牧の口調が熱を帯びてくる。
「金銭目的や殺害そのものが目的なら、あんな手の込んだことをする必要はないと思います」
「しかし怨恨だとすると、外傷がない点が疑問ですね。一般的に、怨恨の殺人はめった刺しにしたり、もっとひどいことをします」
 言ってしまってから刺激が強かったかと思ったが、小牧は顔色を変えずにうなずいている。
「たしかに──」
 ようやく、真壁が会話に加わる。
「あれでも充分残酷だと思うけどね。おれなら、生きたままラップに包まれて下水に沈められるぐらいなら、雷にでも打たれて即死したほうがましだ」
 宮下が「あれは下水では……」と言いかけたとき、脇から小牧が口を出した。
「今回の遺体が遺棄されていたのは、正確には『暗渠』というものです」
「アンキョ?」
「さきほどの会議でも、少し説明がありましたが」
 救いを求めるような顔で真壁が宮下を見たので、彼女の言うとおりですとうなずく。
「どう呼ぼうと、要するに下水だろ」
「かなり違います」
 小牧も引かない。いつのまにか取り出した自分用のタブレット端末を操作しながら説明する。
「下水というのは、生活排水や産業排水、雨水などの汚水を、終末処理場へ集めて処理するための排水管設備のことです。暗渠というのは、もとは川だったものを地下に潜らせたり、上に蓋をして閉じ込めてしまったものです」
 真壁にしてはめずらしく最後まで聞いていて、ばかていねいに質問する。
「それで、下水に捨てられるのとアンキョとやらに捨てられるのでは、犯行動機にどんな差異が生じるとお考えですか」
 小牧はタブレット端末から視線を上げ、真壁をちらりと見たが、すぐにまた伏せた。
「わかりません。たまたま遺棄しやすかったからなのか、あえてそうした理由があるのか──」
「では、議論はこのへんにして、現場を見に行きませんか」
 宮下が提案すると、二人とも賛成した。真壁のやれやれという顔を見て、小さく吹き出しそうになった。

 三人がいたコーヒーショップから、車でほんの五分ほどの距離だった。
 もう少し涼しい季節なら徒歩という選択肢があるかもしれないが、この暑さではすぐに熱中症になりそうだ。とくに、小柄な小牧では体調不良が心配だ。警察庁のお偉いさんの可愛い姪を粗末にあつかったとなると、あとあと面倒なことになるかもしれない。
 区立の運動場の近くにコインパーキングを見つけ、そこに停めた。
 被害者の身元はすでに判明しており、今朝の会議の中で発表された。
 森川悠斗二十歳、都内の私立大学二年生、杉並区の分譲マンションに両親と三人で暮らしている。
 発見されるちょうど十日前、深夜一時にアルバイト先のコンビニエンスストアを退出したあと、行方がわからなくなっており、当日午後、両親によって「行方不明者届」が提出され、受理されている。
 この届に記載された特徴と一致する部分が多かったため、昨夜午後八時を回っていたが両親を呼んで確認をとった。係員の制止をふりきって遺体の顔を見た母親は、その場に崩れ落ちるように失神したという。
 遺体が発見されたあたりは、勤務先と自宅を結ぶ線上にない。ただ、暗渠という点を考慮すると、どこか別の場所で遺棄され、今回の増水のため流されてきた可能性は大きい。さらに、ラップで巻かれていたということは事故や自殺の可能性は少ない。
 死体が発見されたこの現場を所轄する和泉警察署に『杉並区神田川付近における死体遺棄事件』の合同捜査本部が立った。『殺人』の二字が加わるまで、そう時間はかからないかもしれない。
 運動公園を抜ける前から人だかりが見えて、現場はすぐにわかった。
 てんでに背伸びしたり、スマートフォンで写真を撮ったりしている野次馬を割って入る気にはなれず、少し離れた場所から観察する。発見現場と思われるあたりには規制の黄色いテープが張られ、赤いコーンが何本か立ち、それを制服警官が見張っている。 
 宮下がなんとなく予想していたよりも多い人数の鑑識担当の警官たちが作業している。たしかに、このところ猟奇的な事件が起きていなかったこともあり、ニュースではトップ扱いの話題を集めていた。当然かもしれない。
 川の水量が減って危険度が下がったため、川に降りて川底をさらっている職員も十人近くいる。
「反対側からのほうが見やすそうですね」
 宮下の意見に二人が賛同したので、小さな橋を渡って反対側の遊歩道へ回った。
 こちらの側にも野次馬はいるが、じりじりと肌を焼くような炎天下だし、これという珍しい光景も展開されないので、みなすぐ飽きて帰ってしまう。人の入れ替わりの流れに乗って、川べりへ進んだ。
 いつの間にか小牧が差した日傘が、ちょうど顔のあたりにくるのが気になるが、まだ知り合って間もないのでここは触れずにおいた。
 問題の排水口がぽっかりと穴をあけているのが見える。すでに水量は普段並みに戻ったのだろう。ほとんど涸れかけているといってもいい、ちょろちょろとした流れだ。ずっとあの水量だったなら、遺体が流れてくることもなかったのかもしれない。
「あそこから遺体の一部が見えていたんですね」
 小牧が魔物の口のような暗い穴を見つめ、しみじみとした口調でつぶやいた。真壁が邪魔そうにしていることに気づいたらしく、日傘を畳んだ。
 宮下には、彼女の言わんとするところがわかった気がした。あんな場所から死体の足がぶら下がっているのを発見した小学五年生の少女の心に残る傷が気になるのだろう。
 向こう側で、柵のわきから川を覗き込んでいた私服刑事の一人がこちらに気づいた。肘で連れをつつき、露骨なにやにや顔を作ってすぐに視線を逸らせた。
「お嬢様のお守りご苦労様」
 そう顔に書いてある。こんな扱いはすでに慣れっこになっている。いや、今朝の会議のときから感じていた。真壁の不機嫌もそこにある。小牧はおそらく気づいていないだろう。真壁をただの気難し屋だと思っているようだ。
 真壁が野次馬の群れを抜け、近くにあった街路樹の陰に入った。顔をしかめ、ハンカチで汗をぬぐっている。真壁も宮下も、ワイシャツにノーネクタイという姿だが、すでに胸や背中に汗が浮いている。小牧も薄手のシャツを着ているが、汗を吸うインナーを着けているのか、あまり汗ばんで見えない。
 排水口をにらみながら、真壁がいまいましそうに言う。
「下水だかアンキョだか知らないが、水路なら地図みたいなものがあるだろう。だったら、役所でそれを調べれば、どこから流れてきたのかすぐにわかるんじゃないのか。捨てた場所が特定できれば、ホシの足取りもつかめるだろう」
 しごく当然の理屈なのだが、そうはいかない事情がある。宮下はバッグから出した扇子で首のあたりに風を送りながら「それがですね」と反論する。
「今朝の会議でも、一課の係長がそんなような指示を出していましたが、そうすんなりいくかどうか疑問なところがあります」
 隣に立つ小牧も、いつのまにかトートバッグから出した小型扇風機で、自分の胸元に風を送りながら、うなずいている。真壁の目がまたいまいましそうに細くなる。
「昨日のうちに『暗渠』ということがわかったので、少し下調べしてきました」
 宮下はそう言って、バッグの中から暗渠について書かれた書籍を取り出し、地図の部分を広げてみせる。
 昨日の午後、この合同捜査本部への応援を指示された直後に、新宿の大型書店へ行って参考資料を何冊か買い漁った、そのうちの一冊だ。大きな地図が付録でついているのが気に入った。
「あ、わたしもそれ、持っています」
 小牧がトートバッグから、同じ本から切り取ったらしい地図を取り出した。
「手回しがいいですね」
 遺体発見のニュースが流れたのは昨日の朝だ。いくら伯父が警察庁の幹部だからといって、こんなイレギュラーな〝見学〟がみとめられたのは夕方以降だろう。それにしてはずいぶん手回しがいい。
 そう思って彼女が手にした地図を見ると、かなり使い込んであって、折れ目はちぎれかけていたりする。
 宮下の視線に気づいたらしい小牧が、少し照れたように説明する。
「わたし、前から暗渠に興味があって、なので今回の研修のことをどうしてもお願いしてしまいました」
「なるほど。そういうわけだったんですか」
 真壁の目が「そんなことはどうでもいい」と、話の先を促している。
「下水路は計画的に整備されたものですから、きちんと管理されていて、それこそ下水路網というのがはっきり把握されているようです。しかし、暗渠はもともと川だったり側溝だったりしたものに蓋をしただけのところが多く、役所でも把握しきれていないのではないでしょうか」
 真壁の顔が不満げなのがよくわかる。
「あの暗渠がどこから来ているのか、たどってみましょうか」
「また向こう側へ行くのか」
「野次馬は避けられます」
「いきましょう」
 小牧も乗り気だ。
「五分だけだ」真壁が汗を拭う。
 再び日傘を差した小牧が先へ行くので、宮下はずっと聞きたかったことをようやく聞けた。
「今回、自分と相方を組むことになったのは真壁さんの意志ですか」
「ああそうだ」あっさりとうなずく。「あのグレースケリーのお守りをしろと命じられた瞬間に、交換条件をつけた。近隣署からの応援におまえさんを呼んで、くっつけてくれと」
「で、こういう事態になったわけですね」
「迷惑だったか?」
「たまには楽しいかもしれません」
 小走りに走っていった小牧が、さっそく暗渠が延びていそうな方向を探している。

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