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ほめたい!~別解『ナナメの殺し方』~

人をほめるのが好きだ。

人の光る部分に目を向けてそれを言葉にする営みは、見える世界をより輝かせ、ぼくを今より幸せにしてくれる。
こんな当たり前のことを最近になってようやく学んだ。

だからほめたい。
でも、苦手だ。

人をほめようとする時、かならずナナメからうるさく口を出してくるもう一人の自分がいる。

「おまえは相手をほめれるような身分じゃない」
「ほめることでマウント取れると思ってる?」
「おまえが相手の何を知ってる?」
「上っ面だけ見て短絡的に決めつけるなよ」

ただまっすぐにほめたいだけなのに、こうした声にいつも二の足を踏まされる。

ナナメのブーメラン

たぶん、これは今まで他人にほめられた時にぼく自身が感じてきたことそのものだ。

ほめられた経験が少ないぼくのような人間にとっては、自分をまっすぐにほめてくる人間の存在が信じられない。真に受けて傷つくのが恐ろしい。だからつい裏を邪推してみたり、ほめ方のズレを切ってみたりしてしまう。

そうして相手に投げかけた「ほめに対するナナメの目線」がいまブーメランとなってぼくに返ってきている。

それが痛い。

分かっている、自意識過剰なだけだと。
「気にしすぎ」なことも「そんなにみんな斜に構えてない」こともなんとなく分かっている。
けれど、誰より自分がそういうことを気にしてきたし、斜に構えてきたのだ。
その蓄積は消えない。

頭ではまやかしと分かっていても、ナナメの自分は殺せない。

無理だ

どうやったらこいつを追い払えるのだろう、ナナメの自分から卒業したい、そう思いながらずっと格闘をつづけてきた。

そして気づいた。

無理だ。
少なくともぼくにはもう一生、どうやっても黙らせることができない。

だからもう戦うのをやめた。
戦うのはやめて、いっそ手をつないでみることにした。

手をつなぐ

思えば、今でこそ鬱陶しく感じるナナメの自分だって、かつてはぼくを守ってくれていた大切な自分の一部だ。

吹けば消えるような小さな自尊心の灯を、決して絶えないようにと両手で大事に包みこみ、外の世界から閉ざすことで必死に守ろうとしていたあの頃の自分だ。
それが行き過ぎて、他人がくべてくれる薪さえ拒絶してしまう時があるだけなのだ。

そう思うと、とたんにナナメの自分が愛おしく見えてきた。
彼の言うことを頭ごなしに否定するのをやめて、一度全部飲みこんでみようか。
自然とそう思えるようになった。

やってみよう。
確かに彼の言うことももっともかもしれない。
人をほめる時、ぼくは無意識に相手を見下しているのかもしれない。自分のほめ方は的外れなのかもしれない。表層しか見えていないのかもしれない。

そうやって全部肯定してみる。
そのうえで、踏み越える。

上から見下しているなら、見上げている人や横から見ている人には見えない良さが分かるかもしれないじゃないか。
的外れでも、上辺しか見えていなくても、ぼくにいま見えているその部分をすばらしいと思えたことは確かだ。奥底をほめるのは、別の誰かに任せればいい。

自分がほめたいからほめる、それでいい。

ナナメを受け入れた時、はじめて心からそう思えた。

考えてみれば当たり前だ。
自分のひねくれた部分ひとつ肯定できないような人間が他人を堂々と肯定できるはずがない。

ぼくにとって、他人を堂々とほめるために必要なことは、ナナメの自分と格闘することではなく、それも含めて自分だと認め、愛することだった。

二人でゆく

これからもナナメの自分が疎ましくなる場面はきっとある。
そういう時こそ彼の手を取り、抱きしめてあげよう。
まっすぐな自分だけでも、ナナメの自分だけでもダメなのだ。

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このnoteはオードリー若林正恭『ナナメの夕暮れ』、とくにその中の一篇『ナナメの殺し方』にインスパイアされています。
そこでは、このnoteとはまた違う形のナナメの自分との向き合い方が記されていて、とても面白いです。

もしこのnoteに少しでも共感された方は、ぜひ読んでみてください。

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