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ぼーっとしてることが目的であり手段である、という状態の、話。【無い物買い】



「今、なにしてる?」

「なにもしてないよ」

「息もしてないの」

「息はしてるけどなにもしてない」

「忙しい?」

「呼吸で忙しいといえば忙しいと言えるかも」

「ちょっと手伝ってくれる?」

「いいよ」

これに似たやりとりって、ずいぶん最近は減ってる気がする。「なにもしてない」の範疇が、どんどん変わってきてるからだ。

家でテレビをただ眺めているのも、「なにもしてない」に入るだろうか。
連絡が来た相手によって、「なにもしてない」の範囲は可変なような気もする。

落語の中にはたまに、なにもしてないなら付き合ってくれ、という要望から始まったりするものがある。ついてきてくれ、というパターンもあるし、ぼーっとしてるくらいならこっちへ来い、みたいなものも。仕事もせず遊んでるらしいから銭儲けを世話してやろう、なんていう親切な導入もある。

今、たとえば大きな街の交差点で、「ただぼーっと立ってる」なんていうことが可能だろうか。

横断歩道を渡るための信号待ち、例えば30秒くらいを、ぼーっと虚空に視線を漂わせて立つということは、よく起こる。青に変われば、すぐにキビキビとあるいはダラダラと歩き出す。

ぼーっと立っている、には1分を超えてはならない、的な暗黙の了解がある気すらしてくる。ただその場にたたずむにしても人を待つにしても、スマホを見たり雑誌を広げたりカバンを探ったり、何かをしていないと、不審度が上がる。飛躍的に「何してんのこの人ここで」という警戒度が跳ね上がってしまうのだ。一点を見つめたり、空を見上げたまま、ぼーっとしてはいけないのである。

「お前そこで何してんねん」

「立ってんねん」

「立って何してんねん」

「立って、立ってんねん」

というやりとりには子供の頃、パラドクス的なというか、世の中は入れ子構造的マトリョーシカ世界になっているのか、というような不思議を感じた。簡単に言えば「なに言うてんねんこのおっさん」と思った。

「ない物買い」という、暇な男らがお店で無茶を言って遊ぶ…という落語の冒頭は、そうやって始まる。なにせ1円も使わず子供のように遊ぼうか、という人たちだから、「そもそも何もしていない」状態でないといけない。その状態を表すのに、これほど何もしていない馬鹿馬鹿しさを表現したやりとりは、ないだろう。

立って立つ。

目的と手段がたまたま同じというか、要するに「ただぼーっと立ってる」ということである。現代社会ではなし得ない、なにもしていないの具現化が江戸時代、古典落語の世界にはあるのだ。

「ぼーっと立つ」という目的のためにできることは、「ぼーっと立つ」ことでしかなし得ない。もっとも努力が要らず、要する体力も少なくて済むはずにもかかわらず、「ぼーっと立つ」を成し遂げることの難しさは、見上げた監視カメラの存在を思い出せば容易にわかってくる。

屋外で、一人で、ぼーっと立つことなど、もうできないのだ。
やろうとすれば、自室でやるしかない。

自室にいると、とんでもなくやることが多い。
お菓子を食べる。テレビを見る。トイレへ行く。茶を沸かす。音楽を聴く。案を練る。思い出を思い出す。寝転ぶ。そのまま寝る。

全くぼーっとできない。何かをしてしまうのだ。楽しくて、ラクをしている…とは言いつつも、必ず何かをしてしまう。それをして「ダラダラしている」と称する人も多くいるわけだが、「ぼーっと立つ」のハードルの方が高い。


「立つA」が手段であり、「立つB」が目的の場合、「立って立ってんねん」がやっと成就するわけだが、他ではなかなかそうはいかない。

電車に乗ると、目的地に向かってしまう。
だから「座るA」は手段にはなるが、「座るB」が目的として成り立たない。目的はどうしても「移動する」ということになってしまう。

では手段を「移動A」とした場合、目的として「移動B」はありえるか。
これも無理だろう。

「なにしてんねん」

「移動して、移動してんねん」

は、叶いそうにない。移動は目的ではなく、やはり手段にしかならない。

「働くA」 を手段とした場合、「働くB」が目的になりそうだが、「仕事をするために、仕事をしている」というなんだか虚しさしか滲み出てこないブラックな感覚がどんどん増殖してしまう。

目的と手段は、分かれているのがやはり、普通なのだ。

あれになるために、これをする。
こうやるのは、ああなるため、なのだ。

まったく目的がないように見えて実は手段とぴったり重なっていることって、この世にはないのだろうか。それがもしあったら、そこに現代社会では「不審」「不適合」という判を押されてしまうのかもしれない。

反社会的な想像で進めてみると、「殺したいから殺す」というのはなんだか通用しそうだ。
「殺すA」が手段で、「殺すB」が目的だ。だけどこれにはまず持続性がない。果たしたら終わってしまう。どんどん「殺すB」を新築していくとなると、これは建て増しが進めば進むほどシリアルキラーとか猟奇殺人者とかデューク東郷とかいうカテゴリに入ってしまって、我々にはうまく扱えなくなってしまう。「殺すA」が刑法上の犯罪である以上、自分以外の手でその継続を終了させられる可能性が高い。要するに拘禁される。つまり現実的ではないし、その目的設定をする動機にまずかなりのカロリーが消費されてしまって、手段に進む段階をうまくクリアできそうにない。「不審度」どころではなくなってしまうので、やはり全く現実的ではない。

翻って、ポジティブなことならなにが可能か、を探してみる。
人を褒めるというのはなんだか気分が良くなるもので、気分良くなっている人を眺めるのを目的「褒めるB」とすれば、立派に「褒めるA」は手段として両立はするだろう。

でもやはり「立って、立ってんねん」のライトさにはなにものも敵わない。それにしても。

現代人よ、ぼーっとしよう

なんて言うつもりが、微塵もないのに驚く。忙(せわ)しない社会人よ、もっとくつろげ、なんて言っても、ほとんどなんの意味もない。忙しく、余裕少なく、あくせく動くのが現代人には合っている。「田舎でのんびり」というスタイル自体が、すでに都会の齷齪(アクセク)に依存して成り立っているようにすら思える。

目的の設定が「立つ」などという境涯に到達するには、よほど手段としての「立つ」にも長けていなければなるまい。そう考えると、多くの達観者が語るように、なんでも突き詰めれば「AとBが融合する」境地が立ち現れてくるのかもしれない。

立っているだけで目的を完全に、永久に果たせるならば「座って、座ってんねん」も、「歩いて、歩いてんねん」も、「息して、息してんねん」も可能になってくるだろう。

究極的には「生きて、生きてる」ということになるが、そもそも「生きている」というのは本来そういうものでなければならないような気もしてくる。それが認識を超えた、涅槃ということなのだろうか。裏返せば「死んで、死んでんねん」を目指すのが全人類の目標、と言えなくもない。こんな身も蓋もないことで文を終わるつもりはなかったのに。


サポートなんかを受け取っちゃうと、俄然やる気が色を変えて盛り上がってくるので、なんていうかもうよろしくお願いいたします