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人生の選択は、四択問題とは違うようだ

高校受験の時、国語や英語の問題は四択問題が多かった。
ふむ、わからん。さんざん悩んだ挙句、3と書く。
模範解答を見ると、正解は1だった。決め手に欠けたので無難な3を選んでしまった。悔しい。

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私たちはこのような選択形式の問題の解き方にすっかり慣れてしまっている。日常私たちが進路を選択するとき、またはもっと些細なことでもいい、今日なにしようって思って何かをする時も、同じように選択肢を無意識に複数個用意して、その中から選んで行動しているだろう。

もっと今より思い悩んでいたころ、過去の選択における後悔をたびたびしていた。
例えば、美術が好きだったから美大に行く友達が羨ましく見えたのに、自分は時間切れだと思って理工系に進学した、とか。あの時あの人に声をかけていればよかった、好きといっておけばよかった、とか。今自分が見えている選択肢の中から選び、後から考えてあれは正解だったとか、ああ決定的な間違いをしてしまったとか、思わず考える瞬間は誰にでもあるだろう。

でも、人生の岐路における選択はこれとは全く違うような気がするのだ、最近。

実は道は分かれていない。今いる私には、今の状況しかわからないし、道だと思っていたものは自分の空想の範囲を超えることのないただ貧相な予測であって、この世界の私には体験しようのないものだからだ。

生まれて生きるということは、道のない野原に裸でぽとりと落とされ、さあ歩いてごらんと言われたようなものか。自分の行きたい方向に行くだけなのだ。岩が多くて痛いのでちょっと歩きづらい箇所かもしれんし、逆にみんなが周りにいる水辺かもしれない。もう道はない!と思う時があるかもしれないし、おや面白そうだといって山に登ってみるのもアリかもしれない。たまに地震も起きるし雨も降る。美味しい果物を見つけるかもしれない。拾った木の棒で武器を作ってもいいし、狼の子供を飼いならして遊んでももいい。誰かと一緒に歩いてもいい。その人と別れてもいい。寝っ転がってもいい。行った先で長けていくだけだし、なんなら何にも長けなくてもいいのだ。


あら、そうなると、「しまった、あっちの道に行くんだった」と後悔するのもなしじゃないのかもなあ?


『道程』高村光太郎
https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%81%93%E7%A8%8B

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