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track 16 「出来ると思ってやるっきゃ騎士」

 赤ん坊や猫が、じっと虚空を見詰めていたならそこになにかが確かに在るのだ、とする俗説に照らせば彼もまた何某かの存在に勘付いていたのではないか。

「此羽さんが」

「うん。前に、閉鎖されたビルの中に円将がいてそれを知らずに俺が後から行って、て事があったじゃん。そん時の円将みたいな顔してた」

 小此木木野羽オコノギコノハ、通称此羽コノハ、市立宝町高校の二年生。

 携帯の電波はおろか外来語も届かない山奥の孤児院出身者の一人だが、彼らが溜まり場としている校舎の三階、南端の音楽室に於ける目撃事例は春以降はただの二回、保健室登校者であり校内ノマド、或いははぐれメタルのような言わばレアキャラ。

 その彼を校外で見掛けたとなればたまさかの幸運、しかし話し掛け難い雰囲気を発してあったと言う。

「こんなふうに仲良くなる前の、俺とか松理にだけ塩対応だった時の円将みたいな感じ」

「崇めるがいいよ俺を、拗らせ神として」

 最寄り駅に向かって歩けば必然、その先に位置する男子寮の住人である此羽とは進行方向が一致、なんとはなしに尾行をするような形となり、果たして千葉今日太チバキョウタは、彼の不可解な行動を目撃する事になる。

「もっかい、場所どこだって」

「こないだ連続通り魔が自殺してたっていう工事現場。自分で自分を何度も刃物で刺して死んでたんだってね。そんで、襲った相手から盗んだスマホも全部そこに埋めてたとか」

 立ち入り禁止の下げ札を無視し、ブルーシートを捲って以ての不法侵入、それは人畜無害で大人しそうな彼の外見とは裏腹な行為のように、今日太の目には映った。

「なるほど、感じる人ならなにか感じても全然おかしくない場所か」

 此羽のそうした能力の噂を耳にした事もないが、遭遇率が低めが故のデータ不足なら彼がプリンセス天功と結婚を前提に交際していないとも言い切れない。

 納得頻り、と頷きつつも六神円将ロクガミエンショウが短めの溜め息を零す。

「そんで今日太は、なんか感じたの」

「実はあんまり。だからどうなのかなって」

「結局、現場に行ってみないと駄目か、て話ね」

 円将が、目の据わった、なんとも言いようのない表情を今日太に向ける。

「なんか俺、責められてる」

「責めてはない。むしろ感心してる、そんな現場によくよく出くわすな、て」

 或いは仲間内では円将のみが感受している今日太の背後霊的ななにか、今は一人じゃんけんをして十八時間に及ぶ死闘を制した棋士みたいに右手の勝利を噛み締めている、河童、それが導いているのだろうか。

 四十日間熟成させたサーロインを嫁にレンジ調理された旦那みたいに左手の敗北を悔しがっている、それが。

「いやいやないない、それはない」

 果たして。

 その日の放課後、今日太と連れ立って現場に出向いた円将は、自らの慢心と怠惰を激しく後悔する事になる。

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track 16 「出来ると思ってやるっきゃ騎士」

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 裏路地の住宅街。

 入り口、磨り硝子のサッシがいささか無用心に思える自治会の集会所と、おそらく今は休憩時間、年季の入った出前用のカブを出入り口を塞ぐようにその真ん前に停めている中華料理屋に挟まれた土地。

 五感でその外観を捉えてみても覚える不審のない、それがしかし巧妙な罠。

 ブルーシートを捲り境界を越えた途端、その内側に身を潜めていた邪気が迷彩を脱ぎ捨て、円将が漏らした陰性思念を最後の触媒として必要なだけの力を得、虚空にぱっくりと裂け目を入れた。

 自らをその穴に捩じ込んで次元移動、或いは昇天するが如くのそれの目論見を形振り構わずに飛び掛かった円将が咄嗟に阻止したが、しかし果たして詰みの状態となる。

 詰まり平均的な成人男性ほどの大きさの、無数の触手を持ったくらげ様のそれ、邪気は、円将が干渉をして実体化させたものではなく故に想像の及ぶ範囲を超えて強大、全身を使って以て押さえ込んだらそれに集中する他なく、別の事柄に手が回らぬ状態。

 そして裂け目。

 こちらから入れられるならあちらから出せもする道理、人類の半分を死滅させる病原菌、一房六万ドルで取り引きされる美味しいバナナ、人の言葉を喋る黒猫っぽい生き物、母親のヴァギナに捨ててきた筈のデリカシー、或いはそれら全部が一斉に落ちて来てなんら不思議もないが、それを塞ぐに窮している。

 即ち緊急事態。

 爆発物が仕掛けられた便座に尻を嵌めてしまったロジャー・マータフの心境、それを円将は実感するが、しかし自分にとってのマーティン・リッグスが途轍もなく頼りない。

 児童公園のオブジェ兼遊具の座り心地、詰まり長時間の居座りを拒絶するような不安定なそれ、咄嗟に飛び付いた格好からじりじりとした動きを続けた果てにようやく、くらげを尻の下に置いた円将が、未だ出入り口直ぐのところで呆然としている今日太に身体を向ける。

「吐き戻すほどエマージェンシー」

「え、なに」

「明日をも知れないデンジャーゾーン」

「だからなに、どうしたの」

 それをらしくない言動と感じ面喰らう今日太、円将も円将で敢えて動揺をそのまま口にする、そうして認める事で以てむしろ落ち着きを取り戻す。

「さて、じゃあ順繰りに対処していこうか」

 くらげに飛び掛かる際に放り出したナイロンバッグを拾ってほしい、とジェスチャーで伝えながら続ける。

「イルカでも死んでるのかと思ったらおばさんみたいな外人だった、それを俺が今、ケツの下に押さえ込んでんだけど、見えてる」

「え、イギリス人、それとも関西人」

「オッケー。そんじゃ俺が今、指さしてる辺りに桑原が次元刀で切ったみたいな裂け目が出来てんだけど」

「それは見えてる。これ、やばくね」

「べらぼうにやばいしすこぶるまずい」

「どっかに繋がってて行き来が出来ちゃうやつだよねこれ、見ただけでそう感じる。そんで向こうにいるやばい奴が気付いてこっちに来ちゃったらめっちゃやばい事になるよね」

「そのやばい事態を引き起こさない為に先ず祈る事と、もう一つ出来る事がある」

 受け取ったナイロンバッグからスマホを取り出し、LINEの音声通話機能で以て円将が呼び出した相手の登録名が、豚ピッグ。

「あ」

 応答して以てのその最初の発声からして不機嫌の吐き出しに他ならない、そんな相手の態度に対して迂闊にも今日太が。

「そこはブーじゃないんだ」

 などと呟こうものなら即座に発火。

「おいてめ餓鬼こらお前の他にも誰かいんだろ失礼な餓鬼が、おい餓鬼。殺すぞ餓鬼。死なすぞ死にてえのか餓鬼こら餓鬼」

「うるせえ緊急事態だ手を貸せ豚。次元の裂け目を閉じる札書け、予備も含めて何枚か。ギャラはいつもの倍出してやる」

「あ。誰にもの頼んでんだおいこら餓鬼、ギャラの問題じゃねんだよ、お前の謝罪がまだ一度もねえだろ餓鬼おい餓鬼死ね死ね死ね餓鬼死ね餓鬼死ね」

「遣いを寄越すから札はそいつに渡せ。十五分で用意しろ。ギャラは今直ぐpaypayで飛ばす。分かったら黙って従え豚、俺にじゃねえ金にだ」

 そして一方的に通話を負えた円将が、次に、今日太を遣いに出すべくに配車アプリでタクシーを手配する。果たしてそうして、一段落。

「なんか、すげ。まるで仕訳の鬼。今の円将、なんか花乃さんみたい」

 沈黙の気まずさから適当な言葉を紡ぐ今日太、その気遣いの拙さ具合に苦笑しながら円将が応える。

「実の姉だよ」

「マジか。強烈だね」

「行ってもらった時に姿見せるかどうか知らんけど、ほんと豚」

「電話の間もずっとなんかボリボリ食ってたね。じゃがりこかな、ポテロングかな」

「ストレスで過食やってんじゃないかな。人間の言葉が通じなくなって以降はちゃんと向き合ってなくて、詳しくは知んないけど」

「そっか。なんかいろいろだね姉弟も」

「行った時、当たり散らされるかもだけど無視していいよ、どっちにしろ緊急だし。札受け取ったら即回れ右で」

「分かった。でもそっか、円将のとこも姉ちゃんいんだね」

「そこ。呑気にそこ」

「だって、うちと一緒なんだと思ったらなんか、さ」

「姉弟って感覚は希薄だけどね。十二歳離れてるし関わんないようにしてるし、利用する時以外は」

「てっきり円将は一人っ子だと思ってたなー、俺」

 ほどなくしてタクシーが到着。

「なんか緊張する、あんま乗った記憶ないしタクシーなんて」

 果たして今日太を見送り、そこでまた一段落。

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 円将が、陰性思念をぶつけて煽り彼のものに実体を持たせた上で殺害する方法を以て邪気祓いとするなら、彼の姉は、次元の狭間に裂け目を生じさせそこへ彼のものを押し遣り、追放して以て解決とし、報酬を得ていた。

 その裂け目がどこの、いつに通じているかは姉自身も知らぬ事、ならばそれは自分と無関係ななにかに災禍を押し付け素知らぬ顔で立ち去る極めて無責任な態度。

 それを円将は蛇蝎の如く嫌悪した。軽蔑し、反発した。心の底から、とても激しく。その結果、まるで姉から奪うような形で円将は、後天的に、邪気祓いの能力を得た。

 それは異例の事態。

 いつか自らそのように決定したのか、どこかで他者に呪われでもしたのか、記録を遡れば六神家は男子を授かれない家系だった。それでも先天的に能力を受け継いだ子が生まれていたならなにも不都合はなかった。

 円将もまた性別不明のまま産まれ、しかし能力を持たない男子と判った途端、鬼子として、いやさ家系に於ける味噌っ滓として扱われた。或いは彼の厭世観は、彼我の区別なく向ける徹底した不信感は、生じるべくして生じたものだ。

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 外からは視認不可能な切り離された空間に、言葉が通じず、いやさ通じたとて滅ぼす他ない邪気と、危殆なる時限装置状態の裂け目と自分自身。

 ぽつねんと孤独。

 その時、裂け目の向こうから。

「こーんにーちはー」

 明らかにこちら側への呼び掛けを意図した声が、聞こえた。

「あ、どうもこんにちは」

「こーんにーちはー」

「そんな声張らなくても聞こえてますよ、こんにちは」

 相手について判る先ずのところは、男性。

「この虚空の裂け目、きっと放っておいてはよろしくないものですよね」

「正しく。ですがこちらで今、塞ぐよう動いてますのでご安心ください」

 そして彼は、眼前に在る未知の事象に対しても。

「なるほど。たまたま通り掛かりに発見したもののきっと私の手には負えないもの、覗き込んでも暗いばかりで如何したものか途方に暮れていたところです」

 仔細はともかく自分なりに要点を掴んだなら対処法に考えが及ぶような、理解の早いタイプと思しく、頼って間違いのない人物だと円将は判じる。

「ならばその責任感に付け入って、一つ図々しいお願いをしてもよろしいでしょうか」

 思い切って尋ねてみる。

「出入りするもののなにもないよう、暫しそこにいて見張っていてもらえませんか」

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 なんとかいう街とかんとかいう街を繋ぐ街道沿いの、なんらかの理由で半焼して立ち枯れた巨木の残骸が目印のようにあるだけの野っ原。

 西暦で尋ねたところでその概念はなく、今は寒くなる前の季節。

 実績を積んで以ての協同組合執行部への抜擢が目下の、冒険者としての個人的な目標。

 地べたに近い高さに腰を落として座った姿勢からは虚空の裂け目を見上げる格好、そこから放物線を描いて届く見知らぬ世界の話がまるで、幼心を躍らせる紙芝居、円将を正直な心持ちにさせる。

「誰をも納得させられる才能でもあればこっちでも、自分の裁量だけでやって誰に文句も言われないんでしょうけど。結局憧れですよ、そういう生き方」

「思ったら、願ったら、もう半分は叶えたようなものだという考えはやはりそちらでは楽観が過ぎますか」

「本当にもう現実問題ってやつが厄介で。今までは苦労知らずのチートキャラでやってきて、んでここにきてそこに世間知らずが乗っかってるんで、もう、向き合うタイミング逸した実情とも相俟ってお先真っ暗ですよ」

「これまでのように独りで生きてゆくなら、その通りなのかも分かりませんね」

「仲間、ですか」

「仲間であり友人です。三人寄れば文殊の知恵、自分だけで抱え込まず頼ってみたらいいんですよ」

 気付けば裂け目の向こう側の彼と、そんな会話を交わしていた。彼も円将も、共に似たような真面目さを持ち合わせ、それが言わば仇となっての展開、茶化せるタイミングを全部見逃した結果がまるで人生相談。

「でも頼りないんですよ、うちのリッグス」

 噂をすれば影、そこへ今日太が戻ってくる。

「よくぞ無事に戻ってくれた友よ、先ずは抱擁をくれ」

「だから今日の円将ちょっとおかしいって」

 次元の裂け目を塞ぐ効果を持つ御札も無事に到着。

「郵便受けに入れてあるからってインターホン越しに一方的に言われて終わり」

「やっぱチー牛とかで釣んなきゃ駄目か、あの豚」

 或いは飼育困難となったクランウェルツノガエルを偽名で他者に送り付ける行為を邪気祓いとしていた円将の姉は、その能力を失った末に実質廃業、ただ、現役時に構築した理論を紋様に変換して書き付ける技能、もしくは権利だけは残した。

「その札も有効化するトリガー引けるのが俺だけだから、結局、あの豚単体じゃなんも出来ないんだけどね」

 そうして円将が、裂け目の向こうの彼に最後の挨拶。

「いろいろありがとう御座いました。お陰様で大事に至らずに済みました」

「こちらこそ。実に楽しい会話でした、名残惜しいですよ」

 なにか行くもの、来るものがあるやもという心配は、結果、杞憂に終わったが、裂け目を通じこちら側にもたらされたものがあったとしたならそれは、円将の今後に影響するのかもしれない。

 とまれ。

 円将の指示に従い、今日太が、次元の裂け目に御札を投入、ぶくぶくと黒い気泡の溢れ出てきてそれが全て弾けると、痕跡も残さずそこに通常の景色が戻った。

 危機の一つは去った。

「なに話してたの、向こうの人と」

「ほぼほぼ人生相談。気付いたら。まるで生徒会長のそれみたいな助言もらった」

 そうして最後の仕上げ、くらげ退治を残すのみという事の次第だが、しかし円将に有効な対策案の一つも思い浮かんでいない。

「急所がどこなのか、そこをどうやったら殺せるのか、なんも分かってないけどとにかく出来ると思ってやるっきゃ騎士」

 スティック部が艶消し黒に塗られた三段伸縮式の特殊警棒を手にする。自らを普段通りの場所に置く儀式として。

「俺、ほんとに帰っていいの」

 消える魔球もバットを振ったら打てるかも分からない、今日太がそう主張する。

「幾ら無法者とは言え、関西人なら話せば分かるかもしんないじゃん」

 問題はバットを持っているかどうかだと、円将が応える。

「今日太に出来る事があるかどうかじゃなく、これは俺の仕事だって話。それに無茶させて怪我でもされたら明日美さんに合わす顔がないし」

 先刻拾ってもらったナイロンバッグ、それを今度は出入り口付近に置いていって欲しいと頼む。

 そうして。

 外からは視認不可能な切り離された空間に、滅ぼせるかどうか分からないまま対峙せざるを得ない敵と、自分自身。

 俯瞰して見るほどにぽつねんと孤独。

「拾えって、やるっきゃ騎士。まじ頼りねえ」

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 単純な力比べなら確実に負ける、おそらくは一番の狙いである逃走を許してしまう、蹴る殴るの格闘で消耗させた後に絞殺が円将の必勝パターンだが、その領域に引き摺り込んだところで相当のリスクが伴う。

 姉は、結界を理論に成していた筈、ならばその効果を持つ御札の作成も可能な道理だが、それを用意させるまでの頭が回っていなかった。或いは慢心と、怠惰の結果として。

 ならば現状の延長上、押さえ込んだままで息の根を止められたらそれが被害の拡大防止にも最善。

「さて、いよいよ冒険してもいい頃、か」

 じりじりと尻を置く位置をずらしつつエロテロリストの二代目就任を想定して大胆開脚、くらげに対し横座りから馬乗りの形に移行する。

 触手を一本、左手で掴んでみるが、途端に微動もしなくなればそれは意志も生命力すらも感じない安物のディルド、会話は不可能。

 笠状の部位を引き剥がす、もしくは引き裂く、触手を一本一本捩じ切り無効化していく、内腑が腐り落ちるよう念を込める、掌から熱光線が出るなら干乾びさせてもいいだろう。

 しかし想像すればするほどに、確信を以て有効と思い込める攻撃方法を絞り込めず、手を拱く、なにしろ相手は如何なるがどのような理屈を付けそのように定義したものか全く不明、そうした存在、再現性のない現象の認知を強要するもののなんと傍迷惑な事だろうか。

「目を覆わんばかりのブーメラン」

 最早お手上げ、未来永劫に自尊心を喪失する覚悟で逃走を許してしまおう、そんな弱気で無責任な考えに前頭葉を明け渡そうと円将が、目蓋を閉じ掛けたその時。

 ブルーシートの前に置かれたナイロンバッグに入れてあったスマホから、大音量で、イントロ一発で気力の湧くカンフル剤のような楽曲が流れ出す。

 河童だ。

 背後霊かのような顔をして今日太に憑いている河童が、勝手に円将のスマホを操作していたのだ、その楽曲を自らの入場曲とするべくに。

 見よ領空に銃が。

 君の住む御屋敷はとても立派ですね、10ドル貸しやがれください。

 まるでボディビルダーみたいにパンプアップした上半身の筋肉を誇示しながら河童が、円将に歩み寄ったかと思うと足蹴にして退かす、同時にくらげを、人間相手なら胸倉を掴むような要領で捕まえて立たせ、一本背負で投げ、立たせ、大外刈で投げ、立たせ、払腰で投げ、立たせ、蟹挟で投げ、上四方固で押さえ込み、ぐったりしたところを腕力任せに八つ裂きにし、そして最後にまた自らの筋肉を誇示した。

 足下にビルなどの模型を並べたら立派な怪獣映画、2分21秒の間の出来事。

 尻餅をついた姿勢で、きっと自分にだけ聴こえる歓声に応えている河童を唖然とした表情で見上げていた円将、ふと気配を感じ出入り口に視線をやり、ブルーシートの前に立つ彼の姿を目撃する。

 此羽だ。

 彼の、左手に装着されている紺の法被をまとったしろくまのマペットが口を開き、だみ声を発する。

「済まんかったのう六神くん、尻拭いなんざさせてもうて」

 彼の名は妬篭トロウ、自称此羽のメンター。

 右手のくまのマペットは茶色、その声は高音が心地好く澄み、耳に優しい。

「結果的にとても助かった、感謝している。と兄様は申しております」

 彼女の名は天宙アノソラ、此羽の妹。

 一方、出番を終えたならこの場に留まる理由もないとばかりに、河童が、此羽にグータッチを求め、彼が妬篭と天宙を外す間も急かすでもなく待ち、要求がところが果たされたなら歓声を浴び倒した余韻に浸るみたいな満足げな表情で、去っていった。

 そうして。

「だいたいの事の次第は分かったやろ」

 と、妬篭。

「理屈がところの説明はあなた同様に不得手、出来れば勘弁してほしい。と兄様は申しております」

 と、天宙。

「察しの通り同業や。けんど自分の商売の邪魔はせえへん、安心せえ」

「ただ、今回のようなボランティアならせざるを得ない性分、なのでお互いに協力が出来るならそれは是非ともお願いしたい。と兄様は申しております」

 とりあえず。

「えーと」

 危機は回避された、それも禍根も断ち切る最善の形で。

「こちらこそ。お願いします」

 ならば詳細な注釈のないままファイルに閉じて仕舞って問題はない。

 それよりも此羽の邪気祓いには瞠目する部分の幾つもあり、今後、交わる中で多くの経験値を得られるならそれこそはぐれメタル、事件の解決を経て頼もしい仲間を得た結果。

 ならば好印象を残すべくに、或いは反射的に、人たらし時代に得意としていた表情を円将が、繕って見せた。

「いろいろ勉強させてください」

 と。

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 海も川も危・険・領・域"デンジャーゾーン"

 人類に迫るサマーレジャー消滅の危機!!

『デスカッパ 対 吸血くらげ』

 そんな映画の撮影はされていなかったみたいに、邪気もその残滓すら見当たらない。そこは、ただの、連続通り魔が被害者から奪ったスマホを土中に埋め自らも命を絶っただけの、その事実を知ったとて感受し易いものももうなにも感じないであろう、工事現場。

 出番のなかった特殊警棒をナイロンバッグの底に仕舞うと、まるで日常。

 果たして。

 ブルーシートを捲り外へ出ると、隣の中華料理屋の前で今日太が、アーモンドチョコを手に待ち構えていた。店頭のサンプルに目を奪われてしまった、と言うのだ。

「市営の温水プールにさ、食堂みたいな喫茶店みたいな店が併設されてたじゃん」

「食券システムだったっけ。あれもちょっとメニューを選ぶ楽しさがあったな」

「そうそう。そんで、二時間プールで泳いだ後にそこで食べる中華そばが俺、小学生の頃は大好きでさ」

「格別に美味い訳でもないのに美味い、てやつね」

「夏休みに朝一で行って、とか、二時間泳いだ後に、とか、そういうのもなんかプラスされて美味いんだよね」

「値段も200円とか300円で。メロンソーダなんかも100円とかで」

「その中華そばの雰囲気だなこの店のラーメン、と思って。もう食うっきゃないと思って」

「なるほど、海も川も駄目になっても俺たちにはプールがあるって寸法か」

「え、どゆこと」

「どゆことでもない。餃子もいっちゃおうぜ、俺たち大人になったんだし、て話」

「じゃあもうがっつり夕飯じゃん」

「大事な事なのでもう一回」

「じゃあもうがっつり夕飯じゃん」

 とまれ。

「馬鹿だなー、今日一馬鹿な台詞だなー」

 慢心と怠惰を反省すべきと自らに言い聞かせつつも円将は。

「バカって言うなよ、それは本当の事だからバカって言うなよ」

 常に謙虚と緊張を心掛ける生き方が出来るほどの正しさを自分はもう持ち合わせていない事実を、改めて思った。

(’23.2.7)


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