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【読書記録】サラバ!

今回は、西加奈子さんの "サラバ!" です。


この本への記憶

私にしては珍しくハードカバーで持ちがちな (夜が明けるの時に書きましたね) 西加奈子さんの作品の、その中の一番初め、西加奈子さんとの出会いの作品です。

ハードカバーで上下二冊なんて、当時大学一年生の私にとって、だいぶ奮発している。アルバイトを始めた大学一年生の冬、初めて手にした仕送り以外のお金で、買った本。
大学生になって、自分の意志で日々を進められるはずなのに、まだその楽さ、楽しさに気が付いていない頃。親の庇護下管理下の日々の延長にいて、ひとり暮らしなのに実家時代のルールを律儀に守っていた頃。
その頃の私には、正直ちょっと難しくて、バイトの待ち時間等に吸い込まれるように読み進め、帰り道の冷たい空気の中、反芻しながら帰る日々がしばらく続いたことを覚えている。おかげで街灯の少ない暗い夜道も、怖くなかった。
一通り読み終わっても、分かったような分からないような感覚をずっと抱き続けて、でもなんとなく肯定してもらえる気がして、結局大学四年間、一年に一回は読み返していた。

改めて読んで

社会人になって3年が経とうとする今、改めて読み返したことには何か意味があったのだろうか。偶然性と必然性について考える。
転職をする同期を何人か見送り、友人の結婚式が増え、SNSには出産を経た地元の後輩たちのベイビーの写真が流れてくる。他人にとっての正解が、幸せが、必ずしも自分にとっての正解や幸せではないと分かっていても、揺れることはある。そんな時に、読み返せたこと。この本がそばにあること、あぁ、購入してくれた過去の私ありがとう。

この作品の語り手は、他人に巻き込まれることに諦めを覚えやり過ごしてきたが故に、他人からの視線に敏感だったが故に、揺れ続け、そして自分が揺れていることに気づくこと、向き合うことを避け続ける。

西加奈子さんの作品からにじみ出る、人間の弱さやどうしようもなさと、それを抱えて生きる強さや美しさ。その共存が、大好き。

自己の肯定

今になって、この作品がどれだけ私の考え方の根底を支えているかに気が付いた。

誤解を恐れずに言うならば、私は、自分のことが好きではない。特に自分の性格に関しては、正直嫌いと言ってしまってもいいほどである。
外では周りの目を気にして常識的な顔をして他人の世話を焼いて、”いい人” でいようとするくせに、身内の前ではその反動か、わがままで自分のペースが乱されることへのいらだちを隠すことが出来ない。一日の終わりに、外であったこと内であったこと問わず反省して、自分の中の嫌な自分を何度も発見しなおしては、落ち込む。もちろん好きでそんなことをしているわけではないから、それを辞めることが出来ない自分自身が損しているような気にもなる (ネガティブなことをつらつらとすみません、要するに卑屈なんです)。

ただ不思議なことに、自己肯定感、という点で言えば、とんでもなく高い自信がある。
私は上記にあるような面倒くさい私自身を、きちんと認めているのだ。
これには、間違いなくこの作品が大きく寄与している。今回読みかえして、私は “私が間違いなく私自身であること“ に、とてつもなく自信を持っているんだな、ということに気が付いた。
自分に自信があるのではなく、自分の自信のなさ含め、自分がそういう人間であることに自信がある、という感じなのだけれど、伝わるだろうか。

作中の好きなフレーズの中に、「今まで私が信じてきたものは、私がいたから信じたの」という語り手のお姉さんの言葉があるのだけれど、この通りなのだ。
私が傷つくのも、思い悩むのも、落ち込むのも、それは私がいるからで、そう思えばこそ、私はまた自分がここにいることを信じることが出来る。私の今までの人生を認めることが出来るし、今ここにいる私を認めることが出来る。

他人から見える自分、他人に見せる自分

もし身の回りにサラバの主人公、圷歩 (今橋歩) くんがいたら、私は彼をうらやんだり尊敬したりしてしまうと思う。外から見る (読む?) 限りでは、彼は他者との距離の測り方が抜群にうまいから。
壁を作っているようには見えず、ただし立ち入り過ぎず、波風を立てないようにうまく立ち回り、程よいポジションを確保している。近しくなったら見えてくるものがあるのかもしれないが、クラスや職場にいたら、「あの人、立ち回りうまいなー」と思ってしまうだろう。

自分に立ち返ってみると、これまで他人との距離感がいまいち分からずに、壁を作りすぎたり、逆に変なところで人を信じすぎたり、たくさん失敗を重ねてきた。
犠牲になった人、という言い方はおかしいけれど、嫌な思いをさせてしまっただろうなという人も多少なりいる。今の私だったらもっとうまくやれたのに、と思うことだって死ぬほどある。
そもそも、誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたり、そういうことが苦手で、出来れば平和でいたくて、ともすれば人と関わらなければいいのではないかと、思ってしまうような人間だ。
それなのにそういったことから逃げずにちゃんと自分の中で消化するようにしてこれたのは、間違いなくこの作品に出合っていたおかげだと思える (もちろん逃げてしまうこともあったし、まだ向き合えていない問題もなくはないけれど、そんな自分に気づいたからこそ前に進めているともいえる、そう思っている)。

糧です、人生の

この作品は、割と真面目に私の人生の糧です。
もっと大きな言い方をすると、自分の人生から逃げずに、自分の人生の責任を自分で負う覚悟を持たせてくれた作品 (いずれにせよ言い方が大げさになるけれど、まるごとちゃんと自分自身、自分の人生や感情を受け入れる覚悟、といった方が適切か?)。
自分の性格が嫌いだと気が付いていること、それでいいと思えていること、そういう自分を、私は案外気に入っている。
嫌いな部分もいつか手放すときが来るかもしれないし、その時にはそれが愛おしく感じることだってあるかもしれない。

補足

なんか上で偉そうなことを書いてますが、他人との距離というのは私にとって永遠の課題と言っていいかもしれないです。正解はないのだろうけど、その人と私との最適解を上手に選んでいけるようになりたい。もっと恐れずに他人を巻き込めるようになりたいし、もっと堂々と誰かを受け入れられる自分になりたいです。
人間としてのレベル上げ、まだまだ足りません。最終形態は矢田のおばちゃんみたいになりたい。どんな人も受け止められるよというオーラを放つ人間。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

スギ花粉にやられて、ここ二日くらい鼻呼吸がほとんどできません。
花粉症同志の皆さん、どうすることもできませんが、頑張って生きましょう。

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