【相笠の女#5】男と女の隠れ家

ひとけのない河川敷。
静かに流れる川の音。

朝空を待つ暗闇の中に、ぼんやりと灯が浮かんでいる。

灯の方へと近づく足音が、橋の下で止まった。

青いビニールシートで覆われた小屋がポツンと佇んでいる。
風に吹かれてやってきた優しい雨が、しっとりとシートを濡らしていた。


「兄さん、ショバを変えるなら事前に知らせておくれよ」

女は花柄の傘を畳みながら、小屋へと入っていく。
継ぎはぎだらけの段ボールの部屋が温かい。

「仕方なかったんだよ。あの公園は斜め向かいのマンションの住人がうるさくて、ピーポー君に通報しやがったから急遽ここに来るしかなかったんだ」

殺風景なワンルームの中央には小さなこげ茶色のちゃぶ台があり、その周りに二枚のせんべい布団が無造作に置かれていた。部屋の奥にある録音ボタンが壊れて部品がむき出しになっている小型のラジカセから、ノイズの効いた昭和ポップメドレーが流れている。

「兄さん、これ」

女はエコバッグから1cm程度の厚みのある白い封筒を取り出すと、誇らしげに小屋の主に差し出した。主の男は黒いフィンガーレスの軍手をはめた手を伸ばし、封筒を受け取った。

男と女は見つめ合い、にんまりと笑い合う。

「ご苦労さん」

男は女に労いの言葉をかけながら封筒の中をチラリと覗いた。

「ほう、こりゃ凄いな」

「あの質屋の番頭さんが今回はいい値にしてくれてね。しかも、今週は当たっちまったんだよ万舟券!」

「ハハッハッハハハッハ」

二人の哄笑の声を段ボールの壁と天井が全力で吸音する。

「そうだ、今日は乾杯セットを持ってきたんだった」

女はエコバッグの中からカップ酒とつまみを取り出す。

「なんだい、乾きもんばっかりだな」

「焦んなさんな、兄さんの好きなルマンドも買ってきたよ、ほら」

「そりゃ気が利いてるじゃねえか。やっぱり昭和の菓子が一番さ」

二人はカップ酒で乾杯し、チビチビと飲みだした。

「兄さん、そういえばあの公園に埋めたハジキ、忘れてきてないだろうね。もし子供たちが見つけて弾いたりしたら大変だよ」

「あいつらモノホンなんか見たことねえからな。大丈夫だ。ちゃんと持ってきた」

男は小屋の隅に隠れた深緑色のセカンドバッグに目をやり、女に視線で合図した。女は安堵で胸をなでおろす。

「そうだ」

女が急に立ち上がった。せんべい布団を蹴散らして慌てて小屋を出ていったかと思ったら、大きな薔薇の花束を抱えてすぐに戻ってきた。

「傘を畳んだときに、外に置き忘れちまったよ」

「なんだい、今日は俺の誕生日じゃないぞ」

「報酬だよ。さすがに生もんは質屋もお手上げだからね。でもいいじゃないか、この小汚い部屋を薔薇の香りでお清めさ。これ、何本あるか分かるかい、兄さん」

「数えてたら朝になっちまう」

「せっかちだねえ。99本だよ。99本の薔薇は永遠の愛の誓いなんだって。兄さんはあたしから永遠の愛を貰えるんだよ、ちょっとは喜んでくれなきゃ」

「臭くて眠れたもんじゃねえ」

「ひどいもんだよ」

笑い合う男と女。

男が桃の空き缶に水を入れ、女に渡す。
女は缶に薔薇を挿すと、ちゃぶ台の真ん中に置いた。

「ところで今回の金さんはどう後始末する?」

「そうだな。前回は児童養護施設だったな。子供ら、新しいパソコンたいそう喜んでたぞ。今回は被害者支援センターにでも届けるとするか」

「そりゃいい案だ」

「今回の家族は、どうだった」

「ああ、みんないい顔してたよ」

二人は頷き、優しく微笑み合った。

「兄さんの方はどうだい?」

二人の間に珍しく深刻な空気が流れる。

「夜が明けるのはもう少し先になりそうだ。この界隈に蔓延る闇は深いからな。でもその分光は眩しくなるってもんよ」

「助けが必要ならいつでも呼んどくれよ」

「おお、ありがとな」

二人の間に沈黙が流れた。

ラジカセから流れる小坂明子の『あなた』の甘いメロディが二人を包む。

男と女はちゃぶ台と赤い薔薇を挟んで見つめ合う。

目を細めて女を見つめ、何か言いたげな男。

待ちきれなくて男に上目遣いをする女。

「前々から言おうと思ってたんだけどよ」

男は奥歯に物が挟まったような物言いで話し始めた。

「な、なんだい急に。兄さんたらカップ一杯でもう酔っぱらっちまったのかい」

女は分かりやすくどきまぎする。

「いや、俺は正気だよ。ずっと思ってたことなんだ」

「やだよ、改まっちゃって」

少し赤くなった頬を両手で隠す。

『真っ赤な薔薇と白いパンジー』で男は覚悟を決めた。

「お前さん最近食い過ぎじゃねえか?ヨレヨレだったパンツがパツパツだ。そのうち飛べなくなるぞ」

女は目を丸くし、口をとがらせて男に反論する。

「なんだい、話しってそれかい。兄さんだってその皺だらけのシャツをどうにかしたらどうだい。シワシワの顔にシワシワのシャツじゃ、どこから鱗だか分からりゃしないよ」

「お前さん、今日こそ落とし前つけようじゃないか」

「望むところだ、兄さん」

思いもよらぬ男の告白から隠れ家が戦場に変わった。

ただならぬ空気が漂う。

腕まくりをして睨み合う。

女はちゃぶ台を部屋の隅へずらし、男は深緑色のセカンドバッグを取りに行った。

ファスナーを開け、バッグの中身を床にまき散らす。

半透明に白、青、黒、赤、金色のラインが入った色鮮やかなおハジキがジャラジャラと弾け飛んだ。

「何回戦だい」

「一発勝負だ」

愛の歌が終わりを告げ、ラジカセがジーカチッという音をたてた。
移りゆく時代のように46分テープのA面がB面に移り変わった。

中島みゆきの『時代』1975年バージョンのイントロとともに、二人の真剣勝負が始まった。

酒と薔薇の香りで充満した部屋から、おハジキの弾ける音が響き渡る。

あれから何時間過ぎたのだろう。知らぬ間に雨が止んでいた。

美しい朝焼けが河川敷を照らす頃、灯は消え、男と女の隠れ家も消えていた。遠音に響く高笑いの声を残して。

待ち焦がれた春の光へと向かって鳥たちが羽ばたき、二柱の真っ白な龍神雲が天に向かって舞い上がる。絡み合いながら自由に泳ぐ二柱の航跡がおハジキ色に煌めいている。

山頂に湧き出る水が大地を潤せば、新たな種が発芽する。
青葉の露が輝き滴るとき、眠け眼の虫たちが次々と目覚めてゆく。

巡りゆく息吹に乗って、今日もまた。

そう、それは、にわか雨とともにやってくる。
「だから傘を忘れちゃいけないよ」
街であの鮮やかな花柄の傘を見つけたら、あの女かもしれないからね。

最後までお読みいただき有難うございました!😊🙏