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「赤き月は巡りて」第1話(全9話)

【あらすじ】
想い合う二人の仲が引き裂かれたその時、夜空には真っ赤な月が浮かんでいた。二人は、次こそ結ばれることを願って輪廻転生を繰り返す。


第1章 赤き月が昇る夜


 まだ明けきらぬ薄闇の中、乾いた葉擦れの音がひんやりとした空気を震わせる。虫たちの声が重なり合う。
 シュッと風を切るかすかな音がして、すぐにトンと何かに当たった。
 それを合図にしたかのように、東の空が白み始め、鳥たちが目を覚ます。黒一色だった村や山の風景が色を取り戻していく。

 しかし村が目覚めるのにはまだ早い。

   *

「矢がたったぞ!」

 誰かの叫び声で村中の戸が慌ただしく開かれ、わらわらと人々が集まってくる。男たちは床から起き上がった姿のまま飛び出し、女たちも衣の前を合わせたり髪をなでつけたりしつつ出てくる。
 村人のすべてが一軒の家の前に群がっている。軒には一本の白羽の矢がたっていた。贄を出す家のしるしだった。

 月読つくよみにえ

 岩木村だけが続けている風習。とうにその風習に見切りをつけた近隣の村々では、このことを知っている者もすくないだろう。

 中秋のころ月にお供えをして宴を催すのは、どの村でもよく見られることだ。月読の祭もそうした月見の宴のひとつである。しかしそれは一種独特のものであった。通常、供えるものといえはすすき、女郎花おみなえし桔梗ききょうのほか、団子や里芋、枝豆、柿、栗といったところだ。しかし月読の祭ではこれに贄が加わる。

 贄は誰でも良いというわけではない。月読の掟というものがあり、それに沿って選ばれるのだ。
 さだめはこの世に生を受けたときに与えられる。それは月のない晩に産まれた女児。月の出ない晩などよくある。だから月のない晩に産まれる女児もひとりではない。その中でもその年もっとも早く産まれた子が、贄となるさだめを背負うのだ。

 さだめを負った者は、よわい十六で贄となる。ほとんどの場合、本人は知らされずにその日を迎える。伝えてはならないというきまりがあるわけではないが、なかなか宣告できるものではない。だから、幼い子供や同い年の子、あとはそれ以降に産まれた子は誰が贄になるか知らずにすごす。娘たちにとってそれは恐怖である。そして、十六前の娘を好いている男たちにとっても同じことだ。自分の思い人が贄だったら……と考えずにはいられない。

 親子三人が我が家の軒に刺さった矢を呆然と見上げている。

 両親は娘が生まれたときからこの日が来るのを知っていた。知っていて娘を育てなければならなかった。せめて情を持たずに済めばと思いながらも、むしろ人並み以上に愛しんでしまった。失われる月日の分まで。
 娘は十六になったのだから今年の贄は自分かもしれぬと覚悟を決めていたつもりだった。しかし、こうして白羽の矢によって確かなものとされると、昨日までの自分は選ばれないと高をくくっていたのだと思い知らされるのだった。

「ゆき……」

 娘を見つめる両親の目は既に涙がこぼれていた。
 娘は奥歯がガチガチと音が鳴るほどに震えていた。もちろん明け方の寒さのせいばかりではない。ひんやりと冷たいものが胸の奥で渦巻いている。

 覚悟を決めなくては。毎年誰かがやらなければならない務めなのだから。私が恐れや悲しみで嘆けば嘆くほど両親が苦しんでしまう。これは逃れられることではない。

 ただ、あの人に会いたい。

 娘は辺りを見渡して、月読の祭が終わったら夫婦めおとになると約束をした愛しい人を探したが、集まっている村人の中にその姿はなかった。

 ゆきは口を一文字に結ぶと、真っ直ぐ白羽の矢を見上げ、凛とした声で言った。

「謹んでお受けいたします」

   *

 あまりの寒さに市太は目を覚ました。
 日が昇る寸前はぐんと冷える。近頃は富に朝晩の冷え込みが増してきた。

「どういうことだよ、これは」

 寒いはずである。市太がいるのは山の中だった。しかも手足を縛られ転がされている。情けのつもりかむしろがかけてあるが、気休めにもならない。我が家のせんべい布団が恋しい。

 市太は縄を解こうともがきつつ、ここにいるわけを考える。
 昨夜は初めて男衆の集まりに呼ばれた。そこで酒を飲みながら翌日行われる月読つくよみの祭についての打ち合わせをしていたはずだ。
 この集まりに参加できてこそ一人前の男として扱われる。漸く呼ばれるようになった市太は、舞い上がって強くもない酒を水のように呑んだのだった。それでそのまま眠ってしまったのだろう。肝心の祭について話し合った内容は、なにひとつ覚えていない。
 それにしても、それが手足を縛られ山に転がされていることにはつながらない。いったいなにがあったのだろう。

 頭の中で絶え間なく鐘を突かれているような痛みをこらえながら、ずるずると記憶の糸を手繰り寄せる。

 市太は徐々に昨夜のことを思い出し始めた。

 月読の祭が終われば、今年も嫁入りが増えるなどという話になったのだった。
 岩木村の娘たちは十六の年の月読の祭が終わるまでは嫁に行けない。贄に選ばれているかもしれないからだ。贄は嫁入り前の生娘と決まっている。

 お前も誰か貰う当てがあるのか、とからかい半分に聞かれた市太は浮き立った心で答えた。

「ゆきと一緒になるつもりだ」

 刹那、場が静まり返ったのは気のせいだっただろうか。その後の記憶がない。気がつけばこの有様だ。
 いったいおれが何をしたというのだ。このままでは月読の祭にも参加できないではないか。

「……まさか」

 そうか。祭が終わるまでこうしておくつもりなのだ。おれが今年の贄を逃がさないように。

 その考えは間違いないと思えた。きっと初めは単におれを男衆の仲間に入れるために呼んだのだろう。だが、ゆきを嫁に貰うと言ったものだから、慌てたに違いない。そして、用心のために無事に月読の祭が終わるまで、贄であるゆきにおれを近づかせないつもりなのだ。

「そうはいくものか」

 なんとしても逃がしてやる。贄になどするものか。

 辺りの石をざっと眺めて物色し、鋭く欠けた部分のある大きめの石に向かって芋虫のごとく這い寄る。さっそく手首の縄をこすりつけるが、後ろ手にされているため、なかなか思うような早さでは動かさせない。だが、ほかに方法も見つからない。
 手首の皮がむけ、血の匂いが立ち上ってくる。掌をつたうのは汗なのか血なのか。左右に引っ張りながら縄をこすりつける。

 次第に日が高くなってきた。焦りと疲れで縄をこする位置がずれ、自らの腕をきずつけてしまう回数が増える。歯を食いしばり呻きながらただひたすらに縄を切ることに専念する。
 よってある細い一本が切れた感触があった。よし、いいぞ。こすり付ける力を更に強める。

 ゆき、待っていろ。

 市太がようやく縄を外せたのは、空が藍色に染まるころだった。山の中は既に闇が訪れている。鳥はねぐらに帰り、秋の虫たちが騒々しいまでに鳴いている。

 自由になった両手を握ったり開いたりしてみる。どうにか動くようだ。手首は傷口が見えないほどに血が流れ続け、二本の手は深紅に染まっているが、闇の中ではそれすらもわからない。
 市太は衣の裾を歯で裂くとできるだけきつく手首に巻いた。しびれて、感覚のないその手でどうにか足の縄を解く。

 ここはどの辺りなのだろう。

 日ごろ、山は必要のあるところしか足を踏み入れない。山の神の怒りに触れるわけにはいかないからだ。そんなことになろうものなら、岩木村のような小さな集落はたちまち消え失せてしまうことだろう。都などで崇められている神仏よりよほど恐ろしい。贄を捧げなければ鎮めておけないほどに。

 夜の山は音が大きい。虫の声や木々のざわめきが山全体を震わせる。
 その音に隠れるようにして、かすかに水の流れる音がする。川を辿っていけば水汲み場に出られる。そこまで行けば夜の闇の中でもどうにか村への道がわかるかもしれない。市太はその音だけをたよりに歩き始めた。

 ゆき。

 市太は何度目かの遠のいた意識を取り戻した。
 川を見つけ下っていっているが、歩みは遅々として進まず、どのくらい進んでいるのか見当もつかない。手首の傷は血を流し続け、巻いてある布から滴り落ちるほどである。意識は朦朧とし、足を前に運ぶのもおぼつかない。またしても崩れるように転倒する。

 ゆき。

 ごろりと仰向けになると、闇が迫りくる。空には赤く大きな月。一迅の強い風が木々の葉を激しく揺らしつつ、山の上から吹き降ろしてくる。

 すまない、ゆき。ここまでだ。いつかまたどこかで。

 風のあとには川に一筋の赤い流れがあるだけだった。

   *

 市太の声が聞こえた気がして、ゆきは顔を上げた。
 しかし、目に映るのは木漏れ日が美しい山の木々だけだった。

 身を清めるため、ゆきはひとり川を目指していた。いつもの水汲み場より上流に向かう。禊なのだから、暮らしに使う水と同じというわけにはいかない。
 ゆきは白装束のまま川に入っていく。まだ凍えるほどではないが、時折ひやりと冷たい水が肌をなでていく。身が引き締まる。

「わたしは月読の贄」

 声に出してみる。

 一度覚悟を決めてしまうと心は静かだった。こんなに穏やかな気持ちになったのは初めてかもしれない。恐れや不安は石舞台にこの身が捧げられたときになって再びやってくるのではないかと思えた。今は村のために身を捧げる選ばれし者であるという誇らしさと満足感に包まれている。

 それでも、やはり気にかかるのは市太のことだ。こんな大切な月読の祭の日に、どこへいってしまったのだろう。今宵が別れとなるのに。きちんとお別れをしたいのに。

 市太……。

 山の中の石舞台。台座の様な平らな岩の上で、ゆきは白装束をまとって正座をしている。
 震えが止まらないのは寒さのせいではないのだが、ゆきは掌に息を吹きかけるしかなかった。
 目を閉じ、市太の姿を思い浮かべる。市太のやや高めの声を思い浮かべる。市太の骨ばった手を思い浮かべる。市太の……。

 ゆき。

 市太に呼ばれた気がして、はっと目を開ける。けれどもあるのは闇ばかり。それと松明と。
 ふと見上げると、木々の枝が開けた部分から空が覗いている。

 そして赤く大きな月。

 そのとき、ぶわっと一迅の生ぬるい風が吹き、松明の炎を残らず消した。
 ゆきは我が身の最期の時が訪れたのを知った。

 市太、いつかまたどこかで。

 風のあとには何もない石舞台だけが残った。



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