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「まがり角のウェンディ」第14話(全18話)

Ⅳ ー ⅰ

 二十年。この二十年の記憶はくすんでいても、二十年前の記憶は思い出と呼ぶには鮮やかすぎる。直視できないほどに眩しく、強い痛みを伴う。
 あの頃よく見た光景が、線を結ぶ。

 小さな背中が床に広げた手作りの本に覆いかぶさっていた。口を真一文字につぐみ、真剣な表情でページをめくる。十六時過ぎに保育園から帰ってきてからというもの、本にかじりついたままだ。
 そんな娘の様子を、信也は、洗濯物を畳みながら眺めていた。小学校入学前で黙読ができるとはたいした子だと、静かに読みふける姿に誇らしさを覚える。

「ねえねえ、お父さん」

 読み終えた本を胸に抱えて真っすぐ見上げてくる。

「ん? どうした?」
「このお話の『あみちゃん』って、わたしだよねえ?」
「そうだ。『あみちゃん』はかわいくて賢い子なんだぞ。そういうお話だったろ?」

 亜美は満足そうに、「うん」と頷いた。
 信也が亜美のために書いた童話は、本人に好評だった。毎日読んでは、主人公が自分であることを確かめている。

「わたしね、お空を飛ぶところが好きー」
「ふわふわ浮いて散歩するところだな?」

 信也が亜美を抱え上げると、亜美は、「きゃあ」と楽しそうに叫んだ。

「お話の中の『あみちゃん』とおんなじだね」

 信也は緩やかに膝を屈伸して高さを変えながら室内を歩き回った。
 亜美の笑い声が弾む。
 我が子にこれほど楽しんでもらえるのなら、ほかの誰にも評価されずとも満足だ。信也はその思いを噛み締める。

 かつて信也は小説家を目指していたが、多くの者と同じく、望まぬ結果だけを積み重ねた。それでもペンを置くことはできず、企業広告を主としたフリーライターとして細々と書き続けている。
 笑いすぎて息切れし始めた亜美をそっとおろす。

「ねえ、お父さん。もうすぐお母さん帰ってくる?」

 笑みが貼りついたままの顔を向けて亜美が問いかけてきた。
 在宅ワークの手前、信也が家事全般を担当し、妻の十和子は独身時代からの仕事を続けている。経済的に一家を支えているのは十和子の収入だった。

「そうだなあ、あの時計の長い針がぐるぐるーと二回まわったら帰ってくるかな」
「わたし、まわす!」

 そう言うなり、亜美はダイニングの椅子を壁時計の下へ引っ張っていこうとする。

「こらこら。危ないからここに座って。お父さんがこの洗濯物を全部畳んで、クローゼットにしまって、ご飯を作ったら、時計の針は二回まわってお母さんも帰ってくるよ」
「えー。いっぱいあるー」
「そうだなあ。いっぱいあるなあ。じゃあ、亜美に手伝ってもらおうかな。そうしたら早く終わるかもしれないぞ。どう? お手伝いしてくれる?」
「うん! する! お手伝い、する!」

 亜美は信也の隣に正座をし、ぎこちなくタオルを畳み始めた。亜美が床に置いた本をひとまずテーブルにでもあげておこうと、信也は自作の本を手に取った。そして思う。最高の読者を手に入れたいまとなっては、小説家に対する憧れはすっかり失せたと言えるだろう。虚勢ではなく心からそう思えるのだから、端から大した憧れではなかったのかもしれない。もしくは、十和子と亜美という家族を得て満たされているせいかもしれない。

「あっ、だめー」

 本をテーブルの天板に乗せた途端、亜美が立ちあがって本を奪い去った。

「これが終わったらまた読むの!」

 大事そうに本を胸に抱え、信也を睨んでいる。

「そうか。だめだったか。ごめんごめん」

 やわらかな髪を撫でながら謝ると、亜美は、仕方ないなあ、とでも言いたげに大袈裟な溜息をついて、「いいよ」と許してくれた。
 そろそろペースを上げないと食事の支度が整う前に十和子が帰ってきてしまう。ハンカチやタオルなどを亜美の前に押しやり、残りの洗濯物を手際よく畳んでいく。

 信也は家事が嫌いではない。一方、十和子は家事が不得手で、外で働くことのほうが好きらしい。二人にとって現状は理想的な役割分担といえた。
 文章にかかわる仕事をしつつ家事をこなし、娘と過ごす時間もあるのは本当にありがたいことだ。だが各々の役割があるとはいえ、それを超えて妻子に貢献したいという思いもあった。いまは経済的には十和子に頼りきりになっているが、いつかは大きく稼ぐことを想像しないと言ったら嘘になる。そうはいっても、あいにく、しがない無名ライターにいまだその機会は訪れない。

 日々の暮らしに不満はないものの、歯痒い思いを抱えていた矢先、大手クライアントからの仕事が入った。
 こんな機会はまたとないかもしれない。通常の依頼ならばメールのやり取りで済ませてしまうのだが、今回ばかりは先方の意向もあり、こちらから出向いて打ち合わせをすることになった。いよいよ失敗は許されない。なんとしても契約を取りたかった。

「いやあ、ご足労いただいてすみませんね。うちではいつもライターさんに商品を直にご覧いただいているんですよ。こういったキャラクター商品はなかなか成人男性では触れる機会もないかと思いましてね。仕様データや競合商品との比較資料などはメールでお送りさせていただくとして、やはり該当商品について充分にご理解いただかないと、こちらといたしましてもね……あ、でも富田さんはご存知だと伺ったのですが……ああ、そうですか、お嬢様が。いやあ、それは嬉しいですねえ。当社といたしましてもね……」

 これは長くなるぞと腹の中で思う。早々に信也は、饒舌な広報担当者ととことん付き合う覚悟を決めた。この案件がうまくいけば、家庭だけでなく社会にも居場所ができるに違いない。膝の上でひそかに拳を握り締めた。

 小さな打ち合わせスペースのテーブルには、ピンク色を基調としたキャラクターグッズが所狭しと並んでいる。
 資料はメールで送ってくれるというから前面に打ち出すべきセールスポイントはじっくり検討するとして、依頼主が期待している広告文の方向性を見極めなければならない。テーブル越しに唾を飛ばしながら熱弁を振るう彼の話を聞くのも情報収集のうちだ。
 そんなことを思っている自分に気づくと、たちまち高揚感に満たされた。

「とはいいましてもね、手にするのはお子様でも、ご購入されるのはお父様やお母様ですから、そのあたりをターゲットとした文章にしていただかないと」
「はい、それはもちろん承知しております」

 目礼をするふりをして、さりげなく腕時計に視線を落とす。保育園の迎えの時間が迫っていた。打ち合わせが予想以上に長引いている。

「おや、このあとご予定でも?」

 ひそかに時間を確認したはずが、しっかり相手の目に留まっていた。

「あ、これは失礼しました。実は娘を保育園に預けておりまして。恐縮ですが、電話を一本かけてきてもよろしいでしょうか」

「ええ、どうぞどうぞ。あ、まだお見せしたいものがありますので、いまのうちに取りにいってきます。私はしばらく外しますので、電話でしたらこの場でどうぞ」

 担当者が退席するとすぐに保育園に電話をかけた。預かり時間延長の了承を得て人心地がつく。電話越しには亜美の声が聞こえていた。

「すみません、少し亜美と話せますか?」
『はい、いいですよ。少々お待ちくださいね』

 保育士が、「亜美ちゃん、お父さんがお話したいって」と声をかけているのが聞こえてくる。珍しい出来事に怪訝そうな亜美が電話を受け取る気配がした。

『もしもし。お父さん?』

 いつもは他の子よりも早いお迎えだ。延長保育となれば日も暮れてしまうし、残っている子も少なく、さぞかし心細い思いをするに違いない。
 信也はできるだけ明るい声を出した。

「もしもーし。富田亜美さんですかあ?」
『あっ。ほんとうにお父さんだ! お父さん、どうしたの?』
「今日はお仕事でお迎えが遅くなりそうなんだ」
『お父さん、今日はお家でお仕事してるんじゃないの?』

 亜美の声が少し小さくなった。
 信也はテーブルに並ぶキャラクターグッズの中から手のひらサイズのマスコットを摘まみ上げた。

「お父さんなあ、すごいところに来ているんだぞ」
『すごいとこ? どんなとこ?』
「亜美の好きなアニメがあるだろ?」
『旅うさラビちゃん?』
「そうだ。そのラビちゃんの会社に来ているんだ」
『へえ! すごいねえ!』
「だろ? だからいい子で待っているんだぞ?」

 寂しさよりも興味が勝ったらしく、亜美は元気に、「ばいばーい」と言って電話口から離れた。

 再開した打ち合わせが終了した頃には、すっかり日が落ちていた。ビルを出たところで保育園に一報を入れようとした瞬間、手の中にあった携帯電話が鳴った。信也は思わず取り落としそうになり、慌てて耳に押し当てた。
 電話の主は保育園だった。先ほどの保育士のようだが、名乗ることすら忘れるほどに動揺していて話は要領を得ない。

「おい、しっかりしてくれよ!」

 つい声を荒げた。数人の通行人が視線を寄越したが、構っている余裕はない。
 受話口からは嗚咽が聞こえ始めた。
 駅へ足を向けつつ携帯電話に向かって声を張り上げる。

「それで、亜美は……病院はどこなんですか!」

 病院名を聞くなり、信也は走り出した。

 間に合わなかった。間に合うはずがなかった。連絡を受けたときにはすでにこと切れていたのだ。電話はそう伝えていたのだ。
 だが、自ら確かめるまでは信じるわけにいかなかった。
 受付で案内されたICUに飛び込むと、亜美がベッドに寝かされていた。亜美は、当初は装着されていたであろう医療機器をすべて外され、ただベッドに伏していた。

「亜美!」

 薄い布団の上から小さな体を抱き締めた。冷たいわけでもないのに、抱き心地がまったく違った。亜美の形をした人形だった。物体だった。
 出血も傷もなく綺麗な肌だった。仰向けに寝かされているため眼窩に血液が溜まり、薄っすらと痣のような色が浮き出ているくらいだ。それでも生者とは明らかに異なる肌に見えた。どこがどう違うのかまったくわからないにもかかわらず、触れずとも質感が違うであろうことは明らかだった。シリコン素材のよくできた人形にしか見えない。あまりに精巧な人形だから間違われただけではないのか。本物の亜美はいまも保育園で信也の迎えを待っているのではないか。そう思えてならなかった。にもかかわらず、目や鼻から流れ出すものは留まることなく、頭が内側から膨張する感覚が続いていた。

「亜美! 亜美! 亜美!」

 ひたすらに名前を呼ぶ。返事はないと知っているのに、なんの反応も見せない亜美に焦れ込む。亡骸に突っ伏して泣き叫ぶ。
 頬を撫で、腕をさすり、手を握ろうとしてようやく気づいた。その手はすでに握られていた。先に到着していた十和子がベッド脇のパイプ椅子に腰かけ、両手で亜美の手を握っていた。十和子は静かに涙を流している。目が合ったものの互いにかける言葉もない。信也は再び亜美の頭部を抱え込んで声をあげた。

 小さな病室を医師や看護師、警察官が激しく出入りする。中には交通鑑識の活動服を着た者もいる。顔を確認する余裕もないが、五、六人の警察官がいるようだ。
 一人の警官が近寄ってきて、「先ほど奥様にはお話したのですが」と前置きをしてこの状況の説明を始めた。

 亜美は信也との通話後に園を抜け出して車に撥ねられたという。保育士によると、亜美は自分の父親がどれほどすごい仕事をしているのか熱弁を振るっていたから、その現場に行こうとしたのだろうとのことだった。その途中で事故に遭った。いなくなったことに気づいた保育士たちが亜美を探し始めてすぐの事故だった。
 電話をしたとき仕事の話はしたが、その会社がどこにあるのかなど亜美にわかるはずもない。この子はいったいどこへ向かおうとしていたのだろう。いまさら考えても詮方ないことだ。

 警察官が立ち去ると、入れ替わりに医師がやってきた。こちらもまた、「奥様にはお話したのですが」と前置きをする。
 いつの間にか十和子の姿が消えていた。同じ話を二度も聞かされるのがつらいのだろうと痺れた頭にちらりと浮かび、すぐに消えた。

「MRIを撮るまでもなくCT画像だけで……脳挫傷からの出血……多量の、脳内血腫……脳幹……損傷が激しく……」

 目の前にいるのに、医師の言葉は途切れ途切れにしか信也の耳に届かない。届いたいくつかの言葉も頭の中では意味をなさなかった。医師のほうでも信也に理解させることは諦めている節がある。手続きであるから話しているだけに見えた。
 医師の退出を待っていたように十和子が戻ってきたが、やはり二人の間に会話はない。
 看護師が治療の際に脱がせた服を持ってきた。透明のビニール袋に空色のワンピースが入っている。
 去り際に看護師は、ベッドを使えるのはあと一時間ほどでその後は葬儀社へ引き渡さなければならない、と告げていった。
 病院というところは命あるものだけしかいられない。葬儀の手続きとは、遺されたものを現実につなぎ留めておく儀式なのではないかと思った。

「……葬儀屋さんへの連絡は済ませたわ」

 十和子が最初に発した言葉はそれだった。信也は声でも仕草でも返事をしなかった。十和子は亜美の額にかかる前髪を人差し指でそっとのけながら、呟いた。

「即死……亜美が少しでも苦しまないで済んだならよかったわ」
「よかった? そんなわけがあるか。助からなかったんだぞ」
「わかってるわ。それでもどうにかして納得しようとしているんじゃない」
「納得できるわけないだろう」
「それでも……だって、もう……」
「納得なんてできないんだよ……あのとき、僕が迎えにいってさえいれば……僕のせいだ……僕の……」

 わかっていた。納得しようとしまいと、事実は変わらない。
 十和子はハンカチで顔を覆って肩を震わせた。
 信也は、亜美の頭部を抱えて何度もその名を呼んだ。


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この小説は、五条紀夫と霜月透子の合作です。

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