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「赤き月は巡りて」第2話(全9話)

第2章 燃える空


 今までにもう何通くらい書いたことだろう。女学校ではことあるごとに慰問文を書かされる。
 先生は「真心を込めてかきなさい。送る相手が違うからといって毎回同じ文章をかかないように」と険しいお顔でおっしゃる。
 そうは言っても相手は見ず知らずの男性なので、毎回同じようなことを書くしかない。ところどころ違う文章を差し込むだけだ。

「根岸飛行場へ出勤する女性事務員は美しくモダンな人ばかりです」とか「滝頭の魚屋の娘がとても歌がうまいとの評判です」とか横濱を知らない人にしてみれば面白くもなんともないだろうことをつらつらと書いたりした。

 封筒には差出人として女学校の住所か私の住所と名前を書くけれど、返事がきたことは一度もない。こちらも戦地の兵隊さんの志気を上げるための義務だと思って書いているから、そもそも返事など期待していない。

 ところがある日、担任の先生に呼ばれて教員室へ行くと、一通の封書を頂いた。しわや折り目がついていて長旅をしてきた軍事郵便であることが一目でわかった。
 差出人は「木内義男」と力強い筆跡で書かれてあったが、知らない名前だった。しかし宛名は「脇カヨ様」となっているので、私宛に書かれたものに違いない。

「以前あなたが出した慰問文へのお返事です。兵隊さんのご家族が近くに住まわれているようなので、親御さんと相談してごらんなさい」

 先生がそうおっしゃった。

 検閲だけでなく、当然先生も目を通されている。私は既に開封されている封筒から便箋を取り出し、その場で文面に目を走らせる。

 すると、なるほど、そう遠くもない所にお宅があるらしい。自宅にも手紙を送っているが、きちんと届いているか心配なので、もしよかったら自分は元気にお国のために励んでいると伝えてほしい云々とある。

 見れば差出人の部隊名は検閲で黒く塗り潰されている。どんな重要な部隊なのかわからないが、家族宛に送ったものもこれでは返事の出しようもないではないか。届いたかどうか心配になるのも無理もない。

 帰宅するとさっそく父にその手紙を見せた。
 父は一年前に左肩を負傷して帰国し、出征前と同じ市役所の仕事に戻っていた。その翌年、母が風邪をこじらせて帰らぬ人となり、歳の離れた弟は学童疎開で福島に行った。なので今は父と二人暮らしだ。

「カヨ、明日はお休みをしなさい」

 読み終わった便箋を丁寧に封筒にしまいながら父が言った。

「すぐにでも木内さんのお宅を訪問しよう。そして、この手紙を差し上げてこようと思うがいいな」
「はい。もちろん」

 私は父の素早い決断を誇りに思った。誰だって自分のうちのことだけでも精一杯なのに、よそ様のためにすぐ行動できる父はとても立派で頼もしく見えた。

 私のうちがある磯子区と木内さんのお宅がある南区は隣り合っている。とはいえ、往復することを一日がかりだ。父と私は大岡川に沿って歩いて行くことにした。

 慰問文の返信とはいえ、男性から手紙を頂いたのは初めてのことで、先生から受け取ってからずっと胸の辺りがムズムズしている。そんな様子が父にも伝わってしまうのではないかと思って、私はことさらまじめくさった顔をして、兵隊さんのお力になるためにご実家に伺うのだと自分に言い聞かせていた。

 湘南電気鉄道の上大岡駅辺りまでくると、一面に水田が広がっている。いや、水田だったらしき土地というべきか。男手がないせいか、生活が苦しいせいか荒れてしまっている。

 それにしても我が家の辺りと比べるとのどかな眺めだ。

 そののどかな風景に突如当世風の建物が現れ、「あれはなぁに」と聞くと「横濱刑務所」と父が答えたので、一瞬耳を疑ってしまった。玄関前の泉は濁ってはいるもの、あまりにも立派な佇まいなものだから、てっきり女学校かなにかだと思ったのだった。
 父は笑いながら「戦争前は、あの泉には大理石上のブロンズの熊があって、口元から水を出していたものだよ」と言うものだから、私はますます驚くばかりだった。

 すぐ隣には桜並木があり、日野の墓地の参道となっているようだ。手紙によると木内さんのお宅は墓地の反対側にあるらしいが、父も墓地敷地内の道まではわからないということで、鎌倉街道を進むことにした。

 ぽつりぽつり建っている家。同じ横濱でもこの辺りは田畑が多いため土のにおいが強い。なんだか戦争中だということを忘れてしまいそうなほどなにもない所だ。

 墓地の山の反対側に回り込んだ辺りで、いよいよ目的地を絞らなくてはならない。手っ取り早く地主に聞けばわかるだろう、と街道から逸れて畑の向こうに見える大きな屋敷を目指した。

 果たしてそこが木内邸だった。

 「ごめんください」との父の声に姿を見せたのは大きなおなかを抱えた女性だった。初対面の私たち親子を見て首を傾げる姿は愛らしく、同性でありながらドギマギしてしまう。

 私は父の数歩後ろに控えており、父とその女性が静かに語る言葉は聞き取れない。しかし、女性が両手を口元に当てて目を潤ませたので、例の手紙のことを伝えたのだとわかった。

 父はこちらを振り返り「お前はそこで待たせていただきなさい」と一声かけると、その女性に中へ案内されていった。

 私に届いた手紙なのに、と蚊帳の外に追い出されたことが面白くない気分で庭先を勝手にうろうろ歩き回った。

 あの女性は木内義男さんの何なのだろう。出産のために里帰りしている妹さんだろうか。手紙には家族がいるとしか書いてなかったので、どのような家族構成なのか、さっぱりわからない。少なくとも母親ではない。

 日本が鬼畜米英を破って戦争が終わったら、義男さんは帰国して私を訪ねてくれるかしら。
 部隊名も地域も検閲で塗りつぶされていたから、どこの国で戦っているのかわからないけれど、遠いどこかの国で手にした見知らぬ女学生からの慰問文が、我が家の近くからだと知り、つかの間懐かしさに浸ったことだろう。慰問文を書いた女学生にも思いを馳せたに違いない。

 とたんに私はその慰問文にどんなことを書いたのかが気になりだした。いけないことだけれど、どこか書かされているというような気分で、あまり心の込もった内容ではなかったはずである。もっと心を込めて書けばよかったと今更ながらに悔やまれ、さっきまでのウキウキした気分もどこへやら、今度は涙が溢れてきた。

 やがて、垣根の向こうからくすくすとこらえるような笑いが聞こえてきた。
 人様のお宅の敷地内だったことを思い出し、慌てて涙の跡をごしごしとこすった。

 すると、笑い声はついにこらえられなくなったのか、姿を現した。すらりと背の高い、涼しげな顔立ちの青年だった。

「せっかく百面相ができるのに、そんなにこすったら、のっぺらぼうになっちゃうよ」

 なんと、ずっと見られていたのだ。
 義男さんとの出会いを想像してにやけていたのも、慰問文の内容を後悔して苦い顔をしていたのも、思いが強まって泣いてしまったのもすべて見られていたのだ。
 私は耳まで熱くなるのを感じながら、これもまた百面相のひとつになってしまうと思ったりした。

「君が兄から手紙を受け取ったんだね」
「あ、弟さんなんですか」

 木内邸なのだから、家族がいて当たり前である。誰もいないつもりで人様のお庭をうろうろしていたのがいけないのだ。

「すみませんでした」

 思わず謝ると、青年はまだ笑顔を見せながら「なんで謝るの?」と言った。

「わざわざ訪ねてくれてありがとう。兄も地名が近かったからって遠慮がないよね」

 私はぷるぷると首を横に振る。

「姉さんが泣いちゃってさ。君のお父さんはもう少し席を立てなそうだ」
「お姉さん?」

 先ほどのおなかの大きな女性のことだろう。この青年より年上にはとても見えなかったけれど。

「ああ。義理の姉だよ。兄の、義男のお嫁さん」

 パンッ。私の中で紙風船の割れるような乾いた音がした。初めての恋は出会うよりも前に一瞬で敗れた。

 よほど唖然とした顔をしてしまったのだろう。青年はまたしても笑う。そして私はまた赤くなるのを自覚した。

「君は、なんて言うか……とても面白いね」

 ……けしてほめ言葉ではないはずだ。

 落ち込んでいると、以外にも青年は興味深々の眼差しで私を見ている。

「ああ、僕は義男の弟で、義之と言います」

 突然思い出したように名乗る義之さんにつられて、私も「脇カヨです」とぺこりとお辞儀をする。

 顔を上げるとまっすぐこちらを見ている義之さんと目があって、なぜか二人揃ってエヘヘヘヘと笑う。
 なんだかこの人の世界では戦争など起きてはいないのではないだろうか、と思わせるほど穏やかな笑顔だ。

 義之さんとはもちろん初対面だけれど、以前からよく知っているような気がしてならない。どういう人なのかわからないのに、出会うべくして出会ったとしか思えない。今までの私はこの人に出会うためにあったのではないかと思うのは、思い込みが激しすぎるだろうか。

「カヨさんはぼくのことを覚えているかい?」

 たった今考えていたことを見透かされてからかわれたのかと思ったが、義之さんは真剣な面持ちをしている。さては本当にとこかでであっていたのかしらん、と思ってはみたものの、歳の近い男性とはほとんど接点がないのだから、出会っていたならすぐにわかるはずである。

 私が困って首を傾げると、義之さんは淋しそうな笑顔を見せた。

「じゃあ、赤い月が出ていたのは覚えているかい?」

 さて、いったい、いつの月のことだろう。確かにまれに薄気味悪いほど赤く大きな月が出ていることがあるけど、そういうことではないだろう。特定の赤い月のことを言っているのだ。

「申し訳ありませんが、人違いでは……」
「いや。そんなことはない。うん、まぁいいよ。もし思い出したら、会いにきてくれないか」

 私はわけがわからず頷いた。


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