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私だけのヘアゴムをつくるため #映画にまつわる思い出

金曜ロードショーで放送されるたび、最後まで見てしまう作品がある。
それが「千と千尋の神隠し」だ。

初めて映画館で見たのは小学生の頃。
父と弟と一緒に、自転車を漕いで映画館まで向かった。
どうやら父はジブリ作品の中でも特にこの映画が好きで、ガラケーのストラップにカオナシを嬉しそうにつけていたのを覚えている。

あれ以来何度も見た。物語も展開もわかる。セリフも少しは覚えてる。
それでも始まったら不思議と見入ってしまう、そんな魅力が詰まった作品だ。


物語の終盤。栞を挟んで、いつでも読み返したい言葉がある。

それはハクが盗んだ判子を返しに、千尋やカオナシたちが銭婆の元へ訪れるシーンでのセリフ。

「魔法で作ったんじゃ何にもならないからね」

銭婆も湯婆婆と同じく、魔法が使える。
だからずっと座りっぱなしでもご飯は目の前にやってくるし、書類は整理されるし、部屋が散らかってもすぐ元通りにできる。
ヘアゴムだって、少し指を動かせばひょいと出来上がるに違いない。

でも、銭婆の暮らしは違った。
自分の足で歩き、自分の手で扉を開けて、お茶をいれ、お菓子を作っている。
きっと、掃除でも洗濯でも魔法を使わないはずだ。

だって、魔法で完成させてしまったら、そこにあるのは結果だけだから。

千尋のために、カオナシたちと糸を紡いでヘアゴムを作った銭婆が告げたこのセリフは、不安でいっぱいになった時に思い出している。


文章を書くことは好きだけど、同時にしんどさもある。
手っ取り早く、感じたことがそのまま言葉になればいいのに、いざキーボードを前にするとうまくできなくて、自分に対しての苛立ちが募ってしまう。
思ったことは口の中まできているのに、言葉として表に出すとき、どの言葉がしっくりくるかでよく悩む。言葉は出てきても繋いで文章にした時に間違ってないかと不安になって、結局また悩む。
結果、悩み疲れて口の中にいたそれらは、外に出るのを諦めて喉を通り、心臓に戻されていった。

あーあ。魔法が使えたらいいのに。
思ったことがそのまま、きれいで正しい文章になったらいいのにな。

そんな時、ふと、銭婆のセリフがよぎる。

「魔法で作ったんじゃ何にもならないからね」

銭婆は、カオナシたちと協力して糸を紡いでいた。千尋のために。一本一本、丁寧に。
カオナシたちは、糸の紡ぎ方をこの時初めて知ったはず。編み方や結び方も。
そんな想いや過程も一緒に編み込まれたヘアゴムは、なによりもきらきらして見えた。


もしも魔法が使えたら、私は思いを言葉にする苦労を知らなかった。
気持ちは人それぞれ体の中にあって、表に出す手段のひとつとして言葉がある。でも気持ちを言葉にすることは簡単なようで難しい。
なかなかうまくいかなくて自己嫌悪した時に味わったこの痛みは悔しさや、もどかしさ。
この苦しみは、魔法が使えなかったから知ることができた。

もしも魔法が使えたら、自力で探し出した言葉と想いを結びつけた時の気持ちよさを知らなかった。
まるでパズルがぴったりと当てはまった時のような、そしてそれがひとつの大きな絵になった時の達成感。
そのパズルを見た誰かが「素敵だね」と言ってくれた時のこの上ない嬉しさ。
苦しさの先にある喜びは、魔法が使えなかった味わうことができた。


だから苦手でも諦めたくない。言葉にして表現したい。あなたに届けたい。そのために自分と向き合いたい。

そうだ。私は、書くことが好きなんだ。


みんなに魔法が使える世界だとして。
魔法の力は平等に結果という料理をすぐに出してくれる。
自分の手で作ったら、魔法で出すよりも時間がかかるだろう。味も完璧じゃないかもしれない。
でもその中には、魔法で出した料理以上に大切ななにかがつまっている。
その味は、みんなが同じ魔法で出した料理とは違った味になっている。
ひとりひとり、その人だけの味になっているはずだ。



銭婆の言葉は、うまくできなくて焦る私をそっと照らしてくれる、やさしい月の光みたいだ。
だから今日も心の夜空を見上げて。
焦らず、自分の手で、悩んで迷って、私だけの言葉を紡いでいけば、いつか私だけのヘアゴムが出来上がる。

そう信じて、今日も言葉のかけらを探している。

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