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eスポーツ業界で働いてみた

とあるeスポーツチームの事務所に転職した。
入社してすぐ驚いたのは社員のITリテラシーだ。
契約締結にクラウドサイン、勤怠管理にジョブカン、業務連絡にSlack、定例会議にZoom、音声通話にDiscordが使用されている。
ゲーマー御用達のDiscordを取り入れる辺りが実にeスポーツの会社らしい。
リモートワークにはITリテラシーの問題が付いて回る。
この会社では何ら問題なくフルリモートワークが実施されていた。


eスポーツチームの日常(1/5)

事務所の主な仕事は、移籍してくるプロゲーマーのPRだ。
Zoomの定例会議でオーナーが新規案件を発表した。
「来月に新しい選手を発表します。ずっと前からオファーしていて、何回もご飯に誘って、先日ようやく契約が決まったんですね。新しいスポンサーも付いたから力を入れてプロモーションしてほしい」

広報部、デザイン部、動画部、マネージャーの顔ぶれが続々とDiscordの会議部屋に集まり、オンラインの制作会議が始まった。
「移籍選手の発表ですが、移籍前のチームを匂わせることで、新メンバーが誰なのか予想できる見せ方を企画してます」
そう語るのは広報部の新入社員だ。彼はオーナーのブログに感銘を受け、オーナーの会社で働きたい、とダイレクトメールで訴えた逸話がある。
同じように情熱を訴える求職者は結構いるのだが、「eスポーツ業界を発展させるプラン」という課題が出された途端、ほとんど連絡が途絶える。
そんな中で彼は10ページ超のプレゼン資料を提出、しかも出来が良かったので採用に至ったのだという。
まあ無料でやらされる課題なんて面倒だからな。真面目に制作してくる方が変わり者だろう。

「撮影日を押さえたいんですけど、今月は何日が空いてます?」
「選手達にヒアリングしたところ12月8日が都合良いです」
「12月の初めに撮って年末公開ってスケジュールきつすぎでしょ」
「オーナーの情報はいつも遅いですからね。前の案件なんて発表まで2週間でしたよ」
「選手の子はみんな都内?」
「一人だけ実家の三重でこれから上京してきます」
「医療関係の親が最後まで反対してたらしい、東京めっちゃコロナ増えてるからって。確か1日で1000人超えたんだっけ」
「本題に戻りますけど、プレゼントキャンペーンの方も一緒に相談させてください」
広報部が提案した。彼らが抱える企画は桁違いに多い。俺が所属する動画部はYouTubeを月一で動かす程度だが、広報部はTwitterを毎日こまめに動かさなければならない。
eスポーツチームの玄関口はTwitterなのだ。自社チームが大会で繰り出したスーパープレーは迅速に動画付きでツイートしないとオーナーに叱られる。

「移籍選手の発表は12月31日で仮置きします。プレゼントキャンペーンはその前のクリスマスに入れたいですね」
「ちょっと待ってください、新スポンサーの件でタスク増えてるんで、そのスケジュール感だと厳しいですよ。ユニフォームにスポンサーロゴ入れて新調しなくちゃいけないし」
デザイン部の主任が反対の声を上げた。負けじと広報部が反論する。
「でもプレゼントキャンペーンの話は結構前からしてましたよね? この企画の温度感はかなり高いと俺は思ってて、シーズン直前で注目度が高い今はインプレッションが稼げるから後ろに伸ばしたくないです」
「そう言われてもタスクが急に増えたからなあ。前にも言いましたけど僕は中途半端なものは一つも出したくないんですよ。動画班に渡してるグラフィックにしたって、動画のどのフレームを切り取っても恥ずかしくないクオリティになるように心掛けてデザインしてますから」
「じゃあパターン減らしたらいけますか? いろんな選手がプレゼント紹介する予定でしたけど、静止画に当て込む選手を一人に絞るんです」
「納期的に多少は楽になりますけどクオリティの担保が不安ですよ。忙しいと納得できるクリエイティブにできないし、それでダサいって言われるのデザイナーの僕らですからね」
「いや忙しいのはこちらも一緒なので」
また始まった。広報部とデザイン部は定期的にやりあっている。
デザイナーの彼は創業初期に入社した古参メンバーだ。
チームの世界観を築き上げた自負があるだけに、一切の妥協を許さない。
彼はチーム創設の昔話をよく聞かせてくれた。これ見てください、うちの選手がTwitterのヘッダーに使ってる英字は僕が一文字ずつデザインしたんですよ、昔はシェアオフィスに社長と寝泊まりしていて、床に寝袋です、二人で働きまくってたら隣の会社から生活臭を何とかしろってクレームが来ましてね……。

依然として広報部とデザイン部の議論は続いている。
彼らの音声をラジオにしながらDiscordを見渡すと、一つ上の部屋で幹部会議が始まっていた。新規事業の会議だ。
詳しくは知らないがアパレル事業と教育事業に参入するらしい。
幹部会議に並ぶアイコンの顔ぶれは、様々なプロスポーツでブランディングを手掛けてきた事業開発部長、世界最大の消費財メーカーで法人営業していた営業部長、オーナーに経営ノウハウを指導する顧問投資家など。
ベンチャーキャピタルから約4億円の資金調達を実行後、幹部・主任クラスの中途採用が強化され、会社の雰囲気は一変した。
強力なキャラクターをeスポーツではOPと呼ぶ。最近入ってくる社員の自己紹介はOPばかりだ。僕は国内最大手のYouTuber事務所でタレントマネジメントしてました。私は老舗の音楽レーベルで15年以上マーケティングを担当してました。またOPが来たなあ、と俺はつぶやいてしまう。
空白期間で穴だらけの自分の履歴書と違って彼らの経歴は一分の隙もない。

社内は二種類の人間がいる。ゲーマー社員の「eスポーツ組」と、異業種から転職してきた「キャリア組」だ。
キャリア組はゲームに詳しくないが、ゲームはスポーツか的な陳腐な議論を挟まず急速にeスポーツを理解していった。
非ゲーマーには理解しづらい分野もある。例えばスマーフだ。初心者を自称して実力を偽るスマーフは、ゲーマーの心証を著しく悪くする。未成年飲酒などの犯罪より罪が重いと言っても過言ではない。
そういった事情に関して、キャリア組は早々にeスポーツ組を尋ね、現場の感覚をゲーマーから吸収していた。
キャリア組の適応能力を見るに彼らはVTuberでもメタバースでも食っていけると思う。
「……ってことはパブリッシャーの確認待ちじゃないですか。段取りとして先にそっち押さえないとスケジュールも決まんないですよ」
広報部とデザイン部の議論は決着が付いたらしい。
プレゼントキャンペーンで使用するグラフィック、その一部にゲームメーカーの許可が必要だと判明し、スケジュールは後ろ倒しになった。

ようやく動画部の同僚と打ち合わせができる。
最近まで別のeスポーツチームで働いていた同僚は、給料未払いの被害に遭って今の事務所に転職してきた。
もうeスポーツ業界とは関わりたくない、と、当時は失望したのだそうだ。
万事手回しと要領の良い男で、映像センスも良く、動画部の礎は同僚によって築かれた。優秀なクリエイターが一度はeスポーツ業界を去ろうとしたわけで、つくづく悪徳企業の罪深さを思い知る。

同僚と打ち合わせを済ませ、同僚はプロモーションビデオの撮影、俺は宣材写真とインタビュー動画を担当することになり、撮影場所は自社のゲーミングオフィスに決定した。
東京都に建設されたゲーミングオフィスは約150坪の三階建てビルだ。
地下一階はレコーディングルームのような完全防音の設備で、高性能なゲーミングパソコンが何台も立ち並び、ブラック一色の天井と壁が赤・青・緑のカラーライトで照らされている。
生活感がない地下一階とは対照的に、三階はブラウンの木目調でアットホームな作り、この階に動画部の仕事部屋がある。同僚いわく「家にいるみたいなレイアウトで集中しづらい」。俺はそもそも出社したくない。

宣材写真の撮影は三階のリビングで行う。
テーブルを部屋の片隅に移動させ、窓から太陽光が入らないようにブラインドを降ろし、遮光カーテンと緑色の背景紙をセットして、ミラーレス一眼カメラに単焦点レンズを装着した。
準備が済んだ辺りで「お疲れ様です」と調理師がキッチンに入ってきた。
事務所は三人の調理師を雇っていたのだが、その内の一人がプロゲーマー達に好評で、専属調理師は一人に絞られた。
「あの子たちは外食が多いから、レストランみたいな調理より私の家庭的な味付けの方が評判良くて、それが決め手になったらしいです」
専属調理師の彼女はそう語っていた。
今日のメニューはチキン竜田と野菜のかき揚げを主菜とし、副菜は切り干し大根の煮物、もやしときゅうりのごま酢あえ、汁物はネギと油揚げの味噌汁、主食はご飯、一汁三菜の和食だ。
当然ながら美味しいので、プロゲーマーが欠席して余った場合は社員で取り合いになる。

地下一階から五人のプロゲーマーとマネージャーがぞろぞろ上がってきた。
ユニフォームに着替えた彼らに俺はポーズを指示する。
「まず基本のポーズを二つ撮りますので、直立不動で気を付けの姿勢をお願いします! 次に腕組みのポーズを撮って、それから後は自由にポーズしてもらってOKです!」
腕を組んで威嚇するポーズ、通称ゲーミング腕組みは業界標準だ。
なぜeスポーツ業界はラーメン店主のような腕組みを好むのか?
それは腕組みを指示している俺にも分からない。
一つ確かなのは、宣材写真のポーズはその場のノリで決まるということだ。プロゲーマーの一人が声を掛けてきた。
「ジョジョ立ちで撮りたいんですけどやっていいですか?」
いいですよ。
「あとあれやりたい、最近リーグで流行ってる首を痛めたポーズ」
なんか流行ってますよね、やりましょうか。
「メガネをクイっとさせたら頭良さそうじゃね? どうですか?」
いいですね、そのポーズで撮りましょう。
終始こんな具合で宣材撮影は進んでいく。

次はインタビューの撮影だが気が重い。プロゲーマーに撮影のやる気がないからだ。姿勢を正して笑顔にさせるところから苦労する。
今日は昼過ぎの撮影だからまだいいが、早朝だと不貞腐れたプロゲーマーも出てきて手に負えない。
そんな時に頼れるのがS氏、FPSのプロゲーマーだ。
19歳のS氏はチームリーダーであり事務所の顔でもある。
なかなか定位置に付こうとしないチームメイトに、お前ら早く始めるぞ、とS氏は号令して、彼らを撮影モードに入らせた。
「新メンバー加入でチームがどう変わったのかトークすればいいんですよね。入りのカメラはこっちですか? 了解です、俺がタイトルコールするからお前ら拍手と声出し頼むわ」
こうして司会を務めるS氏には何度撮影で助けられたかわからない。
S氏はテレビ東京のeスポーツ番組に度々ゲスト出演していた。テレビ局が彼を重宝するのも頷ける。
ハキハキしゃべるし物怖じしない。自信家だ。自尊心を得るのに失敗したゲーマーとのコミュニケーションは疲れる。マスコミがeスポーツを肯定的に扱うようになっても、ゲームが悪者扱いされてるという被害者意識で連帯しようとする。S氏にはその手の、うっとうしさが無かった。

S氏はストリートファッションを好み、服装はオーバーサイズTシャツにゆるゆるのスウェットパンツ、髪型はセンターパートで茶色に染めている。
しょっちゅうスケートボードで遊ぶほどのアウトドア好きで、ユニフォームに着替えた際にちらりと覗く腹筋は綺麗に割れていた。
FPSのゲーマーって垢抜けた奴が多いよなあ。俺は視力が0.01しかない上に男の顔は極力見ないので社員の見分けが付かない。メガネで世界を高画質にしたいとも思えない。映像制作ソフトのAfter Effectsは最高画質にすると処理が重くなる。だから基本的に1/4画質だ。それと同じように、目も良すぎると脳が疲れる。メガネを使うのはテニスでラリーする時、東京ゲームショウにコンパニオンを見に行く時など、対象を鮮明にしたい場合に限る。
それなのに、メガネで眺めてもいいと思える顔が二人もいるくらい、S氏のチームはビジュアルが良い。

醜男でも女性人気を得られるプロゲーマーという肩書を彼らは必要としなかった。女にも金にも困ってない。eスポーツチームはVALORANT部門やApex Legends部門などゲーム毎に部門が分かれているが、S氏の部門はトップクラスの契約金だった。最も成績優秀で、最も賞金を稼ぐ部門だからだ。
先日はシーズン優勝を果たして1億円を稼いできた。サンローランのトートバッグとセリーヌの財布を買っていた。プラダのバッグから買い替えたらしい。その購入資金は賞金でも契約金でもなく、彼らがやっているYouTubeの広告収入で賄われた。
彼らを見ていると、若者の貧困化とか恋愛離れとか、全部ウソだったのではないかと錯覚してしまう。

だが恵まれたプロゲーマーは極一部だ。
Slackには契約金の一覧がメモ書きみたいな軽さで流れてくる。そこに書かれた金額の大半は、大卒初任給の平均額に満たない。
プロゲーマーは業務委託契約なので、成績不振になれば簡単に契約解除される。最も恐ろしいのはゲームメーカーがeスポーツ事業の予算を縮小することだ。部門ごと吹き飛ぶ。実際、撮ったVlogが全てお蔵入りした部門もある。
プロゲーマーを目指すのは株式投資みたいなもので、銘柄選びに失敗すると破綻する。注目株のVALORANTは契約金が高騰しているが、それだっていつまで続くかわからない。
日本には野球、サッカー、将棋という優良銘柄がある。投資先として間違いない。伝統的な競技に比べれば、プロゲーマーは分の悪い賭けだ。

しかしそれでも、賭けに勝ったS氏の生活を知ったら、分の悪い賭けに走る若者を馬鹿になどできない。
若い内にはまず得られない大金、地位、名誉がS氏の手元に全てある。
何より、プロゲーマーだけが得られる刺激を知っている。
League of Legendsほど刺激が強い対戦ゲームを俺は知らない。eスポーツの代表格であるLeague of Legends、通称LoLは、ストレスと喧嘩が絶えないゲームとして悪名高い。その原因はゲームシステムにある。いかなるチームスポーツにも駄目な味方は混じるものだが、LoLでは致命的となる。足を引っ張る味方は-1人で収まらず、-1人と、敵に+1人なのだ。味方のミスは敵を肥えらせ、対処不能な怪物を生み出してしまう。あとは苦痛極まりない試合を30分も強いられることになる。憎悪が募って罵倒へ発展するのは時間の問題だ。
裏を返せば、自分自身がシステムの暴力を振るう怪物になり得る。怪物と化して試合を支配する、それがキャリーだ。キャリーの快感はものすごい。
LoLは5対5の競技なのだが、敵味方9人の生死を支配できる。
キャリーできた時の快感と、できなかった時の不快感、その落差が悪魔的な効能を生み出し、1億人のLoLプレイヤーを掴んで離さない。

一度だけ大勢の視聴者が見守る中でネット対戦したことがある。
対戦相手を撃墜した時、配信のチャットはまるで映画のエンドロールを五倍速にしたような激流となり、画面は称賛のコメントで埋め尽くされた。
自分のプレーがこの洪水を巻き起こしたんだという歓喜で体が震えた。
あの時の緊張と興奮は絶対に忘れない。
しかし、俺が特別だと思っている体験でさえ、S氏にとっては日常なのだ。
試合のレベルも観客の数も比べ物にならない。
愕然とした。プロゲーマーだけが得られる巨大な刺激が存在し、俺はそれを知らずに一生を終えるであろうという事実に。

LoLのプロゲーマーは特殊なイヤホンを装着する。周囲の音をかき消すノイズ付きイヤホンだ。それさえもスーパープレーの後には観客席の轟音がイヤホンを貫き、会場の地響きがビリビリ体に伝わってくるのだという。
一体どれほどの刺激なのだろうか? もはや想像すらできない。
あるテレビ番組に出演していた俳優が、スタッフに対してなんで照明の仕事をやろうと思ったのかわからない、と発言して顰蹙を買っていた。裏方を見下した発言だという理由で。
俳優の疑問は至って自然だと思った。主役を張って巨大な刺激を得ている人間からすれば、周りをうろちょろしてるだけの人間が不思議で仕方ないのだろう。
同じ舞台に立てるなら俺は喜んで照明を放り投げる。

Y氏とコンプライアンス(2/5)

Y氏のことを俺はコンプラの鬼と呼んでいた。
彼女は会社の幹部で、業務範囲は非常に広い。
経理に人事に労務管理、息子のメディア出演が他のプロゲーマーに比べて少ないと文句を言ってくる保護者の対応まで担当していた。
どう考えても無理があるので、最近は経営と会計監査に専念している。

Y氏との採用面接は印象的だった。
初めて顔を合わせた時、互いに労働条件を遠慮なく語り合った。
「緊急事態宣言が出ましたけど、皆さんどうやって働いてるんですか?」
「原則リモートです」
「前職を辞めた理由がコロナを軽視してリモートワークを導入しない姿勢だったので、余計に良い環境だと思いました」
「弊社は選手ファーストを掲げていますが、選手だけでなく社員の環境にも力を入れてるんです」
「素晴らしいですね。労働関連のニュースを読んでると長時間労働やパワハラで自殺したとかいう話が目に付きますし、労働環境を良くしようとする取り組みには感謝しかないです」
「弊社はeスポーツチーム初の上場を目指しているので、そういった問題が起きないように組織体制を強化してるんです。株主やVCに信頼されるにはガバナンスを整えなければいけませんし、良い人材の採用には社内環境が大事ですから」
「求人の出し方から違いますよね。eスポーツ界隈はGoogleフォームで募集されてる案件が多いんですが、報酬額も書かれてない酷い求人が結構あるんですよ。御社は出稿費用が掛かる転職サイトで募集してるし、給与額も明記しているので、ちゃんとした会社だなって思いました」
Y氏は苦笑していた。感心するような事柄じゃないと思ったんだろう。

引き続き労働条件を尋ねた。
給与額、諸手当、休暇日数、労働基準法の解釈に到るまで。
Y氏は嫌な顔せず懇切丁寧に説明してくれた。
その対応に俺が感心していると、Y氏はこう語った。
「労務担当として当たり前の内容を伝えてるだけだと思うんですけどね。この業界は商慣習が甘いので、例えば選手と契約書をきちんと結ぶとかですね、業界の健全化が必要だと思ってます。あと私の旦那が労務管理の専門家でして、その影響で意識が引き上げられてるのかもしれません」
電通出身のY氏は数々のスタートアップを渡り歩いてきた社内の筆頭OPだ。
Yさんは知識が物を言うLoLが上手そうですよね、そう伝えると、こう返ってきた。
「LoLは覚えること多くて面倒なんですよね。直感でバンバンやれるFPSが好きです」

入社が決定して社内のSlackにログインすると、コンプライアンスのチャンネルを発見した。
プロゲーマーのツイートや配信のクリップ(録画)が並んでいる。
この発言は炎上しそうだ、チームの品位を落としそうだ、そう社員が判断すれば、問題発言を削除するようプロゲーマーに連絡が行く。
「満員電車でリュックを前に抱えない奴ってサイコパスでしょ」
そうツイートしたプロゲーマーを、Y氏が注意した。
精神病のサイコパス、その症状は良心の欠如と重いものだが、カジュアルな悪口として世に広まっている。
属性を貶める言葉は呪いを生み出し、呪われた被害者が自分で呪いを解く羽目になる。「ゲーム」が呪われて「eスポーツ」を必要としたように。
当該ツイートは削除された。

ある日の朝、ニュースサイトでプロゲーマーの不祥事が目に留まった。
ライブ配信での差別発言だった。
また誰かやらかしたのか。先日、身長170cm以下の男は人権がない、と発言したプロゲーマーが大炎上していた。
今回もヤフーニュースのトップ紙面を飾っている。
そのチームにはY氏のようなコンプラの教育者がいないんだろう。
不名誉な話題で注目を浴びるプロゲーマーの顔を見た。
いつもレンズ越しに見ているS氏の顔だった……。

広報部は緊急会議を開き、Y氏は株主への報告と謝罪文の推敲に取り掛かっている。俺は問題発言の動画を見た。
ゲームで期待通りに動かない味方に対し、障害者かよ、と言い放っていた。
S氏は事務所と大会運営の双方から処罰され、6ヶ月間の謹慎が決定、チームには罰金が科された。

迂闊な一言で大惨事だ。
デザイン部の主任はチームのブランディングに心血を注いでいた。
デザイナーだけじゃない、広報部も動画部もマネージャーも、チームを格好良く見せるために、制作会議を綿密に繰り返してきた。
地道に磨き上げた看板はプロゲーマーの失言でボロボロと汚れていき、俺は笑いが止まらなくなった。爆発的に笑った。何が笑えるって俺が作ったハイライト動画を「全然ブランディングに合わない」と腐したオーナーも差別発言が発覚して一緒に炎上してやんの。日頃からブランディングブランディングうるさい癖に自ら失言でブランドを傷付けるとは傑作だ。チームのPVに添える説明文、それを任された時、俺はプロゲーマーのSNS情報をまとめて提出した。すると上司がブチ切れた。
「なにこの手抜きの文章? SNSのURLが羅列してあるだけじゃん。もっと深みのある文章書けるように映画とか小説とかeスポーツ以外のコンテンツも見た方がいいよ」
それで、上司が作り直した説明文を読んでみた。
「裸の王に興味などない。INVASION OF THE KING’S、洗練され尽くすが故に我々は王なのである。これは絶望的な災害である――歴史上類を見ない“駆逐”が始まる」
なんだこりゃ。痛すぎるだろ。これをクールな文章然で世に送り出す感性が理解できない。どんなに格好付けたって今回の炎上で台無しだがな。SNSの反応を見てみろ。ろくにコンプラも教育できない会社、eスポーツ業界はオーナーが不祥事ばかりでうさん臭い、だってよ。ざまあみろ。笑いが止まらん。そもそも何でも英語にしたがるeスポーツ業界のセンスが理解できない。英語を習いたての中学生か? Stage3だのPhase3だの大会独自の表記もやめろ。試合が全体のどこに位置するのか、わかりづらい。ありとあらゆるデザインがわかりづらい。格好良く見せる意識が先行し過ぎて、わかりやすく伝える精神が抜け落ちてるんじゃないの? プロゲーマーの好プレーを再放送しようと俺が提案した時、今はチームが不調だから露出は控えたい、とマネージャーからストップが掛かった。お高く留まっていられる立場かよお前ら。いや俺達は。日本で最も有名なプロゲーマーのウメハラ、彼を一躍有名にしたのは背水の逆転劇だ。連続ブロッキングで逆転勝利した動画はテレビで飽きるほど取り上げられた。これ以外にも名場面あるだろ、と辟易する内容だった。今ならわかる、再放送の大切さを。eスポーツに興味がない世間はプロゲーマーの名場面など一々覚えてくれやしない。しつこく再放送して、ようやく認知されたのが、背水の逆転劇なのだ。S氏が世界大会で見せた逆転劇、猛者三人に囲まれながら単独で返り討ちにしたクラッチは素晴らしかった。だがそんなクラッチを覚えているのは極少数のゲーマーだけだ。S氏は差別発言したプロゲーマーとして一生世間で記憶され続けるだろう。ふざけやがって。微に入り細を穿つブランディング、俺達のクリエイティブは、内には受けても、外には何一つ届いていなかったのだ。

S氏を思い浮かべる時はいつもある情景が思い出される。
それはメンタルトレーナーとの面談だ。
「いま君達はスランプに陥ってる。そういう時は初心に帰らなくちゃいけない。eスポーツのアスリートだ何だと気負わなくていい、昔と同じゲームオタクでいればいいんだよ」
メンタルトレーナーの助言にチームメイトが頷く中、S氏だけが異論を挟んだ。
「違うかな」
「違う? 何が違うんだ」
「俺はゲームが好きでやってるわけじゃない」
「え?」
「勝負が好きなだけ。勝ち負けが決まることが好き。前はサッカーが好きでやってたけど、たまたまゲームに才能があったからこっちに来た」
「勝負事なら陸上の短距離走でもよかったってこと?」
「うん。競技は何でもよかった」
メンタルトレーナーもチームメイトも困惑している。
すぐ隣でカメラを構える俺は一人感激していた。
歴史家のホイジンガも哲学者のカイヨワも、ゲームの本質に競争を見出していた。
人類最古のゲームは紀元前のエジプトで生まれたセネト、ゲーム内容は対戦型の双六だった。
一定のルール下で競い合い真剣勝負を楽しむ、それはボードゲームの時代からFPSの時代に移ろいでも変わらない。
いつだって勝敗を競う行為がゲームをゲームたらしめてきた。
キャラクターにもストーリーにも耽溺せず、課金で偽りの勝利を得ようともしない、勝負の道具としてゲームを扱うS氏が、S氏こそが完全に完璧な由緒正しきゲーマーなのだ。

そんな理想的ゲーマーに群がるバッタの群れが不快で仕方ない。
バッタはあらゆる大地で作物を食い荒らし、蝗害を引き起こす。
プロゲーマーにも可食部が実っていることに奴らは気が付いたのだ。
バッタには競技がわからない。誰それが失言したとか、不倫したとか、くだらない果実しか興味がない。
ZETA DIVISIONがVALORANTの世界大会でベスト3に進出した感動もDetonatioN FocusMeがLoLの世界大会で初めて予選通過した感動も味わえない。

2022年10月から施行される改正プロバイダ責任制限法により、誹謗中傷の発信者情報開示請求がスムーズになる。
VTuber業界の大手事務所、にじさんじ、ホロライブは、凶暴化するバッタの蝗害対策を本格的に進めていた。
餌の在り処を知らせる扇動者は最も有害だから真っ先に処分しなければならない。eスポーツ業界は好き放題に食い荒らされ、ただじっと耐えている腰抜けばかりだ。バッタに餌を与えるな。

自由と希望のeスポーツ業界(3/5)

eスポーツチームのオーナー会は年末恒例のイベントで、Twitchのライブ配信に大勢の視聴者が集まるほど人気だ。
業界で有名なオーナーが勢ぞろいし、自社の強みをプレゼンする企画が始まった。
「グラフィックと映像のデザインですね。元々アーティストのクリエイティブを15年くらいやってまして、それがチームのブランディングに活かされてます」
「うちはスキャンダルが無い。人柄を見極めて採用してますし、プロゲーマーの教育も相当、力を入れてます」
「スピード感。LoLに参入させていただきまして、部門設立のスピードとか、ヒップホップ文化とのコラボとか、ベンチャーならではの意思決定の早さが売りです」
「グローバル展開と地域密着です。中国、ロシア、タイ、台湾など様々な国にクリエイターを抱えているので、本拠地の川崎と上手く連携を取っていきたい」

あっそ、それよりプロゲーマーと社員に報酬ちゃんと払ってるのか?
社員の一年以内の離職率は? 月の平均残業時間は? 有給休暇の取得率は? パワハラとセクハラの対策は?
俺はオーナー会の重鎮と採用面談で話したことがある。
転職可能な時期はいつかと聞かれ、2週間ですと答えると、早くない? と訝しがられたので、民法上は2週間で退職できる旨を伝えると、あぁそういうタイプか……と返ってきた。そういうタイプって何だよ。
法律を持ち出されて困惑するくらい遵法意識が低いからあんたのチームは経理不在による報酬未払いで炎上したんだろ? 喉元まで出そうになった。
トップがそんなんだからオーナー会の連中も一切信用できない。

オーナー会には俺の雇い主も出席している。
普段の社内とは打って変わって初々しい態度だ。なにせ周りが古株のオーナーばかりなので、今日の僕は先輩方に教えを請いに来ました、といった雰囲気を醸し出している。なんかイラッとした。自信なさげにマイクを持ってみせる仕草とか。
この庇護欲がそそられる青二才キャラで中年の投資家を落としてきたんだろうな……そんなことを考えながら視聴していると、我らがオーナーも自社の強みを語り始めた。
「僕のところは選手環境です。高性能なパソコンをゲーミングオフィスに揃えるだけでなく、銀行のATMに使われるような強力な回線を引いてまして、アクシデントが起きても回線が落ちない設計なんですね。
会社の近くに選手の寮を借りていて、一人一部屋あります。出社すれば調理師さんの健康的なメニューがいただけると。
もちろん環境の整備は皆さんやられてると思うので、恐縮なんですけど、あえて言わせていただきました」

オーナーは何を言っているんだ。自社の強みをまるで理解していない。
製造業を営む父親の下で育ったオーナーは、在学中にeスポーツチームを設立し、雇われの経験がないまま経営者となった。
創業当初のeスポーツ事業は赤字続きでどうにもならなくなり、いよいよ父親を頼るようなボンボンだ。200万の融資と共に、経営者である父親から授けられた言葉は、オーナーの財産になったのだという。
「会社ってのは社長一人のものじゃない。社員がいないと回らないもんだ。だから、社員のことを第一に考えて大切にしなさい」
オーナーに聞かされたこのエピソードを、はじめは信用しなかった。
経営者が語る経営理念など真に受けたら馬鹿を見る。
実際の労働環境を確かめなければ意味がない。
では、eスポーツチームの労働環境はどうなっていたのか?

「通院のため一旦終業します」「市役所に行ってくるので離席します」「マカロンでお茶タイム入ります」
Slackで頻繁に見掛ける中抜けの業務連絡だ。仕事の要求水準が甘くない反面、ある程度の自由行動が許容されている。
大半の社員が10時に始業する中、早朝に始めて夕方に上がるフレックスな働き方も許容されている。
受託より自社開発の案件が多いので、予算とスケジュールの裁量が大きく、オーナーはおおまかな目標だけ伝えて現場に一任している。
ゲーミングオフィスで働く社員の表情には業界を盛り上げようという強い意志が見られた。俺はこれほど意志がみなぎる労働者の顔つきを見たことがなかった。

かつての自分がそうだったように、見慣れた労働者の顔つきは、暗くて、辛気臭くて、意志薄弱だった。棚卸業務でホームセンターに向かう車内のどんよりした空気が嫌だった。深夜に在庫をカウントし続ける日々の疲れで軽口を叩ける者など誰もいない。破綻寸前の銀行開発プロジェクトに放り込まれた時の光景は醜悪だった。残業時間が規定を超えて36協定に違反するから上手く調整してくれと腐った会話が聞こえてくる。金融庁に提出するエビデンスをExcelにペタペタ貼って一日が終わる。喜怒哀楽は緩やかに死ぬ。これから40年近くWindowsの右下に表示された時計をチラチラ眺めて終業時間を待つ空虚な生活を続けなければいけないのかと思うと本当に悲しくなってくる。

eスポーツチームで働きだしてからは平日にも自由を感じた。
人生を経営者に明け渡している感覚が大幅に減ったのだ。
eスポーツは休日開催の大会が多く、休日出勤も多いが、必ず翌週以降に代休が取得できた。夜遅くまで稼働した日にはホテルを取ってもらえた。
オーナーとデザイン部の主任は寝食を忘れて仕事に没頭する人種だが、彼らに長時間労働を強いられたことは一度もない。
eスポーツ業界お得意の報酬未払いもなかった。

大好きなゲームの仕事となれば低賃金でも志望者は殺到する。
やりがい搾取の好条件が揃ったeスポーツ業界だからこそ、まともな給料を払い、綺麗事を貫く姿勢に大きな価値がある。
だが、価値を築いた当の本人がそれを理解していない。
FaZe Clanや100 Thievesに並ぶ人気チームになりたい、そんな夢を社員に繰り返し語っていた。
FPSで天下を取りたいオーナーにとって、労働環境は未来を掴むための土台でしかないのだろう。

労働基準法を破って人を殺しても罪に問われない日本では蟹工船に乗らなくても死の危険が付きまとう。
エンタメなんて労働の苦痛を和らげる対症療法薬でしかないのに、エンタメの提供者がブラック企業で疲弊する本末転倒がまかり通っている。
真っ当な労働環境はエンタメ業界、eスポーツ業界、ひいては日本社会に希望を与える存在なのだと、オーナーは一体いつ気が付くのだろうか。
このeスポーツチームの強みはどう考えたって「従業員を大切にしている」だ。

退職理由(4/5)

1999年に発売された初代スマブラは小学校で大流行した。
高校に進学してからもニンテンドー64を引っ張り出し、一人でCPU戦に興じていたのだが、コンピュータとの対戦にも飽きてしまった。
対人戦に飢え始めた頃、ネトスマという世界を知った。
ゲームソフトからROMデータを抽出、エミュレーターに読み込ませると、本来は不可能なネット対戦が可能となる。もちろん任天堂は非公認の方法だ。違法なROMデータが流通するアングラの界隈。
そこが俺の青春だった。

有志が立てたネトスマサーバーに接続すると、20人ほどのユーザーがロビーで待機している。
ゴールデンタイムでも50人がせいぜいの集落なので常連の名はすぐ覚えた。
「こんにちは」「こんにちは!」
「よろしくお願いします」「よろしくお願いします!」
対戦部屋に入室後、チャットで挨拶してからスマブラを起動する。
ゲームを終わらせたい時は「次ラストでお願いします」と断り、全力勝負の試合で締めるのが作法だ。
しきたりを守らない奴は5chで名前が晒される。

知る人ぞ知るネトスマだが、2010年、昇格と降格の制度を設けた「ネトスマ段位戦」が始動すると、ニコニコ生放送の一大コンテンツに成長した。
わいわいと遊ぶスマブラとは別次元のハイレベルさが話題を呼び、試合の録画がニコニコ動画で30万回再生されるほど人気を博した。
プログラマーが管理システムを開発し、ゲーム実況者が試合を盛り上げ、イベント運営者が試合結果を集計する。
ゲーマーがそれぞれ役割を担ってコミュニティを支えていた。
当時の俺が何をしていたかといえばニートだ。
社会で役割を得ないと人は狂いそうなものだが、さしたる罪悪感もなく自己肯定感に満ちあふれた俺はニートの天才だった。
ただ流石に退屈する時もある。何かしら役割を演じてみようと、段位戦のハイライト動画を投稿してみた。
有り余る時間を全て動画編集に費やしていたら、視聴者のコメントが次々に増えていった。
「仕事早すぎwww」「段位戦が終わって1時間たってないぞ」「おつ」「編集すごい」「この人は何者なんだww」「投稿いつもお疲れ様です」「待ってた」
役割を得る喜びを初めて知った。嬉しかった。こんな楽しい時間がいつまでも続けばいいのに……だがネットの理想郷は長くもたなかった。
コミュニティの中心人物は就職や結婚で忙しくなり、ネトスマに顔を出さなくなっていったのだ。

ネトスマには経済がない。
大会運営もウェブサイト制作もボランティアで成り立っている。
手間の掛かる裏方業務を無報酬でやる人間はそうそうおらず、段位戦の開催頻度は日に日に落ちていった。ロビーの常連も少しずつ消えていった。
ネトスマが限界集落になり始めた頃、会話の前後は覚えていないが、界隈で人気のゲーマーが配信中に呟いた言葉は今でも覚えている。
「俺達さあ、プロ野球みたいにプロの世界があったら、間違いなくこれで食えてるよな」
ゲーマーの経済圏を作り出すeスポーツ、eスポーツへの期待と情熱は、この瞬間に芽生えたのかも知れない。
それからはeスポーツ業界のイベントに足繁く通い始め、向こう側で繰り広げられる未知の世界を眺め続けた。
向こう側へ行きたい、そう思って関係各所に求職してみるも、ニート兼フリーターの俺は門前払いだった。
7年が過ぎ、ウェブ広告代理店で動画制作の実務経験を得て、ついにeスポーツ業界へたどり着いた。
在宅勤務を採用している会社だった。

この世で最も無駄な通勤時間が消滅し、コンテナ埠頭で毎朝ランニングするようになった。
海上コンテナと巨大なクレーンに囲まれながら走っていると、狭苦しいオフィスでの日々が遠い過去のよう。
カルガモが優雅に泳ぐ港湾の水面がキラキラと光り、その発光はOptical Flaresを想起させた。映像に太陽光を加えるエフェクトだ。美しいレンズフレアが生成される。水面に差し込んで白く輝く太陽光はOptical Flaresに負けず劣らず美しかった。
運河のほとりに一軒の魚屋を見付けた。工業地域でぽつんと営業している店が何だか不思議で、うちの近くにこんな店があったのだなあとしみじみ思った。自宅と会社を往復するだけの生活では出会えなかっただろう。まぐろ漬けの海鮮丼は絶品だった。

自宅に戻り、リクライニングチェアに腰掛け、フットレストに足を伸ばし、ライターに火を付けてインド香を焚いた。
横浜みなとみらいのベイクウォーターにあるアジアン雑貨店でインド香に出会って以降、部屋には常にホワイトムスクの煙を充満させている。匂いが独特で強い所がいい。
今日の仕事はプロゲーマーのPV制作だ。
32インチのメインモニターにはAfter Effectsを映している。プロゲーマーの写真に手製のアニメーションを加え、大会の名場面を切り取ったクリップにOptical Flaresを合成した。
27インチの縦型サブモニターにはコスプレイヤーの自撮り写真を30秒間隔のスライドショーで流してある。

それは突然訪れた幸福だった。
いまいましい曜日感覚は消え去った。
寝坊に気付いた瞬間にバクバク鳴り始める心臓が嫌だった。
時刻表を頭に浮かべて身支度するせわしない朝が嫌だった。
肩が触れ合う窮屈な空間で精神を消耗する電車が嫌だった。
小学生の時に図書室で読んだ「ちびまる子ちゃん」に、こんなエピソードがあった。
大雪に晒されるサラリーマンを自宅の窓辺から眺めてみたり、用もなく友達に電話してみたりすると、漫画家の私は世界で一番幸せな王女になれる、という内容だ。
通勤の辛さなど微塵も知らない年だったが、やけに在宅勤務を魅力的に感じた。
ジェイコム株大量誤発注事件で巨額の利益を得た個人投資家のB・N・F。彼の特集番組を見ていた時、一日で二億を稼ぐ株式投資よりも、在宅で仕事が完結する生き方がうらやましかった。
2020年、コロナウイルスのパンデミックによって在宅勤務は身近な存在となり、俺は心の底からコロナウイルスに感謝した。
疫病イベントで人類に強制アップデートを迫ってくる神、情報化社会の現代に命を授けてくれた親、両者にも感謝の気持ちで一杯になった。
緊急事態宣言よ、願わくば永遠に解かれないでくれ。

新年を迎え、定例会議でオーナーから今年の意気込みが語られた。
「去年は悔しい出来事がたくさんありました。チームのリブランディングで競合にトレンドを持ってかれたのは本当に悔しかった。今年は僕達が悔し泣きさせたい。あそこ以外は僕達の敵じゃないと思ってます。
リモートで一年近くやってきましたけど、やっぱり対面に比べるとアイデアのぶつけ合いがやりにくいし、意思決定のスピードが遅くなりがちなんですね。今のスピード感でやってたら絶対に勝てない。
急速に圧倒的に成長するために、来月から原則出社とします」
社内の私物を回収してY氏に退職を伝えた。
7年かけて憧れのeスポーツ業界にたどり着き、わかったことがある。
eスポーツ業界でやりたいことなど何一つ無かったということだ。
そして俺が本当に欲しかったもの、それは在宅勤務だった。

退職後(5/5)

eスポーツチームを退職後、束の間の自由を楽しみつつ転職活動を行い、正社員での採用が決まった。
雇用先のオフィスで社長との挨拶を終えると、業務委託契約書を渡された。
「試用期間中は業務委託でまずお願いしてます。3ヶ月の試用期間が終われば正社員になりますので」
は? 最初から正社員って話だったろ?
求人サイトを改めて確認すると、やはり試用期間の待遇に変更なしとある。
契約書には月160時間を基準に精算、1日8時間、週40時間のフルタイムと記載されている。要するに時給制の業務委託だ。
社会保険なし。祝日も出社。実質的に雇用契約と変わりないのに、業務委託で人件費を安く抑え、雇用のリスクを最小限にしようとする。
これは業務委託のグリッチだ。

システムの悪用をグリッチと言う。
残業代を払わない目的に設けられた、裁量がない裁量労働制グリッチ。
外国人をこき使うための技能実習生グリッチ。
夏季休暇に有給休暇を強制的に消化させ、年5日の消化義務をクリアしようとする有給休暇グリッチ。
油断すると経営者はすぐグリッチに手を染める。
ゲーム開発者の想定を逸脱し、システムを悪用するグリッチを許してはならない。
非協力的な嫌がらせ行為をLoLではトロールと呼ぶ。
グリッチ使いにはトロールしてでも面倒な思いをさせないとな。
腹に一物を抱えながら業務委託契約書にサインした。

入社初日を迎えた。
朝は社員一同で掃除する習慣らしく、一緒に掃除してほしいと社長に頼まれた。契約書にない業務の命令なので無視した。
業務内容は3Dアニメーションの制作だが、パソコンのメモリが16GBしかない。メモリ増設を申請したが却下され、初日でやる気が失せた。
入社二日目、定時の朝10時を意図的に過ぎてから出社した。
遅刻ではない。契約書で始業時刻が定められていない以上、定時出社の義務はないのだ。
在宅勤務の幸福を知った俺は二週間で出社に耐えられなくなり、会社を抜け出してフリーランス110番に電話した。
2020年に厚生労働省が設けた相談機関だ。月300件以上の相談が寄せられる繁盛ぶりから悪質クライアントの多さが伺える。
「動画制作の業務委託で働いてるんですが、契約書では働く場所が指定されてないので、在宅勤務に切り替えて問題ないでしょうか?」
「業務内容によります。運送や清掃など現場仕事の委託であれば出社の必要性が生じます。仕事は動画制作とのことで、ご自宅は業務を行える環境なのでしょうか?」
「動画編集用に高性能のパソコンがあります」
「それなら委託された業務が遂行できるので、在宅勤務でも問題なさそうですね」
「でも会社が認めてくれなさそうなんですが」
「会社と交渉するのが難しい場合は和解あっせんをお勧めします。第二東京弁護士会が仲介いたしますので」
法人を訴える場合は履歴事項全部証明書が必要になる。
法務局で取り寄せて、和解あっせんの申立書と一緒に郵送した。
和解あっせんでの要求はただ一つ、在宅勤務だ。

和解あっせんの期日は一ヶ月後に決定した。
待てないので翌朝から在宅勤務を強行した。
32インチのメインモニターにBlenderで制作中の3Dアニメーションを映し、27インチの縦型サブモニターにはコスプレイヤーの自撮り写真をスライドショーで流してある。
インド香の煙を部屋に充満させた辺りで、社長から電話が掛かってきた。
「なんで出社しないんですか?」
「LINEで報告した通り原則リモートでやらせてもらいます」
「いや、業務に慣れたら在宅勤務にしてもいいとは言いましたけど、慣れるまでは原則出社って契約の時に言いましたよね?」
「業務委託契約書で勤務場所を指定されてないので出社の義務がないです」
「毎朝遅れて来るのも業務委託だからってことですか?」
「そうです」
「でも合意の上で契約書にサインしましたよね? 出社をお願いするよう口頭で言ったはずです」
社長の語調が荒々しくなってきた。
「それにリモートワークだとちゃんと仕事してるか分からないじゃないですか」
もういい、お前は喋るな。
「リモートワーク中はLINEで進捗を送るから大丈夫ですよ」
「とにかく在宅勤務は認められませんので。それと和解あっせんの書類が届いたんですが、こちらは顧問弁護士に任せて対処します」
通話が切れた。

リモートワーク強行から二週間後、業務委託契約の解除通知書が届いた。
「貴殿と弊社との間で締結した業務委託契約について、下記の条文に基づき本業務委託契約を解除いたします。契約解除の条件。債務の不履行、業務上の過失、または背信行為が認められた場合、無催告で本契約を解除できる」
縁が切れるのは構わないが、働いた分の報酬は貰わないと困る。
請求書を配達証明で送付した。
一ヶ月後、月末締め翌月末払いの約束だが、入金が遅い。
ネットバンクの口座を繰り返し更新しても、残高が一向に増えない。
なんと報酬未払いだ。
eスポーツ業界で報酬未払いが炎上する度、非常識な大人が繰り広げる異世界だと感じていたのに、まさか自分も同じ境遇になるとは。

会社に連絡を試みるもLINEのグループから追放されていた。
手始めに郵便局へ行き、内容証明郵便で催告書を送った。
「私は貴社と2022年10月1日に締結した業務委託契約による報酬として、368,487円の請求書を送付しましたが、現時点で代金の支払いを受けていません。速やかに以下の口座に支払うよう催告いたします。」
会社は受け取りを拒否、催告書はどこかに行った。
まあいい、催告無視の証拠は後々意味を持つ。
フリーランス110番に電話して弁護士を呼んだ。
「報酬未払いと一方的な契約解除について、どのような法的措置が良いでしょうか?」
「まず契約書を確認しましょう。お手元に契約書はありますか?」
「あります。和解あっせんの時に契約書を同封したので、一緒に確認していただきたいです」
「承知しました。ただいま確認しますので少々お待ちください」
保留の音楽が流れてる最中、それにしても……と思いにふける。
それにしても報酬未払いへの対抗策を知ってたからいいが、法的措置を知らないプロゲーマーだったら不安で仕方ないだろう。
子供を守るための事務所なのに大人が騙す事務所があるんだからな。法外な違約金を契約書に入れ込んだりして。
被害に遭ったプロゲーマーは大抵、SNSに被害内容をぶちまける。
そうだ、法的措置が難しけりゃバッタの暴力を頼っちまえ。
プロゲーマーの告発は格好の餌になる。蝗害が起きればeスポーツチームは屈服するしかない。

「お待たせしました。動画制作の委託料が35万円で、こちらの料金を請求したのに支払われないというトラブルですね」
「はい、額が小さいので少額訴訟を考えてます」
「少額訴訟は一回の期日で終わりますから、きっちり争うなら通常訴訟の方がいいですよ。少額訴訟にしても相手は通常訴訟へ移送の申立てをしてくるでしょうし、最初から通常訴訟にした方が余計な手間がありません」
「なるほど」
「ただ訴訟は手間も時間も掛かりますからね。民事調停や支払督促も一つの手です」
「実は支払督促を準備してるんですけど、相手は確実に異議を申し立ててくるんで、結局訴訟になりそうなんですよね」
「和解あっせんは拒否されたんでしたっけ?」
「はい、催告書も無視されました」
「なるほど、そういう会社ですか」
「そういう会社です」
「ワンマン社長の中小零細ではよくある話でしてね、私に来る相談もそういう話が多いです。契約解除の件は通常訴訟がいいと思いますよ。支払督促で異議が出たら訴訟が二件になりますけど、弁護士に依頼するんですか?」
「本人訴訟でやります」
「本人訴訟で二件同時ですか……大変なご状況ですが頑張ってください」
弁護士に同情されたが、支払督促は以前から興味があったので問題ない。
金融漫画の「闇金ウシジマくん」に、主人公が財産の差し押さえを目論むシーンがある。
「俺に任せとけ! まずは手始めに支払督促かけといたよ!」
この台詞をずっと言ってみたかった。

東京簡易裁判所で支払督促の申立書を提出すると、職員に呼び出された。
「相手方の住所が東京都と記載されてますが、謄本では千葉県になってまして、こちらでお間違いありませんか?」
そうそう、法務局で謄本を取り寄せた時、東京ではなく千葉でヒットした。理由は不明だが、敵の会社は営業所在地と登記住所が異なっている。まったく面倒な連中だ。
「私が働いていた東京の方で記載したんですが、千葉の方で記載しないとダメなんですか?」
「未登記の住所に送ると支払督促が却下される恐れがあるんです」
「でも千葉の住所はどっかのマンションの一室で、明らかにそこでは仕事してないですよ。送っても無駄だと思います。代表は東京に出社してますから」
「では支払督促を東京で進行してもらうように上申書を提出しましょう。上申書はここに無いので墨田の簡易裁判所でもらってください」
なんでここに無いんだ。霞が関から墨田まで微妙に遠いし。
そのまま墨田庁舎へ向かって手続きを済ませ、周りに人がいないことを確認し、小声でボソッと、手始めに支払督促かけといたよ! と宣言した。やっと言えたぜ。
闇金ウシジマくんの債務者は支払督促の封筒を服のポケットに放置した結果、債務名義が確定して財産を差し押さえられてしまう。
敵の会社は流石にそんなヘマは犯さず、異議申し立ての申立書を送ってきたので、無事訴訟へと移行した。
一体あいつは何を考えてるんだ。何がそこまで癇に障ったんだ。早く答弁書が読みたいな。あいつの不満が明らかになる。
相手の返答を今か今かと待ちわびる感覚、これが文通の楽しさか。

支払督促は済んだ。次は契約解除の件だ。
相談もなく一方的に契約解除するなど許せない。
ふと解雇予告手当が脳裏をよぎった。
いきなり社員をクビにする場合、解雇予告手当を支払う義務がある。
業務委託契約では関係ない話に思えるだろうが、実態はどうだ、働く場所と時間が指定され、雇い主の近くで拘束され、仕事の進め方を命令されていた。掃除まで命じられたしな。
これは偽装請負に他ならない。

労働審判で訴えてみよう。書き出しはこうだ。
「契約書は業務委託だが、相手方は1日8時間、週40時間の稼働を指定の勤務地で求めており、勤務時間も指定していた。指揮命令関係で業務を行っていたことから、申立人は労働基準法上の労働者にあたると考えられる」
ワインで酔いながら申請書の文章をゲーミングキーボードで打ち込んだ。
シラフだと頭に無数の言葉が駆け巡り、ぐわんぐわんとして作業に集中できない。酩酊すると頭がクリアになるので酒は便利だ。

本件シナリオは労働者性の立証が肝となる。
契約上は個人事業主だから、労働者だと認定されなければ、解雇予告手当を請求する権利が生まれない。
労働者の定義が書かれた資料に目を通し、自分の労働環境と照らし合わせた。
「使用従属性。指揮監督下で働かされているか」
OK。条件を満たしている。
依頼された仕事を断る自由はなく、どんな動画を制作するか事細かな指示を受けていた。業務命令の内容はLINEに残っている。
「場所的・時間的に拘束されているか」
これもOK。会社指定の勤務地に出社していたし、10時から19時まで9時間拘束されていた。
「採用方法は正規の従業員と一緒だったか」
これもOK。
「専属性の程度。その仕事が生活の大半を占めていたか」
これもOK。OK、OKと労働者性が確かになるにつれ、奇妙な高揚感が襲ってきた。クレッドで獲物を追っている時の高揚感だった。LoLでは四つのスキルが与えられる。キーボードにそれぞれ「Q」「W」「E」「R」だ。クレッドの最も強力なスキルは何だろうか? 俺はEだと思う。クレッドのEは獲物に飛び付いてマークを刻印する。マーキングされた獲物はクレッドから逃れられない。獲物を追う時のクレッドは平時より足が早くなるのだ。どうしたって追いつかれる獲物が必死に逃げる様ほど愉快な眺めはない。労働者性を立証できる証拠は十分に揃った。この手で経営者をマーキングできると思うと嬉しさがこみ上げてきた。あいつから解雇予告手当を絶対ぶん取ってやる。段々とゲーマーの血が騒ぎ始めていることに気が付いた。
裁判所には何かある。訴訟にはゲーマーを熱くさせる何かが、ある。

申請書の結びに労働基準法を引用した。
あらゆる文学より美しい労働基準法、先人が残してくれた労働者の武器だ。
「よって申立人は、相手方に対し、雇用契約上の権利を有する地位にあることの確認並びに、労働基準法第20条に基づき35万円の解雇予告手当を求める」
シナリオが完成した。
「――という趣旨の労働審判を考えたんですが、どうですかね?」
作戦のレビューが欲しくてフリーランス110番に電話した。
頻繁に掛けすぎて110番が持つ緊急連絡の意味合いが消失しそうだ。
「訴訟物を業務委託報酬ではなく解雇予告手当にするわけですか。週40時間の時点で雇用契約の臭いがしてましたからね。労働審判で攻めるのは面白いと思いますよ」
弁護士にシナリオを褒められて嬉しい。
いや待て、この弁護士には事件に係わる書類を全部共有できてない。
電話のやり取りだけで前進するのは危険だと考え、書類一式まとめて新宿の法律相談センターへ向かった。

相談室の中はコロナ対策のアクリル板で隔てられている。板の隙間からシュッと契約書を滑らせると、弁護士は素早い手付きで目を通し始めた。
素人の俺が書いた法的な文章を、プロに目の前で読まれるの、なんか恥ずかしいな。
「結論から申し上げますと、労働審判ではなく通常訴訟で争った方がいいと思います」
マジかよ、頑張って書いたのに。
「解雇予告手当なら付加金も取れるし良いと思ったんですけど、ダメなんですか?」
「催告書と請求書を見るに業務委託の体で請求してますよね。業務委託契約として話を進めてしまった以上、労働審判で労働者の権利を求めた途端、どういうこと? ってなる恐れがあります」
「整合性が取れないってことですか?」
「そういうことです。相手の弁護士は労働審判で多分この辺を突いてきますよ。あなたは業務委託契約を受け入れて請求書を送ってるじゃないかって」
「なるほどなあ。自分のアクションが相手の武器になるのか」
「その点に関しては相手も隙を見せてますけどね。解除通知書を契約解除の当日に送るなんて、普通はリスク高いのでやりません」
「それ思いました、内容証明で自分から証拠残しちゃってるし。もっと理解できないのは訴訟に付き合ってることです。私達は偽装請負してますって公表するようなものじゃないですか?」
偽装請負は正確には労働者派遣の用語なんですが、と前置きして弁護士は話を続けた。
弁護士の特徴は言葉に対する厳格さだ。言葉を誤った瞬間すぐ訂正する。
俺も定義にこだわる性分なので弁護士との会話が気持ちよかった。
30分5000円の相談料は行きつけのコンカフェと同じくらいの時間単価だがサービスの満足度で弁護士も負けていない。キャストドリンクを一杯おごりたい気分だ。
コンカフェ嬢や風俗嬢とeスポーツを語る時はZETA DIVISIONかCrazy Raccoonが話題に出る。日本を代表する人気のeスポーツチームだ。あのオーナーが対抗心を燃やすのも無理はない。
弁護士のアドバイスに従い、労働審判は諦めて通常訴訟へ切り替えた。

裁判所に出廷する口頭弁論の日がやってきた。
ハイボールで頭をクリアにしたいが裁判所のコンビニには酒が売ってなかった。代わりに収入印紙と郵便切手の販売が充実している。
通りすがった弁護士の会話が耳に入り、今後は誹謗中傷を一切しないという和解案で話が付きました、と、依頼人であろう通話相手に報告していた。
バッタが好き勝手に飛び回る時代は終わりなのだ。
法廷入口に貼り出された本日の対戦表に自分の名前を見付けた。ほぼ法人対法人の対戦カードなので、個人対企業の並びは目に付きやすい。

第1回口頭弁論は裁判の進行に関する相談から始まった。
支払督促から派生した訴訟と通常訴訟、二件とも争点は同じなので併合しようという話になり、原告と被告の双方で合意した。
被告の代理人弁護士は主張する。
「原告の請求趣旨が不明でして、法的構成を決めてもらわないと反論が難しいです」
法的構成って何だ?
わからないまま黙っていると、裁判官が解説し始めた。
「法的構成というのはね、例えば損害賠償なら主に二つの構成があって、民法上の不法行為による請求と、債務不履行による請求ですね。法律に照らし合わせてどう請求するのか、それを原告のあなたに決めてほしいんです」
素晴らしい。相手が初心者と見るや専門用語を噛み砕き、寄り添う姿勢、これこそLoLに必要なものだ。
LoLの日本サーバーは2016年に上陸した。ユーザー数は順調に増加していったが、近年、人口減少と高齢化が危ぶまれている。新規ユーザーの獲得は慢性的な課題だ。100万人近いフォロワーを抱える配信者がこんな話をしていた。初めてのLoLで意味不明な指示されまくって、一緒に遊んだ友達にも怒鳴られて、やめちゃった。俺は頭を抱えたくなった。怒鳴ったそいつは一体どれだけの機会損失を与えたか分かっているのか? LoLのルールは単純だ。ネクサスを破壊したら勝ち。だが実際は、複雑なシステムを理解しないとネクサスにたどり着けない。初心者には手厚いフォローが必要なのだ。
その点、司法業界はどうだ。支払督促の申請書も、訴状も、ルールが厳格で作成は難しいが、裁判所は一箇所ずつ添削してくれた。
フリーランス110番も第二東京弁護士会も法的措置の道筋を示してくれた。
初心者に寄り添う姿勢、わかりやすく伝える精神、いずれもeスポーツ業界で見習いたい要素だ……裁判官は話を続けた。
「あなたが支払督促で請求した368,487円と、通常訴訟で請求した700,000円、これらがどういった趣旨のものなのか、準備書面で整理してください」

裁判官から第2回口頭弁論の日程を提示された。
自分の都合が悪い日程だと判明し、胸が高なった。
言ってみたい台詞があったからだ。他の口頭弁論を傍聴席で観戦していた時、あるフレーズが頻出することに気付いた。「差し支え」だ。
スケジュールの都合が悪い時に弁護士は口を揃えて「差し支えです」と言う。専門家特有の言い回しに格好良さを感じた。俺も差し支えたい。
「原告のご都合はいかがでしょうか?」
サシツカエデス、サシツカエデス、何度も練習したフレーズを、噛まないように、ゆっくり口に出した。
「差し支えです」
「差し支えですか? では2月8日の13時からはどうでしょうか?」
その日は大丈夫。
「その日は別の弁論が入ってまして、差し支えです」
今度は被告のお前が差し支えるのか。
裁判所を後にして虎ノ門へ移動した。労働争議を得意とする弁護士事務所があると聞き、今後はその事務所と相談しながら進めることにした。
弁護士は業務委託契約書を読んで失笑していた。
そりゃそうだ、あからさまな業務委託グリッチなんだから。

訴状では逸失利益による損害賠償で請求していたのだが、それだと契約解除を認めたことになってしまうので、業務委託報酬で請求し直すようにアドバイスされた。
早速、第2回口頭弁論に向けて準備書面を作成した。
「2022年9月1日に原告と被告で締結した業務委託契約は、あらかじめ決まった動画を納品する請負契約ではなく、稼働した時間に対して報酬が支払われる準委任契約の性質が強かった。委託料は1ヶ月間で350,000円(税込)である。契約期間の2022年10月1日から2022年12月30日まで、原告は契約解除されるまでの2022年10月31日まで1ヶ月間の稼働を行った。以上から、1ヶ月間の委託料と交通費を含めた、368,487円の業務委託報酬を請求する。」
続いて700,000円の説明だ。
「2022年10月31日、突然被告から業務委託契約の解除通知書が届き、合意がないまま契約が解除された。契約期間が2ヶ月残っていたこと、本件解除は無効であることから、本来得られていたはずの業務委託報酬として700,000円を請求する。」

被告はどんな反論をしてくるだろうか?
報酬未払いをどうやって正当化するのか、見ものだ。
第3回口頭弁論の法廷で被告準備書面を手渡された。
「2022年10月1日に原告と被告との間で締結した業務委託契約では、午前10時から午後7時までの稼働で合意していた。しかし原告は始業時刻を守らず、休憩時間も規定より長く取るようになり、長時間離席することもあった。
2022年10月18日、原告は突如として在宅勤務に切り替え、出社を要請しても『業務委託契約書で勤務時間と勤務地の指定がされてないから守る義務はない』と返答するばかりであった。それ以前に原告から契約内容に関する和解あっせんが申し立てられ、原告と被告は既に紛争状態にあった。
以上の事由から、原告と業務を続けるのは不可能と判断し、2022年10月31日に業務委託契約を解除した」

俺のトロール行為が並べられてるだけの面白みのない文章だった。
虎ノ門の弁護士に見せたところ、相手の弁護士は何を言ってるんですかね、と呆れていた。これは契約解除の説明にはなっても、報酬未払いの理由になってないのだそうだ。
何にせよ反論しなくてはならない。
債務不履行により契約解除した、と被告は主張しているわけで、おのずとカウンターの方法も決まってくる。
動画制作の業務実績を立証すればいい。
まずは実際に働いていた証拠として、業務日報をキャプチャした。
LINEで業務連絡を取り合う様子もキャプチャした。
被告から依頼された動画はYouTubeに納品済みなので、YouTubeのURLをリストにまとめた。
印刷した証拠書類に甲1号、甲2号と印を付けていき、原告用と被告用と裁判所用に三部用意した。
俺は書類作成の類が苦手なのだが、これらの全てが経営者に反撃するためのアイテムになると思うと心が踊った。

カウンターのアイテムは他にもないだろうか、被告の準備書面を隈なく読み込むと、一つの隙が見つかった。
被告は主張する、勤務時間は午前10時からなのに、お前は遅刻ばかりだと。だがZoomの採用面接で被告はこう言っていたのだ。
「弊社は午前10時から午後7時が基本的な勤務時間ですが、出社時間はある程度、自由にしていただいて構いません。休憩時間も同様で、弊社は結構ラフな感じで働く人が多いです」
俺はZoomの会話を必ず録画している。
フレックスタイムを明示するこの会話は、被告の主張を打ち消せるだろう。
書記官に録画の提出方法を質問した。
「被告と勤務時間について話し合ったZoomの録画があるんですが、どのように提出すればよいでしょうか?」
「それでしたらCD-Rに動画を入れて提出してください」
CD-Rって久しぶりに聞いたぞ。CDに"焼く"という行為が何十年ぶりで懐かしい。中学生の頃はMDに音楽を焼いて聴いてたなあ……動画編集ソフトのPremiere Proに面接の録画を読み込ませた。
自動書き起こし機能でテロップを挿入し、「出社時間はある程度、自由にしていただいて構いません」と被告が語った部分、つまり俺にとって有利な発言を赤文字で強調した。
オーディオエフェクトの「振幅」でボリュームを引き上げ、「ハードリミッター」で大きすぎる音声を絞り、「クロマノイズ除去」でマイクの雑音を取り除いた。
今まで色々な人間に向けて動画編集してきたが、裁判官と弁護士のために動画編集するのは初めてだ。

準備書面と証拠書類を弁護士にチェックしてもらった。
弁護士は次のように語った。
「おそらく次回の期日辺りで裁判所は和解を提案してきますよ。被告もそれに乗るはずです。これだけ証拠が揃っていれば、多少の遅刻や休憩時間の多さで契約解除するのは難しいですし、報酬未払いなんてもってのほかですからね。証拠調べに入る前に終わらせに来ると思います」

第4回口頭弁論は途中から場所を弁論準備室に移した。
つまり和解の提案が始まった。
流石は労働争議のプロ、ゲームの展開を読み切っている。
被告が提示する和解金は50万円だった。
裁判官も司法委員も和解を強く勧めてきた。あなたの請求は約100万円ですが、判決では請求が棄却されて0円になる可能性もある、和解なら50万円が確実に手に入ると。
俺は不快になった。LoLで降参された時の生温い不快感だった。
逆転が困難なLoLは、しばしば降参によってゲームが終了する。
降参が通ると画面が強制スクロールして、敵のネクサスが自発的に壊れる様を見せられる。なんとも不完全燃焼で気持ちが良くない。
俺は降参するのもされるのも嫌いなんだ。
「和解案には納得できません。このまま審理を続けていただきたいです。請求棄却のリスクを承知の上で判決を求めます」
続行だ。ネクサスは自分の手で、クレッドの斧によって破壊しなければならない。

東京地方裁判所を出てすぐの日比谷公園を歩いた。
口頭弁論が終わっても体内に熱気が溜まり続けていた。
民事訴訟が始まってから、いや、争うつもりで契約書にサインしたあの瞬間から、頭のもやが晴れ、自分でも驚くほどフットワークが軽くなった。
なぜこれほどまで民事訴訟は楽しいのだろうか?
ゲームには協力型のPvEと、対戦型のPvPがある。
会社勤めは仲間と協力するPvEだが、俺は組織に仕えて利益を上げる行為に喜びを見出だせない。
PvEは窮屈だ。法律が有給休暇の権利を保証していても、現場が破綻しない範囲で使用する、などと配慮しなくてはならない。

だが、人間関係の悪化で争いに発展した時、PvEはPvPへと変容する。
PvPではルールが絶対だ。社会人のマナーよりも会社のルールよりも、労働法や民法が優先する。
会社と揉める覚悟さえ決めれば、社会人の衣は剥がれ落ち、ゲーマーとして行動を起こせるようになる。
ルール上は問題ないから何をしてもいい、そういう状態が、ゲーマーの俺にとって楽しいのだ。

LoLは頻繁にアップデートが入り、調整内容がパッチノートに掲載される。
一見するとただの更新情報でしかないが、メタを発見しようとする強い意志によって、誰も知らない戦略へ化ける可能性がある。
それと同じように、経営者を倒そうとする強い意志によって、無機質な労働基準法が熱を帯び、全ての条文が武器として立ち上がってくる。
情報に生気を与えていく感覚、これが、たまらない。

FPS、TPS、格ゲー、対戦アクション、TCG、RTS、様々な対戦ゲームを味わってきたが、LoLの刺激には及ばなかった。
LoLに匹敵する対戦ゲームは存在しないと思っていた。
ようやく見つけた、この東京地方裁判所で。
勝訴判決は俺に巨大な刺激を届けてくれるだろうか?
そんなことは誰にもわからない。自分で確かめるしかない。
LoLを上回る刺激を求めて、第5回口頭弁論の準備を始めた。


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