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小島秀夫の「愛」を考える。

※この記事にはデス・ストランディングのあらゆるネタバレが含まれています。

先日デスストをクリアした。ゲームにおける移動をとことん追求したこれまでにないゲームシステム、生と死がより合わさった世界観、張り巡らされた伏線とミスリードによる壮大な物語、細部まで描写されたCG、豪華な出演俳優、音楽、小ネタ…面白かったポイントを挙げればきりがないが、それらは既に多くのファンが筆舌を尽くして語っている。私がここで述べたいのは、小島監督が描く「愛」である。人とのつながりをテーマに据えた本作のストーリーは、登場キャラクターたちが抱える人間関係を軸に展開していく。それを紐解いていくことで監督の描く愛を考えるのが本記事の趣旨である。

と、ここまで大仰なことを述べて私が小島監督をべた褒めすると期待して読んでいるあなたには申し訳ないのだが、ここから始まるのはデスストの女性表象批評である。私はラストに近づくにつれてアメリを中心とした女性キャラの描き方に疑問を持ったのだが、ざっと検索したところそのような記事を見つけられなかったので、本記事でその疑問を検討したい。また小説の方は未読なので、考察があくまでゲーム内で語られる部分のみになることをご容赦願いたい。

結論から言えば私はデスストで語られる男女関係には一部問題があると考えている。理由を簡単にまとめると、ストーリーが高度に理想化された女性とそれを追い求める男性という構図に集約されるからだ。以下、詳しく述べる。

愛する人を失った男の物語

エピソードタイトルになっている男性6人のうち、サム、クリフ、ハートマンの3人が妻子を失っている(クリフが追い求めるBBはサムであることが判明するので厳密に言えば子を失ったわけではないのだが、それが明かされるのはラスト直前であり、ストーリーのほとんどをBBを取り戻そうとする存在として描かれるので間違った認識ではない)。しかしその妻子について私たちプレイヤーにはほとんど何も明かされていない。

それは特に「顔を写さない」という形で現れる。主人公サムの妻ルーシーは何度かサムの昔の写真に出てくるものの、顔の部分はしみになっていてよく見えない(ドキュメントで彼女の手記をいくつか読むことができるが、それはあくまで付録であり、本編ではない)。

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この写真のサムが昔のノーマンに本当によく似ててビビる。

ストーリー中で語られるサムの過去もデッドマンが聞いた「噂」という体であり、実際のところはあいまいである(とはいえその話を聞いた後BBがルーとして表記されることからある程度事実であると考えられる)。クリフの妻リサも生命維持装置の中に入っていて姿がきちんと映らない。クリフがリサを撃つシーンで唯一顔が見られるが、それでもすぐタオル的なもので顔を覆われてしまう。私たちがリサについて知っているのはクリフの内縁の妻であること、サムおよびBB-28の母親であることくらいである。ハートマンの妻子についても同様で、登場するのは後ろ姿だけである。「1日に60回死んで60回生き返る」これはエピソード8“ハートマン”をクリアするとゲットできるトロフィーの名前だが、彼は1日に60回もビーチに行ってそのたびに妻と子の姿を探しているにも関わらず、その妻と子について私たちは全く知らない。


ここから見えてくるのは、キャラクターを語るにあたって重要なのは妻と子の存在ではなく妻と子を失った過去だということである。言い換えれば妻と子を失った男を描きたいがための存在なのだ。私たちプレイヤーは彼らが持つ思いだけを見せられ、その対象は透明化されている

付け加えれば、ダイハードマンも愛する人を失った男だ。ブリジットへの愛とクリフへの愛、ベクトルは違えど愛するどちらかを裏切らねばならない板挟みにあい、彼は結局クリフを自らの銃で失った。そしてブリジットも序盤で亡くなっている。クリフはこれ以上ないくらいに描かれたキャラクターだが、一方でブリジットの描き方は非常に計算されている。これについてはアメリの理想化に関わる問題なので後述するが、彼のストーリーにとっては失うまでの過程が重要なので、むしろ対象はしっかり描かれているといえる。

ビーチであなたを待っている

サムが大陸を横断して西に向かう最大の動機はアメリの救出である。彼女は何度もサムの前に現れては「ビーチであなたを待っている」と繰り返し伝える。そしてサムはそれに応えて西へ向かい、デス・ストランディングの真相を知ることになる。


前章で述べたようにデススト内には家族をさがす男性は描かれるのにその対象はほとんど述べられていないことを踏まえれば、アメリは唯一追い求める対象として詳細に描写される女性だということができる(フラジャイルやママー、ロックネは助力を求める対象であり、愛情からくるものではない)。しかしその存在はあまりにも属性過多で超越的だ。

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赤いドレス+ハイヒールという格好もフラジャイルなどと比べると女性的だ


まずサムにとって幼少期からビーチで一緒に過ごした彼女は危険を冒してまで救出する大切な存在である。関係でいえばアメリはサムの姉(少なくとも対外的には)であり、サムのアメリへの行動をみるとそこには単なる姉弟というよりもさらに強い結びつきが感じられる。またアメリ=ブリジットなのだから、サムの育ての親でもあり、更にいえば誤って殺してしまったサムをビーチから帰還者としてこの世に返した一種の産みの親というとらえ方もできるだろう。


そしてアメリはデス・ストランディングを引き起こし人類を絶滅に導く絶滅体であり、第6の絶滅ラスト・ストランディングとして全宇宙を消滅させることができる超越的な存在でもある。また彼女のビーチは上位次元ビーチなので、全てのひとのビーチをより合わせることができる。これは「個々のビーチが毛細血管だとしたら、アメリのビーチは心臓だ」というハートマンの言葉からも示されている。すべての人を滅亡させることができる反面、すべての人をつなぐこともできるのだ。


このことからアメリにはサム個人にとっての母であり姉であり、人類全体にとっても生殺与奪を握る存在だとまとめられる。アメリ、ブリジットを演じているリンゼイ・ワグナーは小島監督が「女神」と呼ぶほど敬愛する俳優であるが、まさしくデススト内のアメリは女神といってもいいような存在である。

しかしアメリは彼女の自由な意思で人類を滅ぼすわけではない。彼女が絶滅体として生まれたのは誰のせいでもなく、始まってしまったデス・ストランディングを止める力さえ持たない。彼女は偶然選ばれてしまった人柱であり、彼女がしたことはいつか必ず起こる絶滅を早めようとしただけだ。だからこそ自分を殺すか人類が滅びるかの二択を迫られたサムが銃を捨てアメリをつなぎとめようとするシーンが感動的なのだが、この感動を壊さないためにアメリがどこまでも理想的であるように描写されていることも併せて指摘したい。

ここで一度ブリジットについて考えてみよう。ブリジットは前大統領としてアメリカ大陸を再びひとつにしようと活動していた。それはプレイヤーがリサイクルをしたときに出てくるUCAの象徴としてのブリジットの姿からも見て取れる。しかしその一方で彼女は秘密裏にBB開発実験を進め、数々の非人道的なことを行っていた。BBは表向きには対BT用の探知機であるが、実際はカイラルネットワークをつなぐアタッチメントとして人柱にされている。そして実験のため脳死状態に陥ったリサを助けると偽ってその子供BB-01を利用し、それを知ったクリフがBBと共に逃げようとするところを撃ち殺している。このシーンはクリフを撃つのにためらうダイハードマン(当時はジョン)に「アメリカのために早く殺せ」と檄を飛ばし、最終的に彼の持つ銃の引き金を無理やり引くという中々ショックな場面である。しかもクリア後に解放されるドキュメントでは「大統領はクリフとBBを安全に確保することを命令したがジョンが背いてクリフを射殺したため指名手配された」という事実改変を行っていることもわかる。ここで描かれるのはアメリカ再興のためなら手段を選ばず遂行する過激な人物だ。

しかし待ってほしい。ブリジットの実態はアメリであるのだから、これらの行為はすべてアメリが行っているのと同義であるはずだ。しかし私たちはアメリをそのような過激な人物だとは思っていない。それはアメリとブリジットという同一の存在でありながらも二つの見た目を持つ人物を用いることで、その印象を分散させているからだ。アメリの女神的な役割を守るため、悪印象を及ぼす行為はブリジットの姿で行われる。あなたがこの指摘に納得できないのであれば、アメリのビーチで語られるサムが帰還者となった経緯を見返してほしい。クリフを撃つはずが誤ってBBも殺してしまったことを知って泣き崩れるブリジットは上から見下ろすようなカメラワークで映されておりどこか俯瞰的な印象をうける一方、ビーチでサムを抱き上げたアメリはバストアップで表情をしっかりと映し非常に情感を煽るようになっていることに気づくはずだ。言ってしまえばサムを誤って殺したのは彼女自身であり、ビーチで生き返らせたのもそれをなかったことにするためなので、アメリがサムを助けたことがアメリの特段の優しさというわけではない。なんなら自分が利用するために生き返らせるのである。しかしサムを愛おしむように抱えて「還してあげる」とあやす姿には慈しみ深い母親としてのイメージが付与されていて、それを見る私たちプレイヤーに否応なくアメリへの好意を引き起こさせる。

これらのことからアメリはデススト内で唯一希求される女性でありながら、その存在は周到に理想化されたものだといえる。

アセクシュアルな世界

同タイトルのドキュメントが依頼No.34『ジャンク屋の所までカイラル・アーティストを連れていく』をクリアすると追加される。これはブリッジズ本部の心理カウンセラーが書いたとされる文章なのだが、私はこの文章に違和感を覚えた。というのも「他者と接し、深い関係を結ぶことを恐れ」るようになった世界を指してアセクシュアルと形容しているからだ。

デミセクシュアルやパンセクシュアルなどマイノリティの性指向について言及しているという点は肯定的に評価できるのだが、その認識は一歩置いて考える必要がある。
文章内ではアセクシュアルを「他人に対して性的欲求や愛情を抱けない」と説明している。しかしこれは誤った説明だ。たしかにアセクシュアルは「他人に対して恋愛感情を抱かず性的魅力も感じない」性指向だと説明される。しかしここで重要なのは性愛的な感情を持たないからと言って愛情すべてが欠落している訳ではないということだ。家族愛や友愛は持ち合わせているし、恋愛的なパートナーではない強い信頼関係を求める傾向にあるというのも言われている。しかも「抱けない」という言い方は不可能を示す言い方であり、そこには能力の欠如というニュアンスが含まれる。これは性指向の説明としては適していない。異性愛者に向かって「異性しか愛することができない」とは言わないだろう(残念なことに同性愛者にはしばしばこういった言い方がされるが)。異性に対して性愛を抱くのは本人の指向であり能力ではない。
さらに少し長いが引用する。

肉体的な要因による不妊のせいではなく、出生率は激減した。それと並行して、性犯罪や性暴力も減少した。人が接触しなければ、誕生という喜びも、暴力という悲劇も起こらない。少なくともこの大陸の多くの人が、アセクシュアルとなってしまったんだ。

ここから見えてくるのはデススト制作陣もしくは小島監督自身に男女の性愛こそが人のつながり、つまり愛の最上形であるという認識があるのではないか、ということだ。
作中の発言を引いてそれをそのまま制作者の意見だと考えることは、制作者の創意を無視した短絡的な発想だとしてしばしば批判される。しかしデスストの世界はある程度現実世界を反映しているということは既に多くの指摘がなされているし、そもそもデスストは私たちの生きている世界のそう遠くない未来を舞台に設定しており、ゲーム内での過去として現代が語られることも多い。出演者に絡めたメタ的なネタも多く、特にドキュメントやメモリーチップなどの付録的な部分にはこのような現実を意識した文章がいくつも確認できる。問題にしているドキュメントだけが全くのフィクションであるとは言えず、むしろデスストを通して現代を語っているとみる方が自然である。とすれば人の接触の結果として命の誕生と性暴力を対照的に挙げるあたり、異性愛を中心に考えているといえる。

Tomorrow is in your hand.

ここまで長々と述べてきたが、まとめると次のようになる。

・愛する人を失った男性を描きながら、対象となる女性は透明化される。
・唯一対象となる女性であるアメリは高度に理想化されている。
・男女の性愛を最上視する価値観が垣間見える。

ということでデスストは「男女の愛を最上視しつつもそこで描かれるのは理想化した女性を希求する男性からの視線」というアンバランスな構図を抱えている。これが小島秀夫の描く愛なのであれば、それは非常に男性の異性愛的なまなざしである。

これらの文章は私にとってデスストへの低評価を意味しない。むしろデスストという世界に引き込まれているからこそ、こんなにも語っているのである。国道を全線開通させ、全施設の親密度も最高にするまではまだまだ配達するつもりだし、メモリーチップだって回収しきれていない。なんならフォトモードだけで数時間遊べる。

そしてデスストに登場する女性キャラはアメリや妻たちだけではない。フラジャイル、ママー、ロックネも非常に魅力的なキャラクターであり、彼女たちについても語るべきことはたくさんある。いずれは彼女たちについても何かかけたらと思っている。

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