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【かひょ〜ん用】第一回不穏婦人会ネットプリントの感想

はじめに

引用について

 本記事中で引用している短歌は特別に記載のない限り全て2024年3月に発行された第一回不穏婦人会発行のネットプリントから引用しています。

北谷雪さんの「不穏婦人会」vol.1発行のお知らせを引用しておきます。

第一回不穏婦人会の参加者(五十音順)
青糸りよ  さん
岩瀬百   さん
北谷雪   さん
毛糸    さん
小藤舟   さん
重田わたこ さん
(以下引用では敬称略)

 「かひょ〜ん」でみなさんの作品に感想をお伝えすることになりましたので原稿としてこの記事を作成しました。
 不穏婦人会の皆様におかれましては大変お手数ですが本記事の引用や感想について不快・不安に感じる、この感想を公開されるのはちょっと……etc.どんな理由でも全く問題ございません。ご意見・ご要望ございましたら常盤みどりのXアカウント(@c80m25y90k15)までご一報ください。
 直接の連絡は気後れする、怖い・不安な場合「かひょ〜ん」の他メンバーにご連絡ください。確認次第速やかにお詫びし本記事は削除をいたします。


この記事を読んでくださる方へ

 この記事は先述の通り「かひょ〜ん」のスペースで感想を話すための原稿です。私個人の感覚や感じた内容ばかりを記載していますので、ぜひご自身であらかじめ不穏婦人会さんのネプリをお読みになった後この記事をご覧ください。


改訂・訂正履歴

2024年4月13日
引用短歌の表記に複数箇所誤りがあり訂正いたしました
大変申し訳ございませんでした🙇
2024年4月20日〜23日
第二回スペース録音のため本記事を非公開化
2024年4月24日
「かひょ〜ん」二回目のスペース録音完了に伴い「この記事を読んで下さる方へ」と第二部・第三部の感想を追記し再公開


第一部 不穏なプレゼント交換会 より

「かひょ〜ん」24年4月12日23時〜スペース

春光をドアtoドアで路線図に足された遠回り虹みたい

小藤舟

 春の光がドアからドアを通り路線図に差し込まれている、直射ではない日光が路線図に照らされその様相が虹のようだと述べていると拝読しました。
 光が照らしたドアとドア、何のドアなのだろうと考えていたのですが一首中の路線図から片方は列車・電車であろうと考えました。もう片方のドアは詞書にある通り重田さんの御宅なのでしょうか。
 路線図は単線ではない限り複数の線路が色分けをされ何処から何処へ向かうかが図示されています。複数の色分け(行き先)に光が差し込むことで、その反射で新たな色が路線図に付き虹のように見える、虹みたいと言うことは複数の色がさらに加わるのか元々複雑に色分けされた行き先の多い路線図にさらに道が加わるようであるのかは読めませんでしたが「何処へでも行けますよ!」といった応援のようではなく「何処へも行けない」不安を感じる一首でした。

導線の赤か青かを迫られる醒めない春の終点はダム

重田わたこ

 二種類の読み方を考えました。どちらにも共通しているのは「醒めない春」から夢の中の情景であること、選ぶことの恐ろしさ。一つ目の読みは案内図の赤の道・青の道どちらを進むのか迫られた結果、進んで行った先は春のダムであった。二つ目は爆弾のような何かの解除を迫られた結果決められずにいるような情景を思い浮かべました。
 先の小藤さんの一首を受けての結句がダムであると考えると、重田さんの一首も色鮮やかな言葉で詠まれた中に仄かな恐ろしさを感じます。・・・・・・私だけでしょうか???

 お二人の二首を合わせて考えると、行き先がありすぎて分からなくなる、悩んだ先では落ちるしかない。何だかそんな感覚を覚えます。


最後には歪なできの腸詰を。わたしは柵を越えれぬ羊

重田わたこ

 とてもとても好きな一首。自身を柵を越えられない羊に例えた一首だと考えるのですが「最後には歪な出来の腸詰を。」の部分でとても悩みました。なぜ腸詰?歪?読み続けてゆきます。
 腸詰を。の読点から三句切れの一首として読み進めます。腸詰をどうしたいのだろうか、何の腸詰なのだろうかと考えてゆきますと、この一首の中に腸を持った生き物は主体のシミリーである羊しか存在しません。四区結句から自身を柵から出られない羊に例えていると読み考えていますので「食べてほしい」否、「食べられるしかない」と感じているのではないかと感じました。ここから出るためには姿を変えるしかない。歪なでき、腸詰を形成するために張り詰められるほどの余力もなくなりそうなのでしょうか、諦念の表れのように感じました。
 真っ先に「子羊たちは泣き止んだか?」のセリフを思い浮かべるのですが、それはさておいて、社会・会社・家庭・規範・誰かとの関係性、そういった何らかの範疇から脱出できない主体の苦悩を感じます。

うっとりと頬のうちがわ噛む四月こんな感じで消えたいね、ドリー

毛糸

 こちらもとてもとても好き。我を忘れるほどの何らかの衝動に身を預けて頬の内側の肉噛む春の季節、このような様子で消えたいねとクローン羊に呼ぶかける主体の様子と読みました。
 内側の頬肉を無意識で噛む様子は強いストレスを感じている様相だと感じるのですが、それをうっとり行っている、春の陽気の中で。その行為があたかも素敵なもの・素晴らしいものであると言いたげに主体は世界で最初のクローン羊であるドリーに話しかけているとは一体どのような情景なのだろうと感じます。
 クローン羊と言うことは、もしかすると主体自身も羊なのかもしれない。そして羊は反芻動物です。自身の体の一部を繰り返し食べ続ける行為を自分の分身に良いものだ語りかけていると想像すると不穏の一言以上に何かドキっとする様子を感じる一首でした。

 お二人の二首を続けて読むと、反芻、消化不良、脱出不能、堂々巡り、何だかそんな言葉が頭の中をよぎります。


春風になぶられながらりろりろと悲鳴みたいに歌いましょうよ

毛糸

 春風に時間をかけて打たれながら悲鳴のように歌いましょうと主体が誰かに呼びかけている様子と読みました。詞書から想像を膨らませれば、庭に吊るしたウィンドチャイムが春風に晒されたまま悲鳴のように揺れ続けている一首でしょうか。痛めつける春風、つけられるウインドチャイムの擬人化、リロリロのオノマトペが特徴的。後述しますがこのリロリロがどうしても不穏に感じられる一首です。

歌声はソドムの祈りりろりろと聴かせてよ、ねえマンドラゴーラ

青糸りよ

 リロリロとソドムの祈りを歌うマンドラゴラに主体は歌声を望んでいる。と読むのでしょうか。深読みをするのなら、と言う前置きを言い訳のように用いてこの先を述べますが、一首の中に死海近くにあったとされる退廃の街ソドム(ソドムの--と言うタイトルの陰惨な映画がありました。)聞けば絶命してしまう悲鳴を上げながら自身も息たえる伝説上の植物マンドレイク、そしてお二人の短歌に共通して登場するオノマトペ「りろりろ」は赤子の遊具という意味があります。

 お二人の二首からはどうしても言葉では表現出来ない恐ろしさを感じます。


100エーカー 陽のあたりすぎるこの庭の陰はじぶんで作るのですよ

青糸りよ

 100エーカーの広さを持つ庭をあげる、陰は自分で作るのですよ。と主体が誰かに告げている一首。東京ドーム約9個分の「広々とした」では表現しきれない広い庭は陽があたり過ぎていてそこに陰を作るのは自分自身であると告げているのですが、結句の「よ」の解釈について悩みました。
 陽の当たりすぎる場所から適宜隠れて良いんだといった風な励ましの「よ」でしょうか。それとも不穏なプレゼントですから、これから先のあなたの行動に依って陰は何処までもあなたを追いかけてくるのですよと言った語りかけなのか。はたまた別の不穏な意味があるのか。一首の中に陰陽の字があるように考え方・受け取り方次第で解釈が異なるだろうと感じました。
 不穏なプレゼントであるはずなのですが、私は励ましの一首として読みたいなと感じる強さのある一首だと考えます。ああしかし、やはりほんのりと不穏・・・・・・。

太陽は野いばらの棘を咎めない おいで 鋏を後ろ手にして

北谷雪

 太陽は野いばらの棘を咎めないから来なさい、鋏を後ろに隠して。と読みました。読みました、ではない。これでは何も読めていない。
 暖かな太陽は自然の全てを包むので、共生する野いばらの棘さえも受け入れる。そんな風にあなたを受け入れたい、隠した鋏を持ったままで良いからこちらにおいで。と優しく誰かを迎える一首として読むのでしょうか。
 ひょっとすると・・・・・・太陽(という壮大な存在)は野いばらの棘(程度の存在)を咎め(るまでも)ない。来るが良い、その隠した狂気ごと。
相手の悪意や攻撃性を矮小な物と評価し受けて立とうといった感じの一首なのだろうか。第一部で一番悩んだ一首でした。「かひょ〜ん」の他3名の読みが気になるところです。

 読みがまだまだ浅い気がするのですが、お二人の二首からは笑顔の表面に隠したうっすらとした悪意や陰口(悪い意味ではないのですが、言葉の選択が悪ければ申し訳ありません。)のような想いを感じます。


10,000のピースすべてに意味があるなんて世界の呪いでしょうね

北谷雪

 一万のパズルピースの一つ一つに意味があることを世界の呪いだろうと歌っている一首。主体が一万のピースを無数に近いものの例えとし、視認している世界そのものを細分化して確認しているような情景として読むと、どこをどう見ても何らかの意味あるもので世界が埋め尽くされている=余白・余裕のない恐ろしさを感じているのだろうかと感じます。そんな呪いをあらかじめ主体は抜き取っていたのかもしれません、その様子があの詞書だとすると・・・・・・。
 そして「無数に近いもの」とは何なのだろうかと考えました。真っ先に思いついたのはヒトです。みみずだって、おけらだって、アメンボだって、あなたもそう、わたしもそう、みんなみんな生きていているんだ友達で意味のないものなんて何一つない。とても崇高な呪いだと感じます。本当にそうなのでしょうか。

握りしめすぎた手の中ゆっくりと世界のピースは意味を失う

岩瀬百

 握り締めた手の中にある世界のピースがゆっくりと意味を失う。パズルピースを握り締め、使用不能な状態まで潰してしまう情景。それだけでも十分不穏なのですが、恐らくそうではないのだろうと読み考えます。ゆっくりと、しかし確実に握り潰した世界のピースとは何だったのでしょうか。先の北谷さんの一首の読みを踏襲したまま岩瀬さんの一首に当てはめてゆくと、oh…
 自身の肉体を最小単位の世界と考えてこの一首を読むとするならば、手の中で意味を失う、死滅してゆく細胞とも読めるでしょうか。

お二人の二首からは余儀のなさのような感覚を覚えます。


Spring(コートの中にかくまった花吹き散らす夜風)has come

岩瀬百

 春の訪れに気付きながらも同時に終わりを感じている主体が、夜風の中で散り乱れる花びらを匿うようにコートを閉じる様子と読みました。桜の花びらでしょうか。Spring has comeという春商戦のキャッチコピーのような言葉の中に植物の散り際と冷たそうな夜風があり、ヒトが思うほど春は美しいだけのものではないと主体は感じているのではないかと感じます。
 この一首に関しては、不穏さよりも美しさを私は強く感じます。

Curiosity(なまあたたかい月光を散りぢりに追う香気)killed the cat

小藤舟

 好奇心は猫さえ殺すという英国の諺の中に、生暖かな月光のもと誰かが匂香を追う様子を内包させた一首と読みました。明確な情景は思い浮かばなかったのですが、なまあたたかい月光・香気という言葉から追わない方が良い何か・誰かの意図的に残した香りを追いようとしている、その結果破滅を迎えようとしている主体の様子を思い浮かべました。

 ただ、お二人の二首に対して私は何か明確な読み違い、見落としがある気がしてなりません。これは「かひょ〜ん」の三人に確認してもらいたい。


第二部 不穏連作集 より

「かひょ〜ん」2024年4月23日22時〜スペース

 第一部で「絶対時間が足りないでしょうこれは」を強く感じましたので短い感想を書き「私は私は〜」と喋りすぎないように気をつけましょう。(楽しすぎて無理でした。)
 読めない・分からない作品は素直にそのままにメモを書いて本番に臨みます。皆さんの連作の中で私が一番好きな一首を太字にしています。

ようこそと聖女のような微笑みであなたは燃える舌を隠して
ひとごととじぶんんごととの境界をいつしか超えて苦い蜂蜜
軽やかにun-deux-troisアン-ドウ-トロワ爪先でわたしの影を踏んで留め置く
仲良しのトライアングル二等辺三角形がつくる鋭角

【不穏 × おんなともだち】 青糸りよ 

 上手な外面・上辺を聖女の微笑みと表現していてここまでは失礼かもしれませんが「よくある直喩〜」と思っていましたが、その後の燃える舌という比喩に感動しました。
 初〜二句のひらがな表記が主体と相手との境界を曖昧にしてゆくように感じられて好きです。「苦い蜂蜜」をどう読んだか意見が聞きたい。友達だけれど人の不幸は蜜の味、だけれどその蜜は自分も経験をしたような内容なので苦々しく感じているのでしょうか、友人の幸せを内心では苦く感じている?
 三首目は情景が上手く読めなかったので三人の意見が欲しい。わたしの影を踏んで留め置くのは誰なのか。記憶や記録をピン留めしているような、写真を貼り付けるようなイメージがあるけれど。
 四首目、理由を明確に出来ませんが好きだと強く感じます。どの一辺が欠けても三角形を形成できない。二等辺なので確実にどこかの一辺は短い。どの辺で角を形成しても直角よりも鋭い三角形の鋭角は何を刺すのだろうなどと考えるとゾクゾクとしてしまいます。

ちぎられたように翼が落ちていて洗ってみたら白い、さみしい
襟首の穴はあまりに深すぎてまた顔のないものと目が合う
日だまりにひとのかたちで揺れている翼の主はここにはいない
ほんとうによごれをおとすということがどういうことかわかりそうです

【不穏 × 洗濯】 岩瀬百

 全体的に上手に読めず申し訳ないと感じた連作。
 一首目は誰の・何の翼だったのだろうかと考えると不穏な気配はするのだけれど、千切られ落ちた翼を拾って洗う主体の様子を考えると不穏さよりも美しさ・切なさを感じる。
 二首目。襟首の穴、襟首が存在する衣類といえばシャツをイメージするのだけれど、襟首の穴がとは。その穴を覗くとあまりに深く、しかもその先からはこちらを見つめる目がある、ニーチェの言葉を思い出しますが、でも何か、うーん。
 三首目はシャツを干す様子と読んだのですが、この一首で前二首の主体が接していた生き物が翼を持った人型の生き物であったと想像しました。天使だろうか?と悩みつつ最後の一首へ。
 四首目、全てが開かれていている一首を読む時に私は極端なおだやかさ(子供のセリフとか主体よりも弱い物と触れ合う時の喃語のようなイメージ)または狂気を感じるのですが、この一首は後者。この衣類を着ていた生き物を、生き物との関係を主体はどうしたのだろう。

さらされず潜っていたい地下鉄の羞恥の内の窓際に立つ
糸杉は飛沫みたいな雪のせて見せつけるよう私を試す
本当へ帰りたいのはあなたでしょう?もうあの樹々は情景の孤島
温度など知らないままに陽を受けて手招くように墓石がひかる

【不穏 × 車窓】 重田わたこ

 確信に至る箇所がないので断定はしたくないのですが、お墓参りの連作と読みました。
 一首目でまず悩む悩む悩む、本当に悩む。どこまで主体は「潜り」たいのだろうか。読みが正しい/誤っている・良い/悪いはさて置いておいて、この一首が自分の中で咀嚼できなければこの後に進められない気はするのだけれど、なかなかに分からない。誰にも見せたくない感情の表現のような。
 二首目、現在地から墓地への移動?心象の移り変わりのようにも感じる。
 三首目「本当へ」の「へ」と「帰りたいのはあなたでしょう?」と言う台詞のような言葉回しに心を抉られるような感覚を覚える。「本当に」帰りたいのではなくて「本当へ」帰りたい。生きている限りどこにいても「本当」が無いと感じているのだとすれば、私はこの主体に向かって強く頷きたい。
 四首目「とても美しく感じる」と伝えるとまた三人に突っ込まれそうだけれど、とても美しく感じる。照れくさいので書かずに話す。

ままごとの娼館みたいな女子用のアパートに棲むマドレーヌたち
ベリーパイをバニラアイスで汚すことそんな恥にも慣れてゆくもの
だらしない暮らしに届く母の目の焼きこんであるパウンドケーキ
慎重に選んだはずのクッキーのどれも間違いだった気がする

【不穏 × 焼き菓子】 毛糸

 重田さんの連作の後に毛糸さんの連作で心がさらにグリグリ抉られてゆきます。(嫌な思いではないです、悪しからず。)親元を離れた主体が主人公の連作と読みました。
 一首目、女子用アパートに棲(住じゃないのですねoh.)むマドレーヌたち、画一的な、言い方は悪いけれど量産型女子の箱詰めのよう。
 二首目、初読で分からず三首目をヒントに読み直しました。三首目の一首で主体と主体の御母さんの関係性が分かる(気がする)、このお母さんはおそらくベリーパイとバニラアイスを一緒に食べるような作法を許さない人なんだろうなとか、なんなら一首目の棲むアパートを指定してそうな雰囲気まで感じてしまうなとか。
 その後の四首目で「参った、もう許してくれ」と言う気分に陥る。深読みをするなら、選んだクッキーは母へのアンサーなのだろうか、自身の内省なのか。ビスケットとクッキーは異なるけれど、ポケットの中で叩かれて(叩いて)叩かれて(叩いて)間違いだけが増えてゆくような。

モニターに今日も知らない人の顔よく遇うだけの隣人の顔
はちみつの粘度だけを摂取するために指をつかうのはちがうと思う
クリニックのチラシは片面刷りだから貼れるだけ貼る隣家のドアに
気に入りの窒息のひとつカンパーニュのみこんでいくとき甘いのど

【不穏 × ライフ】 小藤舟

 ご婦人方の連作にだんだんと飲まれて文章として成立しなくなっておりますが続けます。特に小藤さんのこの連作は分からなかった。この連作に登場する人物は何人(人種ではなく人数)だ・・・・・・・?
 一首目、モニターから見るよく「遇」うだけの隣人、二首目のはちみつ(食べ物)を指(触感)を使って粘度だけを摂取する様相とその行為に対する淡白とも感じられる「ちがうと思う」という台詞のような表現、三首目に至ってはどんな目的のために何をしているのか分からない。そして四首目の気に入りの窒息の「ひとつ」ひとつなので複数気に入りの窒息方法の存在が示唆されている。そしてこの主体にとって食物を飲み込む行為の意義は食事行為<窒息方法なのだろうかなど考えれば考えるほど分からない。
 助けてオジサン達。

白波に足を取られて同調はいつもすこしの退化と思う
カラメルはコールタールの海めいてそんなに誰から愛されたいの
水草を縁取る泡のひとつひとつ光る ちいさな産声として
不格好に溺れるように本心を告げて裸足の陸路をすすむ

【不穏 × あぶく】 北谷雪

 二首目の「そんなに誰から愛されたいの」で無事ノックアウトされました。スペース本番長々と話をしてしまいそうなので気をつけること。人魚姫を強く思い浮かべる連作です。「そんなに誰から愛されたいの」か私も世間を見てよく分からないのですが、共感とも異なり1、2首目が言葉として世の中に生まれたことを強く嬉しく感じています。きっと私より長く話す人がこの連作には居ると思うので書かない。


第三部 不穏な雑談タイム より

咲くことは呪いでしょうか足許に数多の死人しびとのねむる公園

青糸りよ「公園の桜」

 主体が咲いた花を見て美しく感じているかどうか私にはこの一首中から分かりませんでしたが、一般的に花が咲く姿は美しい。しかし、主体はその美しさが形成された眼前にある状態よりも花が咲くまでの過程に思いを馳せています。咲くために多くの死骸の養分を吸い取って咲くことは呪いだろうかと考えている一首と読みました。この考えが読みとして正しいか分かりませんがとても共感を覚えとても好きな一首です。
 花が他者の命を吸って咲くことを望むか望まないかは分かりませんし、花にそのような思考は介在しないのですけれど、そうであればその無作為に命を吸い取らなければ生きられない生体のメカニズムこそ呪いなのだろうと感じます。さらに言及するとこの一首では吸い取る対象を死「人」と定めている、何か隠喩のようですね、あなおそろしや。
 梶井基次郎の「桜の樹の下には」を思い浮かべる一首でもありました。

ゆっくりと息がつまってゆく人を見るとき人はマンボウの顔

岩瀬百「マンボウ」

 初読ではマンボウの顔の例えのコミカルさに息を吹き出し面白いなと感じながら拝読しました。ですが、すこし間をおくとこの作中の主体は「つまってゆく人」なのか「見る人」なのか、はたまた「その両者を見ている人」なのだろうかと思考が始まります。この思考が始まってしまうとこの一首が恐ろしく感じられる。後からじわじわくる不穏さ。
 マンボウの顔は正面から見ると口を開けて舌を出した人間のように見え、側面から見ても口を開いて目はうつろでどこを見ているのかいまいち分からない。そもそもこの一首のゆっくりと息が詰まってゆく様子とは何だろうと考えても状況は分からない。
 この一首の何が恐ろしいかって「どう考えても答えが出ない」のですよね。どう読みましたか「かひょ〜ん」のオジサン達〜!?

旋律は作為に満ちた檻めいて心臓はまだ震え止まない

北谷雪「THE ALFEEの和音」

 THE ALFEEと明言されているのでそのように読み進めますと、作為に満ちていると形容するほど緻密に考えられた音階や桜井賢、坂崎幸之助、 高見沢俊彦、お三方のパフォーマンスがまるで檻のようで心を離さない檻のようであると読んだ一首と考えました。ライブハウスの中の様子のようにも感じ、好きや素敵の形容詞として肯定的に「怖い」なのではないかと感じます。
 ですがここは不穏婦人会。あえて、と前置きして先を書きますと、文字通りTHE ALFEEの和音に文字通り恐怖する一首なのではないかとも感じます。感じるのですが何分学がないので音楽の話を理路整然と全く言葉にできない「ぐーんでダーンとくる感じ」のような言葉しか出てこない。「メリーアン」の冒頭の旋律なんとなく怖いとか、「愛をとりもどせ!」のコーラス部分がなんだか怖いとか。アーティストや曲に対する悪口ではなく言葉で説明可能な部分を超越して、聞いた時に本能的に「怖い」と感じる曲ってありませんか?
 余談ですが私はTHE ALFEEの曲だと「エルドラド」が一番好きです。

凧はもう見えなくなって少年がコバルトの死と繋がれるのみ

毛糸「よく揚がる凧」

 どこまでも空に揚がってゆく凧が空へと消えてゆく様子とそこに残された少年を思い浮かべる一首。凧はどこにゆくのか、残された少年はどうなるのだろうか、コバルトの死をどう読んだのか、そんなことを「かひょ〜ん」の野郎共に尋ねてみたくなります。全体に美しさを感じるのですが、それよりも恐ろしさを私は強く感じる一首でした。
 見えなくなるほど天高く登る凧に少年がもし繋がれたままであれば、とふと空想をしてしまいます。

あめちゃんは賞味期限という瑕疵をきっとはじめから覚えなかった

小藤舟「飴の賞味期限の短さ」

 賞味期限の短い飴は何が欠点であるかなんて初めから気にもしなかったと読みました。読みました?うーん?悩ましい。瑕疵と菓子の言葉遊びがあるのかなと感じながら、上手く説明ができないのですが「いのち短し恋せよ乙女」という言葉を思い出します。この一首においては恋じゃなくても良いですし、乙女じゃなくても良いのですが。
 飴の賞味期限の短さは確かに短いのですが、消費することはできます。それも長く。生きているだけならナンボでも生きていられるんだよなぁと思うと急にゾッとしてしまう。

奔放に大気を駆ける眩しさよ受け止めたくて逃れられない

重田わたこ「薄曇りの日」

 主体と太陽の間に薄雲りの空、雲の中を駆ける光の乱反射をイメージしました。初句から四句までを読むと私は爽やかさを感じるのですが、結句の逃れられないに強い不穏さを感じます。なぜ逃れられないのだろう。
 考えられるのはその光景の美しさに見惚れて動けなくなるようなイメージ。もう一つは光景全体が逃れられない、檻のように感じられる?うーん、うーん。

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