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みずにはすまない話。

見なければすむはずだった内面の海に静かに燻った炭

9月27日 
 読書、マラソン、水泳、弓道、バイク(諸々異論はあると思う、ごめんなさい。)長続きする「私の好きなこと」は必ず自己完結が出来る。とりわけ水の音だけを聞いて前に進めばいい、自分の好きなタイミングでやめてたっていい水泳が私はとても好きだ。
 図書館の本を返却するついでに併設されているプールに立ち寄った。平日の朝なら誰も居ないだろうと思っていたが、予想に反しレーンが埋まるくらい人が居る。帰ろうか悩んでいると「私は疲れたからアンタここ使っていいわよ!」と一人で来ていたお婆さんに叫ばれる。場のルールもお婆さんの距離感も分からずに面を食らってしまい、お礼の言葉が出てこない。「その場のルールや他者の親切もロクに分からない自分」が急に恥ずかしくなる。
 また誰かに話しかけられては困ると思いプールを見回す。勢いよく泳ぎタイムを測る学生さん、バテて止まりながらも笑顔で友人と話すお爺さん、泳がずに水中を散歩するお婆さん、幼児を連れて遊ぶ家族連れ。今まで周りを見てこなかったからか予想以上に色々な人がいる。その中で一人で勝手に悩みながら泳ぐ残念な私。水中の中に放り込まれた消し炭みたいだ。居るだけでその場が澱む。
 同じプールを共有して「水泳」と名前のついた運動をするだけなのに年齢も楽しみ方も全く違う。私は今本当に水泳を楽しんでいるのだろうか。何故ここに一人で来たのだろうか。気楽だと思っていたではないか。あのお婆さんはどんな気持ちで私に話しかけてきたのだろう。泳ぐことに人からどう思われるかがそんなに必要なのか。何でこんな事を考えているんだ。そうだ言葉が出てこなかったんだ。いやいや、めちゃくちゃ出てくるじゃないか。
 水泳は創作に似ていて、あのお婆さんは親切で自由な方だったのだろうと結論を出す頃には2km泳いでいた。「疲れたからアンタここ使っていいわよ!」と誰かに言えるまで私も頑張ってみよう。


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